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階層的次元性でみる身体

三体論は、身体と空間は意識を挟んだ反転構造、もしくは身体と空間は意識の反転した反映体、という三つ巴の関係を語っている。その関係性をもっと具体的に見出したいと模索して、知覚器官にその構造が階層的に現れているのではないかと考えている。触覚、聴覚、視覚、そして知覚総体としての人体。

生物学的には知覚器官は外部刺激の受容体だが、三体論的には環世界と身体を反転的に結びつける蝶番的役割だろう。環世界(byユクスキュル)とは生物がその固有の身体性や知覚器官によって知覚しうる世界像。身体と空間を反転関係とみるなら、知覚器官は環世界と身体の具体的な変換機構かもしれない。

触覚次元、聴覚次元、視覚次元、そして知覚総体としての人体。受精卵から胎児までの人体発達の領域。胎内の領域なので、各知覚次元は、胎児の原・知覚だろう。自我を持った状態での知覚感覚は重畳的な知覚感覚となっているので、胎児の原・知覚とは別次元だ。

知覚の各次元にはさらに未分化状態と分化状態の二極性があると思われる。未分化とは知覚対象と分化していない状態、分化とは知覚対象と分化した状態。そして未分化状態の総体としての原・主体性、分化状態の総体としての原・客体性が構成される。そうして人間にいたるのではないだろうか。

生物学的には知覚器官とは知覚対象とそもそも分離していることが前提だ。一方、意識側からみた知覚と知覚対象の未分化・分化の極性の呼称に、分離前提の知覚器官の名を使用していること自体が理解を難しくしているかもしれないが、三体論的呼称とみていただきたい。

出生後は知覚器官が構成する環世界を基盤に意識構造が組み上げられていく。感覚を総動員して体感を構成し、体感が体験となっていく。環世界の空間構造が意識に内在化されていくと、体感や体験も内在化し、発話も内在化して思考が形成されていく。意識空間の構築。

意識発達、意識空間の構築は、未分化状態の総体としての原・主体性、分化状態の総体としての原・客体性、をベースに主体的自我や客体的自我の形成へと向かう。現段階では主体的/客体的自我はまだ探求中なので、話を知覚感覚に戻そう。

現代の人間は「見る」に主眼を置いている。「見」ているつもりのその感覚は、「視る」でも「見る」でもなく、世界を「観」ている。人間の「見る」は「視る」知覚だけでなく、触覚による嵩張り感覚と聴覚による位置感覚が視界に重畳して初めて「視る」が「見る」となる。

さらに「見る」に名指しや意味付け、経験や記憶も重畳してはじめて「観る」となる。私たち人間は世界を「見」ていると思って、実は世界を重畳的に「観」ている。否、もしかしたら本来的な視覚次元での「観/見/視」てすらいないかもしれない。

世界像および意識内イメージにはいずれも表象が不可欠だ。図(表象)は地(背景)から際立たないと表象たり得ない。図が地から際立つことを支えているのは触覚と思われる。触覚の嵩張り感が図を地から浮立たつのを支えている。人間の視覚は、光を対象化し、触覚の作用で図を地から浮き立たせて表象と化している。

知覚自体が知覚対象から分化し対象を知覚化するときには、図を地から際立たせないと対象が対象たりえないように、人間のどの知覚次元も、原・触覚に支えられていると言えるかもしれない。さらに分化の総体としての原・客体性、および客体的自我までもが、原・触覚に支えられていると言えよう。

逆にいえば、人間は原・触覚次元にすべての次元を凝縮させることで、人間としてこの三次元空間に生まれ出ているのかもしれない。外在知覚による表象も、外在知覚を意識空間に内在化させた内在表象も、それをベースに構築される自我構造も、すべて原・触覚次元に凝縮させているのかもしれない。

人間の受精卵の卵割後の胚発生時の三胚葉の内、外胚葉は皮膚系、神経系、感覚器に分化される。外胚葉は胚葉の膜的でもあり、膜とは外在との境界だ。外胚葉から皮膚系はもちろんのこと、外在表象の知覚器官たる感覚器、および内在表象をつくる神経系もが同じ外胚葉から分化するのは興味深い。

ちなみに内胚葉は消化器系、呼吸器系。外在空間を内在空間化する器官。中胚葉は骨格系、筋肉系、循環器系。環空間の時空を構成する器官と時空性を他の器官へ配分する器官。三体的には、内胚葉で外在と内在の交換を構成し、中胚葉で時空間を構成し、外胚葉で環世界を内在化させる基盤を構成している。

分化と相対的な極性の未分化。知覚対象と未分化な知覚状態。対象との一体感、は分化を前提にしている。一体感ではなく一体感以前。分化のためには未分化段階が必要だが、分化が顕現すると未分化は潜在化してしまうように思える。

未分化とは対象化以前。ということは関係性以前、記憶以前だろうか。そこに唯一あるとすれば存在ではなかろうか。未分化から未分化へはアプローチできないが、未分化から分化へ、そして再度自我の次元から未分化にアプローチする場合は、関係性や記憶の総体を通るのかもしれない。

自らに触れ、他者に触れ、自らの内に触れ、他者の内に触れ、そして触れえぬものに触れていく。未分化から分化、そして自我から再び未分化へのアプローチとはそのようなものかもしれない。

そして再び訪れる未分化とは次の分化への架け橋ではないかと思う。原・触覚次元に住まう私たちは分化した触覚を経験し、再び未分化な原・触覚にアプローチしたとき、次に開かれるのは原・聴覚次元だろうと思われる。触覚に縛られない聴覚とはどんな次元だろうか。

哲学用語に、器官なき身体、と、身体なき器官、という言葉がある。当該著作は未読なので三体の勝手解釈ではあるが、器官なき身体=外在刺激に依存しない意識的身体性およびその方向性、身体なき器官=意識性より外在刺激に依存する肉体的身体性およびその方向性。

階層的知覚とその総体としての人間の話をしているが、感覚器官と神経系はその現れであって、知覚とその総体は意識基盤および自我構造の構築の物語だと思っている。肉体内の意識ではなく、外在と内在の蝶番としての意識。外在と内在の狭間の意識、ではなく、意識の反映としての外在と内在、の反転へ。


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