『書く』に許しをー『書く習慣』を読んでー
ここ数日、1年以上放置していたnoteを毎日書いている。
子どもが活発に動くようになるにつれてパソコンに向かう時間がなくなり、書かなくなっていったnote。
再開しようと思ったのは、いしかわゆき著『書く習慣』を読んだことが大きい。
この本との出会いはあるネットの記事だった。
自分語りに肯定的な意見、そして文章の終わり方は完璧でなくてもいいという言葉。
まるでこの記事が自分のために用意されたようで、すごく嬉しくなった。
そもそもわたしがこの記事に出会ったのは、「自分語り ブログ」「ブログ 締め方」などのキーワードでネット検索していたからだ。
自分についての文章を書きたいのに、検索して上位に出てくる記事は自分語りに否定的なものが多い。
ブログに自分のことを書かずに何を書くんだと思っていたので、正直衝撃すらあった。
加えて、書きたいことがあって文章を書き始めたはずなのに、着地点が見えず、どうしようと考えているうちに文章自体をお蔵入りにしてしまうことがしばしばあった。
だが「ブログはこうして終わろう!」と書いてある記事を読むと、読者に何かを訴えかけることを念頭に置いたものが多い。
たしかに人に伝わる文章を書くという意思は大事だが、別に人に影響を与えたいわけじゃないんだよなあ……といまいちしっくりこなかった。
そうしてネットをうろうろさまよっている時に、上記の記事に出会ったのである。
記事は本の一部を抜粋したものということだったので、改めてどのような本なのかを調べ、すぐに購入した。
前述したネットの記事と重なる部分もあるが、特に参考になった、元気をもらった項目をいくつか紹介したい。
・「完璧主義」を捨てて、どんな形でもいいからおわらせて
・「いい感じのまとめ」が文章をつまらなくする
前述したように、ブログで文章を書き出すと締め方がわからず公開できないことがたびたびあった。
筆が進んできたのはいいが収拾つかなくなってきたな、もっとスマートなまとめ方はないものか、と頭を悩ませる。
しかし本によれば、とりあえず終わらせて次に進むことが大事だという。
極端な話、「まとまらないのでおわります」で終わらせてもいいというのである。
論文じゃないので結論なんかなくてもいいという著者の言い分に膝を打った。
・情報を集めることだけが「インプット」じゃない
わたしは、自分にとってよっぽど特別なことが起きた時に文章を書いていたし、そもそも書きたいという気持ちにならなかった。
だが「感情が動いたらそれがインプット」と著者は言う。
爆笑したり号泣したり激怒したりといった強い感情には毎日出会えないが、ちょっとした笑いや悲しみは日々生まれる。
そこに目を向け掘り下げれば、そこにはなんらかの「わたし」がいるのだと気付かされた。
・「うわぁ〜」と思ったら「うわぁ〜」と書いてしまえ
・「誰でも書けそうな文章」から抜け出す方法
締め方の話と似ているが、締める前段階で袋小路に入ってしまうこともある。
そういう時は大抵、話し言葉をなるべく使わずに、きちんとした書き言葉で、と体裁よく見せようとしている時だ。
この部分を読んで、話し言葉が混ざってもいいし、逆にその方が言いたいことが伝わるのかもしれないという考え方に変わった。
変に繕わず、頭に浮かんだ言葉をそのまま文章に落とし込んでみようと思う。
この本を読んでいるうちに、書くことのハードルがどんどん下がっていった。
パソコンに向かわなければ書けないと思っていたブログも、今はスマホだけで書いている。
前は人に読まれているか気になったが、わたしは自分語りをしたいんだと開き直れたおかげで、文章を書いたこと自体に満足できるようになり、読まれているかどうかはさほど気にならなくなった(もちろん読まれた方が嬉しくはあるが)。
『書く習慣』は、書きたいわたしたちに書くことを許してくれる本だ。
これからも、わたしのために、わたしは書きたい。
ありがとうございます。