#59「二人称」
君と素晴らしい 恋しよう
僕がTwitterなどでいつも尊い尊いと咽び泣いている韓国のアイドルグループTWICEの、日本語曲「One More Time」の歌詞である。
この曲は終盤の展開が特殊で、ラスサビのうねりが2回ある。ラスサビが始まったな、と思って聞いていると、途中でもう一度ペースを落とし、上の歌詞をリードボーカルのナヨンが歌った後にまた「ラスサビ」と呼ぶにふさわしいパートが始まる。面白いなあ、とも、変なの、とも思いながら毎回聞いている。
ただ、変なのはもう一点あって、この歌詞の言い回しである。
今回のテーマというか語り口はかなり夢がないし重箱の隅をつつくような言い草になると思うので、「うるせーなーオメーは」と思ったらすぐに引き返してほしい。読まなかったからといって、損をするようなことは(いつものことながら)一切書いていない。
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「君と素晴らしい恋しよう」というのは、誰に向かって言っているんだろう、と考えた。
君とっつってんだからそりゃ君に言ってんでしょうよ、というのが普通の意見だと思う。
でも、君に向かってというよりも、この言い回しのテイストは独白的だ。
文末の「——しよう」という言い切り方からしても、これは自分の「内なる決意とか目標」みたいなニュアンスに聞いて取れる。「この人とならきっとこの恋を素晴らしいものにできるはず」というような。
元々この歌の話題自体がどちらかというと未来に向いたものなので、そのニュアンスはわかってもらえるんじゃないかと思う。
じゃあ独白なんだわな、と考えると、それはそれでまた不可思議だ。
一人で、それこそ心の内でそう思うなら、「彼と」「彼女と」というふうに三人称になる方が自然だし、僕らはそうしていると思う。
この「君」問題は、日本語曲の多くの歌詞の中で見られるものだ(問題視する必要があるかどうかは別として)。
別の例を挙げれば、谷本貴義さんの「君にこの声が届きますように」という曲がある。僕ら世代のドストライクアニメ「金色のガッシュベル」のテーマソングだった。
タイトルからして既になのだが、言葉の言い回しからしてこれは一人心の中で抱く祈りの類だと思うが、この文の中には「祈り手」である自分自身と「祈られる対象」である神仏の類しかいないので、第三の存在である「声を届けたい相手」の存在を機械的に考えると、「君」という二人称の使い方が訳のわからないことになる。
flumpoolの「君に届け」の方が、構造的にはよりシンプルだろうか。
届けたい相手は「君」だし、思いのベクトルは「君」に向かっているのも間違いないはずなんだけど、念としてのその言葉はその人自身の内側にのみ存在するもので、その存在は「君」には感知し得ない。
だから、「君」が置いていかれているような気がする。根も歯もない噂に羽までついて、当事者の預かり知らないところでどんどん大きくなっていってるみたいな、そんな感じだ。
例えることによってより分かりにくくなってしまったかもしれないが、多分ぎゅっとまとめると「内面的な願いと三人称的な関係性が混在しているから変な言葉摩擦が起こる」ということなんだと思う。
多分こんな小うるさいことを考えているのは僕くらいのもので(僕だって常に目くじらを立てているわけではない)、こんなものはちょっとした研究にもならないものだと思うけれど、心を空っぽにして俯瞰的に曲を聴く瞬間があると、ふとそういうことを考える時がある。
それに、本当に歌詞を書き直してしまったら、例えば「君」を「彼」に書き直してしまったら、世の中の歌はこうなる。
・彼と素晴らしい恋しよう
・彼にこの声が届きますように
・彼はいつも優しいから——
・彼を思うだけで心が——
・彼が好き
「勝手に言っててくれ」という感じになってしまう。
これではまさにただの独白、ただのお惚気でしかなく(そうじゃなくてもお惚気な歌は多々あるけれど)、誰の共感も得られない恐れもある。
三人称である方が自然なところを、二人称にすることで僕たちは、共感のバランスをとり、誰にとっても「自分の歌」になりうる余白を生み出そうとしているのかもしれない。
よくよく考えたら与謝野晶子の時代から「君死にたまふことなかれ」と祈っているくらいですものね。
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実は元々は「歌詞」というテーマで書き始めた本稿だったのだが、せっかくなのでこのまま「二人称」というところに的を絞ってみよう。
たまにはブレブレな回も悪くない。古舘伊知郎とはとてもとても比較にならないが、さしずめライティングブルースである。
日本語には山のように二人称がある。
「君」を筆頭に「あなた」「おまえ」「貴殿」「あんた」「てめえ」「貴様」……なぜか乱暴な言い回しほどバリエーション豊かになっていくところに日本人の闇を感じてしまうが、とにかく色々。複数形も入れれば「各々方」「皆さん」「諸君」などさらに様々だ。
これが例えば英語では一才合切「You」に統合されてしまうのだから、ほんとうに不思議だ。
ただ日常生活の中で、二人称はどのくらい使うだろうかと考えると、僕個人で言えばこれが意外とそうでもない。
複数形なら「皆さん」とかはよく使うかもしれないが、友達に「お前さー」というくらいであとは大抵名前を呼ぶか、あるいは呼ぶこと自体を割愛してやり過ごしている気がする。
名前なんか、呼んでもらえた方が嬉しいに決まっている。
言い切るのはよくないが、ちゃんと名前を認識して声に出してもらえた方が、多くの場合気持ちはいいだろう。
それこそ「あなた」なんて、本当の意味で日常会話に使ったことなんか、ないかもしれないぞ。
前にも書いたかもしれないが(記事も60本近くなるとさすがにこの前置きを使うことがかなり多くなってきている。ごめんなさいね)、一時の僕は「名前」を呼べない子供だった。
小学校の時はなんてことなかったが、中〜高では友達を名前どころかニックネームでもほとんど呼ばず、大学生になってからようやくそれがまたできるようになった。思春期特有、あるいはそれをも超えるほどのシャイの呪いだ。
今ではほぼほぼ克服できたが、まだふとした瞬間にためらいなのか照れなのかを感じて口籠ってしまうことがある。コミュ障のつらいところである。
だから時々、「You」ですべてがまかり通る世界が羨ましくもなる。洋の東西を問わず、やっぱり「君」というのは万能アイテムらしい。
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カラオケで、片想い中の女の子が、一緒にいる好きな男子を意識しながら恋愛ソングを歌うなんていうシチュエーションがたまに創作物などで見受けられる(この場合の男女は別に逆でも良い)。
あるいは昔読んだ「星のカービィ」(ひかわ博一版)で、デデデ大王がリボンちゃんに向けて「いとしのエリー」らしき歌を「リボンちゃんマイラブ〜♪」と歌うコマがあった。
くだんのTWICEも、日本公演で「YES or YES」という歌を歌った時に、冒頭ミナが「Hey boy」というところを「Hey Tokyo」とアレンジしていて、会場中が絶叫していた。
ことほど左様に、置き換え可能なスペースとなっている二人称を特定の相手に置き換えることで、強力なメッセージを送ることができたりする。
汎用性と万能さ、共感の強さを持つ「君」。
強めに想いを投げることができる「名前」。
こういうところにも、言葉の妙味のようなものは隠れているんだなあとしみじみしてしまう。
デデデ大王の替え歌は部下のポピーから「オヤジ臭い」と突っ込まれていたが、存外馬鹿にできたものでもないのかもしれない。
僕はそんなカラオケ絶対にできないが。
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