クローゼットの奥で眠る

アラームの音から逃れるように、頭まで布団にもぐって眠っている。
そんなことをしても時間が止まるわけでもない。朝食も髪のセットも全部諦めてようやく遅刻ぎりぎりという時間になって、冬眠から覚めた動物のように、羽毛布団の穴ぐらから這い出る。そんなことを、毎朝くりかえしている。
昔夢想していた大人の自分は、ドラマの第1話みたいに溌剌と玄関のドアを開けて、朝日を浴びながら颯爽と仕事に向かっていたはずなのだけれど、その幻影はいったいどこへ行ったのだろう。

3年前、私は千葉の金融会社で事務系の仕事をしていた。
仕事は単調で、私が私である必要は全くなく、親ほども年の離れた同僚たちは一体30年何をしてきたのだろうと思うほど、業務に対して無関心で無知だった。こうなりたいと思える人も、目指すポジションも、やってみたい仕事もそこになかった。
同僚たちとも仲は悪くなかったが、ランチに行っても、デートの話や夜景を見に行った話、旅行やディナーの話しか出てこなくて苦痛だった。私はもっと好きなアニメやよくできた小説の話や、将来何を作りたいとかいう話をしたかったけれど、彼らはそういものに全然興味がないらしかった。
彼らも彼らで、横浜の夜景の美しさをが全然刺さらない私は扱いにくかっただろう。根本的な分かり合えなさみたいなものは、お互いに感じていたと思う。
自分の人生がその会社で消費されていくことがただ恐ろしく、私は何かに追われるように必死で転職活動して、出版社に入った。

金融系からエンタメ系へと180度方向性の違う業界に移ったので、業務内容だけでなく、会社の雰囲気も、勤めている人のタイプも真逆だった。それまでは「効率化と正確さと画一性」が求められてきたのが、「面白さと個性」という正解のないものを求める環境にやってきたのだ。
漫画や小説が山と積まれたオフィスに初めて入った時、世界が変わると思った。
何もかもが目新しかった。同僚はみな個性が強く、主張が激しくて、自分の好きなものを知っていた。みんなマニアックで、こだわりのタイトルを持っていて、話題を振ればいくらでも話してくれた。私の望んでいたものがここにある、と思った。

一年くらいのあいだ、嫌なことは一つもなかった。
それから、段々色んなことが見えてきた。編集部の特性、自分が本当に作りたいものの方向性、上司の人となりと、それとうまく折り合えないこと、会社の体制への疑問。
それはどうやら私一人の感覚ではなくて、改めて腹を割って話してみれば、多くの同僚も似たようなことを感じていたらしかった。
体調を崩し、それでも騙しだまし働いている人がいた。入社半年で見切りをつけて退職する人がいた。隣の席の後輩が青白い顔をしてモニターに向かっている横で、私などはかなりましなほうだった。そう思うことにしていた。

それでも、朝はまた陰鬱なものになった。布団の中で一時間近くもぐずつき、目は覚めているけれどいつまでも起き上がることはできなかった。軽い倦怠感を理由にして「体調が悪いので遅刻します」と上司にメールを打った。これであと一時間はここにいられる。窓から差し込む光は強い朝のもので、部屋のなかはもう眠っていられるような明るさではなかったけれど、それでも強情に目を閉じた。

退職の意思を固める人が増え、人材の流出が加速しはじめた。そんな時、同僚の中でも特に仲の良かった人から退職の意思を伝えられて、私も転職の覚悟を決めた。
「実務経験あり」での転職活動は、一度目と比べてあっけないほど簡単に決まった。

最終出社日も過ぎ、今は有給消化中だ。「旅行とか行かないの」と散々訊かれたが、人と会う約束があるくらいで、めぼしい予定はない。
長期休みなんて滅多に取れないんだから、せっかくなら海外、というのはわかるのだけど(現に私も最初の有給消化の時は旅行したし)、でも今は旅行に行く気分じゃなかった。元来、国外より日本の方が好きだ。そもそも、休みだから海外へ行くというステレオタイプに乗せられるのも癪だ。
そんなわけで、20日ばかりの休みの間、私はたいがい家にいて、家族みんなが出勤した後にもそもそと起きて、犬の散歩なんかしている。
起き抜けの顔にパーカーとジーパン姿で浴びる日光はどこまでもやわらかい。
なんの義務のない朝は、ひどく間抜けだ。

今の私は、「世界が変わる」なんて思わない。世界は地続きだ。今まできた場所と、今いる場所と、これからゆく場所しかない。どこだってそれぞれに問題を抱えている。それが許容できるレベルのものなのか、そうでないかの違いだけだ。止まない雨はない。永遠に続く晴天もない。使い古された言い回しだ。そういうことだ。

最初の転職が間違っていたということでもない。それはそれで、私に必要なことだったと思う。
でも、それは「この先ずっと必要」という意味じゃない。天気が変わるように、季節が移りゆくように、私に必要なものは移り変わっていく。そのタイミングに、軽やかに移り変われるようでありたいと思う。

会社を辞めた感慨も、新しい会社への胸膨らむ展望も今はあまりないけれど、それは別に諦念に打ちのめされているわけでもなく、どこにいたって、私はそのうち起きられない日々を迎えることになるんじゃないかという気がする。その中に、時折ドラマの第1話のように、朝日を浴びながらまぶしくドアを開ける朝がまれにあったらいいなと、まどろむように思う。

つかのまの朝、ただ心ゆくまで布団にくるまっている。

written by 満島エリオ

(一月共通テーマ:宇多田ヒカル「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」)

#エッセイ #仕事 #転職 #働く #休暇

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