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日本語がつなぐ昔の台湾

53歳女、二度目の台湾ひとり旅。初めてのひとり海外は旅行会社での「フリーパック」が私にできるやっとの冒険だった。あれから6年、私には台湾に訪ねていける朋友ができていた。朋友とは、彼女が日本語学校に短期留学した際、ホームステイ先を我が家にしたことがきっかけで仲良くなった。

 桃園国際空港から捷運、台湾高速鉄道、そして台湾鉄道で台南へ。朋友の故郷は新竹だが、彼女の仕事が休みになる週末に合わせての訪問を予定していたため、まずは台南へ列車の旅。車窓から見える古めかしい雑多な景色と沈む赤い夕日に旅情を掻き立てられて臺南站に到着、目にした光景にどこか懐かしい感覚を覚えタイムスリップしたそんな気分になった。

 初めての台南、GoogleMapを頼りに右往左往しながらホテルへチェックイン、そして夕食のお目当てである「虱目魚(サバヒー)粥」を求めて阿憨鹹粥へ。「你好」と入店した私のところへ年配のおばちゃんが近づいて来て「日本人?何がいい?一番人気はサバヒー粥。美味しいよ」と日本語でサバヒー粥をすすめてくれた。もちろんサバヒー粥を注文。テーブルに運ばれてきたサバヒー粥には、頭を取ったサバヒーが豪快に入っている。これぞ台南美食!と嬉しくなる。おばちゃんが「辛いのは大丈夫?醤油とこの唐辛子味噌を少し付けても美味しいよ」と小皿に用意してくれた。「ありがとうございます」と私。台湾初日、「你好」も「謝謝」もまだ言い慣れなくて照れ臭くさい、だから日本語でお礼が言えるのが嬉しかった。サバヒー粥を完食して「謝謝」と店を出ようとした時、おばちゃんが「気をつけてね」とひと言。サバヒー粥の優しい味とおばちゃんの言葉にお腹も心も満たされた。

 台湾2日目。台南のアマゾン「四草緑色隧道」とオランダ統治時代の城壁が残る「安平古堡」、「赤崁楼」「神農街」などを観光後、列車で朋友の待つ新竹站へと向かう。

 降り立ったその駅舎はアーチ型の窓と高い天井に特徴のある立派な古い建造物で、ハイカラと言う言葉がとても良く似合う粋な場所だと私は思った。調べると、新竹站は台湾で現存している最古の駅舎、日本人建築家がバロック様式で設計した作品とのこと。完成したのが日本統治時代の1913年(大正2)、まさにハイカラ時代生まれの建造物ということになる。迎えに来てくれた朋友に「とても素敵な駅ですね」と言うと、嬉しそうに「とてもとても古い駅です」と。

 朋友が案内する車の方へ行くと、そこには運転席に座る周さんがいた。周さんが「ようこそ新竹へ。こんにちは!周です」と。「你好!初めまして、SHIZUです」と挨拶をしながら、迎えが朋友だけだと思っていた私は驚いた。周さんは朋友の日本語の先生であり、小学校時代の先生でもあった。周さんが「僕は、戦前の小学3年生まで、日本の教育で日本語を勉強しました」と。戦前?日本語ができるのって日本統治時代の教育でなの?幾つ?と混乱した私は「周さんは何歳ですか?」と尋ねた。「僕は昭和10年生まれ、数えで85歳です」と周さん。なんと私は、85歳の高齢な方に車で迎えに来てもらったのかと、恐縮してしまった。だが、運転席から日本語で話し掛けてくる周さんを見ていると、周さん的にもこの出会いを喜び楽しんでいることが感じ取れた。そして運転席の周さんと助手席の朋友は親子のようにとっても仲良しだということも。

 このまま朋友の家に向かうと思っていた私を、周さんは南寮漁港へと案内してくれた。ここは新竹のフィッシャーマンズワーフのような場所で、人気の観光地でもあるらしい。夕暮れの漁港をしばし散歩した後、周さん行きつけの食事屋へ。周さんが「ここは調理場が上にあります。上にある方が清潔です。」と説明してくれた。周さんがそう話すだけあって、運ばれて来た料理はどれも気配りのされたプロの味で、こぢんまりとした食堂といった雰囲気の店内とのアンバランスさに、台湾らしいなぁと思った。

 そして今度こそは朋友の家と思って車に乗り込む私に「新竹で一番古いお寺に行きます」と周さん。えっ、もう真っ暗です、夜ですよ!85歳の周さんにこのまま運転させて大丈夫?と心の中で叫んではみたが、今日初めて会ったばかりの周さんの好意を断ることなどできない。

 新竹で一番古いお寺の「新竹都城隍廟」、清国の光緒皇帝によって全台湾を管理する城隍の神様が祀られた台湾で最も地位の高い神様がいるお寺らしい。光緒皇帝の名が出てくるだけで、その古さがとても凄いことを感じさせる。時間は夜9時近くだが、お寺の中も廟庭露店も賑わっている、この町の人たちにとってはまだまだ宵の口なのだろうか。お寺見学を終えて、文婷の家に到着した頃にはもう10時近かった。85歳の周さんをこんな時間まで運転させて、周さんの家族に叱られないのだろうか?と心配になる。「謝謝!晩安!」と挨拶する私たちに、「明日、朝9時に迎えに来ます」と言って周さんは帰って行った。

 台湾3日目。私たちを乗せた周さんの車は、周さんの友達の実家があるという苗栗県後龍へと向かった。到着したそこには、中国の古い映画に出てくるような家屋があり、門には赤地に金文字で「明榑陽光萬象新」「東昇紫氣千山秀」と書かれていた。門を入った私たちに「ようこそいらっしゃいました」と呉さんが日本語で出迎えてくれた。ああ、そうか、本を読んで知るだけでしかなかった日本統治時代の日本語教育を受けた人がここにもいる。「日本が小学校を造ったから私たちは学校で勉強することができた」と昭和9年生まれの呉さんが笑顔で言う、昔々の出来事だと思っていた時代が急に身近に感じられて現代と繋がった。「文旦は今が旬です、採りに行きましょう」と呉さん。文旦が実るその庭はまるでジャングルのように草木が自然のままに成長していて、その様が懐かしく、昔の実家にあった雑木林を思い出させた。ギンギンの太陽の下、汗をボタボタ流しながら、文旦、龍眼、人参果など、南国の果物狩りを私たちは無邪気に楽しんだ。

 みんなで食事をする餐廳に移動すると、朋友が戸惑いながら私に「家族といっしょに食事をする」と言う。家族?誰の?と状況を理解できないでいると呉さんの娘さんが「遠慮しないで、遠慮しないで」と日本語で私たちを個室へと誘う。個室に入ると大きな円卓が2つ、そこにはその家族のみなさんがいた。私たちに用意された椅子に着席すると円卓を囲んで賑やかな食事が始まった。呉さんが「ひろたにさん、この人とこの人のお父さんが兄弟で・・・」と日本語で親族紹介をしてくれる。どうやらここに集まるみなさんは呉さんの奥さん側の親族らしい。時々、呉さんの義妹さんが「グアングー」と話しかけてくる。「グアングー」は廣谷の中国語読み。「台湾のお粥はどうですか」と義妹さんの言葉を呉さんが通訳する。呉さんが何度も言う「台湾の田舎の人はみんな優しい親切です」「日本人に台湾の田舎を知ってほしい、昔のままの台湾です」と。親族で和気藹々と円卓を囲む風景の中に、呉さんが一番見せたかった台湾があるそんな気がした。呉さんたちの心温まるおもてなしに感謝し、別れの握手を熱く熱く交わした。

 次は周さんの従姉妹さんのお家がある苗栗県土牛へ。ここは周さんが生まれ育った町でもあるそうだ。従姉妹さん家は、周辺の果物農家さんが収穫した文旦などの果物を集荷・出荷しているとのこと。文旦は収穫してすぐはまだ硬く、1ヶ月ほどして柔らかくなったら食べ頃。先ほど呉さんの庭で収穫した文旦はまだ食べられないから、ここで食べ頃の文旦をご馳走になった。爽やかで美味しい〜♪そして周さんオススメの凍頂烏龍茶を従姉妹さんが入れてくれた。香り高く力強い深みのある味わいの烏龍茶だ。台湾で烏龍茶を飲みたいと思っていた私には感動の一杯。文旦と烏龍茶でお茶会をしているところにお客さんが来た。そのお客さんはここに果物栽培用品を買いに来ていた。周さんもそのお客さんと楽しそうに会話する。それから私に「僕はこの人と会うの2回目、この人僕のこと原住民だって。原住民は彫りが深い顔をしているから、僕の顔もそう見える。僕は人と争いをしないから、会うのが2回目でも、この人と仲良くなる。日本から来ていると言うと、この人の家の庭にバラがある、バラを採りに来ていいと誘ってくれた」と。バラ??が分からないでいる私を乗せた周さんの車は、お客さんこと李さんの車の後を追ってバラが実るという近所の庭へと向かった。車で約40分、その庭は南庄郷蓬莱村という山の中にあった。バラは芭樂と書きグアバと呼ばれる果物だった。バラを食べたことのない私が皮を残していると李さんが皮も食べるんだよと食べて見せてくれる。そうなのかと食べてみると皮の方が酸味も強くて美味しい。これが台湾人の愛する果物バラなんだ。李さんが高山茶を入れてくれた。原住民の栽培した烏龍茶とのこと。美味しい!まるでこの山の中そのもののような深みのある味わいと澄んだ香りだ。夕暮れの山に帰るシラサギの群れに歓声を上げ、私たちは李さんの庭を後にした。

 予定外に山奥へ行ったため帰りはさらに遅くなり、夕食後の帰宅がまたもや10時近くになった。私が「ありがとうございます。感謝しています。周さんは運転して疲れています、明日は休んでください」言うと、「僕は大丈夫です。また明日迎えに来て、駅まで送ります」と周さん。さすがに申し訳ない気持ちが強く、朋友にも「私は時間がたくさんある、新豊站から帰れる、だから、周さんには体を休めてほしい」と言った。たが、周さんは「大丈夫です、また明日!おやすみなさい」と帰って行った。

 台湾4日目。迎えに来た周さんは「今日は旧湖口を案内します。僕は新湖口に住んでいます。旧湖口には僕の元同僚が住んでいて、そこに行きます」と。着いた旧湖口こと「湖口老街」は赤レンガ造りのレトロで美しい街だった。人気の観光地でもあるようだ。「百年以上の歴史がある建物です」と周さん。百年となるとここも日本統治時代のものなのだろうか。周さんの元同僚の家は、赤レンガのアーチが連なる老街側に玄関口があり、入るとそこは奥へと奥行きのある造りで、中庭の向こうにある居間は、表通りの賑やかな雰囲気から切り離された静かな空間になっていた。あまりにも素敵なお家で、私は古い映画のワンシーンに紛れ込んでしまったような気持ちになった。周さんの元同僚さんが東方美人茶を入れてくれた。爽やかな香りと優しい味わいの烏龍茶だ。まるで表からここの庭まで心地よい風がスーッと吹き抜けるそんな感じがする。周さんは元同僚さんにも日本語を教え、川端康成の「伊豆の踊子」を読み、その舞台となった伊豆半島へ一緒に旅行したそうだ。東方美人茶を味わいながら、伊豆旅行の思い出ばなしを聞いた後、老街の食事屋へ。周さんが「この店はいつも混んでいて、人気がある。この店が休みだと観光客も少ない。」「湯板條の麺はお米で出来ている、これは客家人の料理です」と教えてくれた。丁寧に作られたスープとお米の麺の相性が良く美味しい、幸せな気分になる。この幸せの一杯で、私は客家人の日常生活に溶け込んでいるそんな気分になった。老街には周さんの元同僚や教え子が居たり、麻雀仲間が居たり、彼らと会話する周さんのいつもがそこにあった。

 錯覚する。私はいつの時代を旅して来たのだろうかと。本当にタイムスリップしていたのではと。たった3泊なのに、別の時間をとても緩やかに旅している感覚だった。実は新竹、IT関連の工場や企業が集中する「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる超近代的な地域で、中心部は超高層ビルが建ち並ぶ東京と同じ大都市だ。でも周さんが案内してくれた新竹は日本統治時代の面影が残る古い新竹。周さんが私に見せた台湾は、周さんが小学校で日本語を学んだ頃の台湾、その時代がとても良い時代であったと周さんが言っているように私は感じ胸が熱くなった。

 朋友を訪ねる台湾ひとり旅が、周さんのおかげでこんなにも心温まるタイムトラベルになった。謝謝!ありがとう周さん。そして周さんとの出会いをくれた朋友に謝謝!ありがとう!また、台湾に会いに行きます。


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