大人社会と子供社会。天使が詩を読む

過ぎ去っていった人たち、忘れてしまった人たち、関わらなくなった人たちのことを想う。

ああ、今となれば、なんてこともない。私の人生に必要なかったから、今もう私の世界のいないんだ。相変わらず排他的で卑屈に、そんなことを思う。

過去が現在だったとき、それはそれは辛かった。

現在がまだ未来であったとき、なんの想像なんてつかなかった。

誰もが誰かに必要とはされているけれど、自分自身にとって必要じゃない人は山ほどいる。必要な人の方が少ないなんて当たり前のこと。

決して過ぎ去った過去や、過ぎていった人たちを愛そうなんて思わないけれど、憎んでもいない。どうでもいい人たちだった。どうしてあんなにも、こんなくだらない人やことに悩んだり悲しんでいたのだろう。

今私には必要だと思う人たちがいる。その人たちにはずっと、私の必要な人のでいてほしいと思う。私もその人たちにとって必要とされていたらいいのだけれど。

全てを愛そうなんて思わないけど、愛してくれる人たちがいてくれるのは本当に幸せなこと。私もその人たちを心から愛している。

誠実でありたいと思う。やっぱり誠実でない人とは上手くいかないもの。嘘をついたり、平気で約束を破るような人たちに割く時間や、愛なんてものはない。悲しくさせる、景色を見えなくさせる排気ガスみたいな人たちと共有するものも何もない。

誠実でいてくれる人たちには、できる限り私も誠実でいようと思う。愛をくれる人には、私も自分が持っている愛を全部あげたいと思う。あげても減らないし。というかあげたらあげただけ増えるし。

昔は酷かった自己嫌悪も気がついたら消えてた。私は私が嫌いじゃなくなった。なぜなら友達や周りの人たちが、ありのままの私を認めて愛してくれるから。だから、私なんて、なんて言わなくなったし、自己嫌悪でひとりで落ち込むこともなくなった。これはすごい成長だと思う。愛されていることを自覚すること、これがいかに大切か。認められていると安心して前に進める。許されていると立ち止まったあとの罪悪感も少なくなる。愛されていると安心して生きれる。

自分が自分らしくあると、認めてほしい人たちは認めてくれる。周りと同じように生きることこそ、暗黒のルールのような子供社会だったけど、大人の世界はこんなに楽しい。私ずっと大人になんてなりたくないって思ってたけど、今の方がずっと生きやすいし幸せ。子どもになんて戻りたくない。大人になったら社会に出て、社会の中で一生懸命いろんなこと我慢して、人間関係をもつれさせないように笑顔で会釈してはいはい言って、個性より集団を大事にして生きていかなきゃいけないんだと思ってた。大人は大変だとか、子供は自由でいいなあとか、ルールを守れない人はちゃんとした大人になれないぞ、とか、そんなことばかり聞かされた。テレビのドラマもそんな感じのことばっかりだった。でも、ルールを守れない人はちゃんとした大人になれないなんて、おかしいって思う。そのルールが何のためにあって、本当にそれを守ることが正解なのか、大人って意外と考えていないんだもん。大人って結構バカばっかり。頭で考えられない人もたくさんいるのに、子供たちに「こうでなきゃならない」なんて偉ぶって教えるんだもん。本当のことを分かってる人なんて、本当は少なかったんだね。

私も言うこと聞いて生きてきたけど、いつからかな、もう頭の悪い人たちの言うことは聞かなくなった。自分に不利や嫌なことがないならテキトーにハイハイって返事をしてテキトーにちゃんとやってるフリをするけど。子供の頃は本当に、大人や先輩の言うことはちゃんと聞かなきゃ、大人や先輩は何も分からない私たちにいろんなことを教えてくれるから、言う通りにしなきゃって思ってたけどね。

本当は偉ぶってなんかを教えようとしてくる奴にろくな人間はいないって、高校生くらいの時に気がついた。知ってるフリして、全部本に書いてあったことを暗唱してるだけだったりする。大人だからって、本当に理解して、自分の中で消化して、物事を話せているわけじゃない。自分が大人になったから分かる。大人だって何も分からない。

大人になると自分や他人に対する正直さを忘れてしまう人が多いみたい。”目上“の人を恐れて従うことしかできなくなる、って書こうとしたけど、それは子供の頃から同じだった。小学校からの低学年高学年、先輩後輩、なんていう教育システムは社会に出てからも続いてるらしい。結局大人たちが作り出したモラルや習慣は、子供社会まで浸透して、子供社会で(大人や大人が生み出したメディアによって)作られたシステムや習慣がだいたいそのままの形で大人の社会に移り変わっていくんだと思う。本当にありのまま、自由に生きていい時が、一生に一度も訪れない人たちがどれだけいるんだろう。自らの首を絞めている。社会の流れ、から抜け出さずにいた方が楽だと思っているのか、その流れ以外の存在を知らないのか分からないけど、私はそんな流れからさっさと抜け出して広い海に出てしまったほうがいいんじゃない?って子どもに言いたいかな。広い海に出たら、道も流れもないから、全部自分で決めて進まなきゃいけないけどね。自由は自由で大変だけど、自分の哲学や、自分の本さえあれば、生きがいのある人生になるんじゃないかな。


ああ、脱線脱線。

そういえば最近またたくさん勉強するようになった。1日5〜7時間くらい、勉強するようになった。ここ数ヶ月、数年間ずっと、怠惰というか、精神の揺れ動きの方を重要視して露わになった心の色でずっと生活に色を塗ってたんだけど、最近はその感情の起伏に捉われすぎる生活も疲れてきちゃったから、何かを学ぶことにした。勉強って楽しい。いろんなことを学ぶといろんなことを好きな人と話せる。(逆に話せなくなってしまう人たちも出てくるけど。。) 私の親愛なる友達はとっても綺麗な言葉を話すから、私も綺麗な言葉で返事ができたらいいなって思う。言語は特に、学べば学ぶほど言葉でいろんな表現ができるようになる。普通の人たちと話す分には今のレベルでもあまり困らないけど、教養豊かな人たちが話す魔法の言葉は見ている景色を何倍も美しくしてくれる。「そこに赤いりんごがあります。」っていうのと「小夜啼き鳥が棘に胸を刺して月明かりの下で咲かせた血の薔薇のような紅色の林檎が影を落としている」というのじゃだいぶ違う。(これはやりすぎだけど笑)  ユーモアと皮肉をきかせた美しい言葉を話せたら、見える世界の色は変わる。そして綺麗な言葉を話す人が好きだから、私もそういう言葉を話せるようになりたい。

それに最近は本も読み始めた。何年間もずっと読書から遠ざかってた。中学生の時は毎日読書してたのに、高校、大学は本当に本を買って読まなかった。サロメと、幸福な王子と、罪と罰と、リア王と、自省録なんかを読んだ。日本語でだけど。「愛の神秘は死の神秘より大きいの」なんて言葉が胸に刺さる。美しい…。

フランス語の詩もいくつか美しい詩を見つけた。というか美しい詩は山ほどあるけど、理解できる脳がないから、まだいくつかしか見つけ出せていないのである。親愛なる友達がひとつひとつ丁寧に説明しながら読み聞かせをしてくれた。寝る前にも、起きて朝ごはんを食べてからも、綺麗な詩を読んで聞かせてくれた。なんて美しいひとときだったことか。「渓谷で眠る人」という美しくて悲しい詩を教えてくれた。青から赤に染まる美しい自然の中で眠るひとりの男の詩。頭の中に浮かぶ景色があまりに静かで美しくて、言葉の力に改めて驚いた。詩なんていう短い文がこんなにも繊細な景色を見せてくれるんだもん。映画や音楽よりも本当はずっと深く奥ゆかしく美しい。入れる人だけ入り込める、そんな世界が言葉の中にあるんだもの。

親愛なる友達が私は本当に大好きで、こんな人に出会いたいとずっと思っていたし、こんな人になりたいとずっと思ってた。私の太陽なんだけど、この人といる時は私も太陽になれる。いつも幸せにしてくれる。この人が天使なんだって思ってる。この人ひとりいてくれれば、ここでの生活も孤独も我慢できる。たくさん勉強して、この人に綺麗な言葉をプレゼントしたい




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