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リーダーの仮面を読んで思い出した若い頃の記憶

先日、識学の代表、安藤広大さんの新著を読んだのですが、その時に、新卒の頃考えていたことを思い出したので、ゲーム設計の話も最後に入れつつ、少し記事にしてみました

識学自体は、色々と動画やブログ、本などを見て知っている程度なのですが、今回のこちらの本を読んで、新卒の頃モヤッとしていたことを思い出しました

自分の理想とする働き方は、「個々人の多様性を尊重し、みんな生き生きと力を発揮できて仲の良い環境」というもので、その実践の一環として、識学の記事や今回のテーマの本を読んでいたのですが、その時に、ふと私が新卒で入った日系メーカー企業で感じてたことを思い出しました

それは、

「真の多様性(ダイバーシティ)というのは、何をしていいのか、しちゃ駄目なのかをはっきりさせることだ」

という考えに至ったことです

空気読めなくて辛いことの多かった若い頃の話

新卒で入った会社は、いい会社ではありましたが、よくある日系の会社らしい感じで、空気を読むことが必要なことが多々ありました。

もちろん、普通にみんな空気読むことが出来ていましたが、私は脳の特性上、これが非常にやりにくいと感じていました。

とはいえ、私の周りや部署、そして、お世話になった工場の現場の方々はとても優しい方が多く、かなり良くしてくれたのですが…

でも、やっぱり空気を読まないといけないことは苦手で、特に本業の仕事とかが関係ないところはかなりモヤッとした記憶があります

例えばですが、(今はなき)中央研究所に勤務していたときは、みんな車通勤が普通だったので特に申請に問題はなかったのですが、工場勤務のときには、駐車場の台数が少なかった関係か、車通勤の申請ができるための明確な基準がなく、みんな申請しにくかったりしました

「◯◯な人じゃないと申請できないらしいよ?」みたいな、何かしら特別な事情がある人のみ申請できるということらしかったのですが、そのあたりもよくわからずでした…最終的には、車通勤している別の方から、空きがあるよ〜という感じで、申請の方法とか教えてもらった記憶があります

他にも、フレックス勤務はあるものの、その運用方法に決まりはなくて、なんとなく定時に来ないといけない雰囲気だったり、制服に着替える時間はどこまでが勤務時間なの?とか、有給休暇はどういう時にとっていいのか?とか、部署によっては始業前に打ち合わせをするところがあるけど、それって明文化されているの?誰に対しては敬語を使って、誰だとフランクに話していいの?とか細かいことを上げるとキリがありません

あまり本業に関係がなさそうなことばかりでしたが、当時はこういう細かいことが気になってしまい、変にもやもやして本業にも一部集中できなかったり、活き活きと働けなかった記憶があります

この体験から得られた、私の中の仮説が、

「良いこと悪いことを明確に定義することが真の多様性(ダイバーシティ)につながる」

というものでした。

結局、自分らしくあるためには、自分らしさを出してはいけないところ、出しても大丈夫なところを理解する必要があるのですが、それがわからないと、みんな周りを見て、合わせることしか出来ないと感じていたからです。

当時会社としても、ダイバーシティを推していたこともあり、この多様性というテーマについては色々と考えるところがありました

その後のもやもやと本との出会い

しかし、結局の転職した先(前職)も、同じような伝統的な日系企業の文化だったので、この考えは正しいのか?ということを実証する機会もなく、確信も薄れる中で過ごしてきました

起業してからも、そのあたりについては明確な方針がなく、とはいえ、個々人が生き生き働けるように、ルールをあまり決めなかったり、決めたり、中途半端な運営をしてきました

しかし、最近ではやっと新卒の頃感じていた思いは確信に変わりました

今回紹介した本の中でも、

「ルールがないと、みんなが見えないルールを探り合って疑心暗鬼になり、人間関係がギスギスしはじめます。」

とあり、これも確かによくあるなぁと思ったことでした

例えばですが、同僚が仕事ができたときなど、皆さん褒めるという行為をされたりしますよね?

褒め方一つとっても、人によって基準などが曖昧だと、

「自分のほうが売上を上げたのに、あの人はめっちゃ褒められてるのに、自分はあまり褒められていない」

みたいな不公平感が生まれますし、褒める側も、人によって違う対応というのが求められると、判断基準が無いので結局空気読まないといけないので辛くなってしまいます

褒められる側も、あいつのほうがなんで褒められるのか?みたいになると、険悪な雰囲気も確かに生まれやすくなる気はしますよね…

なので、そういう、一見細かそうなこと含めて、明確な基準による良いルール化をし、やって良いこと、悪いこと、その程度はどこまでか、を明文化していくことで、ストレスなく仕事を出来て、みんなのびのびと働けるんだろうなぁと改めて思いました

とはいえ、良いルールを作るというのは結構難しいことなので、その試行錯誤が大変なのかな、というのは実践している身として思いました…

そして、ゲームづくりでも同じこと言えるよなぁと少し思いました。

例えば、あるゲームがあり、例えばチームの成績は、イベントの参加率によって大きく左右される、というルールだったとします

これ自体は問題がないルールなのですが、一方で、他のチームメンバーがイベントに参加しない事に対して、何も手を打てない、つまり何も権限がないという状況では、成果を出そうにも出せないです

こうなってしまうと、メンバーは不満がたまり、やがて離脱してしまいますよね

データ分析をしてあとから分かることも多いのですが、特にゲームでの離脱は、こういうルールの不整合から起こることが多い印象です

特に、ゲームは楽しさを求めて行うもので、仕事とかではないので、ユーザーがこういう理不尽なルールにさらされると、すぐに離脱に繋がってしまいます

逆に、面白いゲームでは、細部に渡って公平なルールが設定されていることが多いと感じています

他にも、ゲームのバトルで、どうやったら敵を倒せるか、という、ゲームの面白さの根本の部分も結局ルールの塊なので、このルールを決めるというのは、楽しさの設計でもあるなと改めて感じました

このあたりは、識学の記事を見るとよく出てくる、権限と責任範囲の一致の話になりますが、ユーザーの権限で出来ることとその結果が見合うようになるルール設計が出来ているかどうか、というのは、面白いゲーム設計でも、現実の社会での、活き活きとした働き方設計でも、等しく重要なのかなと改めて思いました

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プレアナでは、「熱狂の構造化」の世界観の元、ゲームを中心としたエンタメの面白さの数値化を日々実践しています

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