【ゲームレビュー】アーマード・コア6-AC6は何に火を点けたのか-
はじめに
生まれ落ちた問い
先日、以下のようなニュースが流れた。
アーマード・コア6(AC6)が世界累計出荷本数300万本を突破したというニュースだ。AC6はフロム・ソフトウェアから2023年に発売されたゲームである。20年以上続くナンバリングタイトルの最新作であり、前作『アーマード・コア ヴァーディクトデイ(ACVD)』から数えて10年近くの月日が空いた。
AC6の出荷本数300万本とは特筆すべき数字である。前作ACVDの売上が約11万本。単純な比較で30倍近くになっている。何故、AC6は続編としてここまで成功したのか、それが最初の問いであった。
問いは連鎖する。先述したように、本作は前作から10年近くの月日が空いている。一体どうしてそれほどまでの期間が空いたのか。また、それだけ長い期間が空いてもなお新作を出したのは何故か。
本論ではこれらの問いに対して一つの答えを出す。そしてその答えは、この作品が伝えんとする主題の一つである。どうか最後までお付き合いいただきたい。
論を進めていくに当たって読者の皆様に一つの問いを投げかけよう。以下はAC6のキャッチコピーだ。
「火を点けろ、燃え残った全てに」
AC6は何に火を点けたのか。その答えが先述した問いに対する答えに繋がる。簡潔に結論だけ述べよう。AC6は火葬である。それが私の下した結論だ。
※以下、AC6のネタバレを含みます。ご了承の上お進みください。
アーマード・コアの歴史
アーマード・コアのこれまで
アーマード・コアシリーズの歴史は古い。初代アーマード・コア(AC)の発売は1997年である。プレイステーション用のゲームソフトとして発売されたこのゲームは、自由度の高いゲーム性、硬派なストーリーなどが評価され、今後の続編展開へと続く火種となった。
初代の時点でACシリーズの根底となるゲームデザインは完成されていた。特に、アセンブルは本作最大の特徴である。アセンブルとは機体をカスタマイズする行為を指す。このアセンブルに魅せられたファンも多い。
このアセンブルというシステムはどこから生まれたのか。ルーツを辿ると、一人の男に行き着く。河森正治である。
河森は『マクロスシリーズ』をはじめとして、多くのロボットアニメに関わってきたメカニックデザイナーであり、アニメーション監督だ。彼はメカニックデザイナーとして、初代ACに関わっている。そして、部位ごとのパーツを組み替えてオリジナルの機体を作るというアイデアは、彼が提示したものであった。
河森の出したアイデアをアセンブルというゲームデザインの根底に置き、ACの開発は進行する。メカニックデザイナーという特異な立場から出るこだわりによって、ACの独自性は増していく。
つまり、初代ACにおいて、デザイン面とシステム面は強く結びついていた。どう動くか、というアクション面と、どう見えるか、というビジュアル面。この両者が混ざり合うことで、ACという唯一無二のゲームが生まれた。
ファミ通のレビューにもあるように、初代ACのプレイヤーにとって、自分でアセンブルした機体を自在に操ること、それこそが初代ACの楽しみであった。それは河森の狙い通りである。メカニックデザイナーがゲームのコンセプトデザインに関わっていたからこそ生じた化学反応。そうして生まれた初代ACはミミクリのゲームであった。シミュレーターという言葉に代表されるように。
ミミクリとアゴン-ロジェ・カイヨワの定義から-
ミミクリという聞き慣れない言葉が出てきた。これはフランスの社会学者ロジェ・カイヨワが提唱した概念である。本節では、カイヨワの定義を元に、ミミクリとアゴンという2つの概念を説明していく。別の記事で説明した内容と被るため、より詳しく知りたい方はそちらも参照していただきたい。
カイヨワは遊びの分類原則を考え、以下のように示した。
カイヨワの言葉を借りれば、遊びとはアゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの4つの分類で示すことができると言う。ここで強調したいのが「ミミクリ」と「アゴン」の2つである。
カイヨワはミミクリの例として、ごっこ遊び、人形遊び、仮面をつけること、演劇を挙げている。
カイヨワはアゴンの例として、テニス、サッカー、競走、チェスといった種類の遊びを挙げている。
初代ACはミミクリとアゴン、両方の要素を備えていることは明らかだ。アセンブルした機体を複雑な操作を通して動かすこと。これはミミクリの楽しみである。一方、その機体を使って敵対者と戦闘をすること。これはアゴンの楽しみだ。では、どちらの方が色濃いか。ミミクリである。
それは先述したように、河森の影響も大きい。だが、それ以上に、当時のフロム・ソフトウェアがどういう会社であったか、それが関連しているとJiniは指摘する。
本来アゴンには勝負の始めにチャンスの平等を求める。ゲームにおいて、これはゲームバランスやレベルデザインにおいて実装されるものだ。だが、この点においては初代ACの評価は芳しくない。初代ACの良さは、ここまで述べてきたように、アセンブルを軸としたミミクリ的な、自分が作り上げた機体を動かすという点にあるのだから。
初代ACはミミクリのゲームであった。その系譜はアーマード・コアシリーズにおいて続いていく。大きな転換点である、『アーマード・コア4(AC4)』が発売されるまでは。
AC4と宮崎英高
AC4は2006年に発売されたシリーズ11作目の作品である。このゲームのディレクターを務めたのが宮崎英高である。
現在フロム・ソフトウェアの代表取締役である宮崎は、伝説的なゲームディレクターだ。『Demon's Souls』、『DARK SOULS』をはじめとした多くのゲームに関わっている。記憶に新しいところでは爆発的にヒットした『ELDEN RING』も、彼がディレクターとして創り上げた作品だ。米タイム誌の選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選出されるなど、国内外問わず彼の評価は高い。
そんな宮崎が手掛けたAC4はどのようなゲームになったのか。結論から言うと、これまでのACをブラッシュアップさせ、アゴン寄りのゲームになったのである。
アゴンを突き詰めることは、ミミクリとのコンフリクトを生じさせる。マダミスといった、その両者を内包するゲームもあるが、ACはそうではない。
福沢諭吉は『文明論之概略』の中で「一身にして二生を経るが如し」と述べた。2つの生涯をこの身で経験したかのようだという意味である。江戸時代の幕藩体制から、文明開化を経て、明治時代の立憲君主制を生きた彼と、ACの変遷を重ねることは無意味ではあるまい。
アーマード・コアシリーズはその歴史において、ミミクリとアゴンという2つの対立を内包していた。それが、これまでのアーマード・コアであったのだ。
AC6の誕生
AC6が選んだもの
これらの経緯を踏まえてAC6は発売された。ミミクリとアゴン、どちらの生き方をAC6は選んだのか。
本作のディレクターは山村優である。『DARK SOULS(ダークソウル)』、『Bloodborne(ブラッドボーン)』のプランナーを経て『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE(SEKIRO)』のリード・ゲームデザイナーを担当。AC6でディレクターに就任した。
山村がディレクターをするようになった経緯を開発陣は以下のように語る。
AC4に携わった宮崎がプロトタイプを作り、その後山村が完成させたのがこのインタビューから分かる。それ故に、AC6のゲームデザインはアゴンの要素が強い。更に言えば、既存のACを換骨奪胎したと表現できるほどに、その変化は著しいものであった。AC6は根本のバトルシステムに大きな手を加えたのである。
このスタッガーというシステムがAC6のバトルにおけるメインだ。攻撃を継続して敵に当たることで、敵が短時間動作不能になる。攻撃をし続けることにインセンティブが生じ、ヒットアンドアウェイを中心とした持久戦は不利になる設計だ。そして、本作の敵(特にボスキャラに顕著だ)はスタッガーを前提としてバランス調整をされている。
山村の手掛けたSEKIROでも似たようなシステムが存在している。SEKIROで実装されていた体幹ゲージは、同じく攻め続けることにインセンティブを生じさせる。アクションゲーム的な、アゴン的な遊びの楽しみを最大化するために、山村は意図的にこれらの要素を組み込んでいる。
ここに宮崎から継承された、新しいフロム・ソフトウェアのアクションに関する思想が集約されている。先程引用したように、「世界観のリアリティ」と「ゲームデザイン上の合理性」は常にコンフリクトである。山村もまた、"スタッガー"という「ゲームデザイン上の合理性」を重視し、プレイヤーがアクションを通じて体験する、アゴン的な楽しみを選択したのだ。
AC6が捨てたもの
では、これまでのACにあったミミクリの要素は削除されたのか。それも違う。AC6はむしろ、これまでのミミクリというアゴンの対立をアウフヘーベンさせて、新たな境地へと向かおうとしている。
初代ACで河森達が生み出したアセンブル。その精神はAC6でも生きている。山村はアセンブルによって、アクションの"手触り"が変化すると示す。パーツの組み合わせによってアクションの質が変わる。初代ACから受け継がれてきたアセンブルの妙。それにもまた注力することで、過去の要素を継承したと言える。
しかし、その一方で全てをそのまま受け継いだ訳では無い。
初代ACにおいて醍醐味と言われた複雑な操作。それを直感的になるように整理したのである。これは新規プレイヤーにとっての配慮であると共に、ミミクリ的な要素の削減と言えよう。複雑な操作を通じてアゴン部分に負荷をかけることで、ミミクリの没入感を増やし、その帰結としてアゴンの要素も高まっていた。複雑な操作性の中にミミクリとアゴンの融合があったことは興味深い。
この点を詳しく説明しよう。一見すると、"ターゲットアシスト"はONとOFFを切り替えられる点で、両方のプレイヤーへの配慮がある。だが、それは両者に対する適切な配慮であるとは言えない。この切り替えはあくまでも選択肢の1つでしかなく、前者に対する後者の優位性は明らかに低くなる。実際、私もプレイをする中でほとんどの場面でONを選んでいた。
既存のプレイヤーにとってもこの点は賛否両論であり、問題点を指摘する意見もある。
MT氏の指摘は鋭い。これまでのACらしさをAC6は捨てたと表現しても過言ではない。
好意的な表現をすれば、これは継承だ。親であるACシリーズの醍醐味をそのままに、根本的なシステムを作り替える。否定的な表現をすれば、これは便乗だ。旧来のACアシリーズのファンからすれば、自分の求めていた遊び方を否定されることに他ならない。積み上げてきたブランドイメージに便乗し、製作者のエゴを塗り隠す。AC6の改革とはそれほどまでにラディカルであったのだ。
このAC6と旧作品の対立の図式は、革新と伝統の対立と構造的に類似している。更にそれは子と親のアナロジーで語ることができる。AC6は親殺しを成し、その業を背負う。果たしてそれを制作者たちは意図していたのだろうか。
親殺しと解剖
AC6はACシリーズの子でありながら、旧作という親を殺した。何故その選択肢を選んだのか。そこには、徹底的に親の遺骸を分析する冷静な解剖医の目があった。
引用したのはAC6のプロデューサーである小倉康敬の言葉である。ここに、フロム・ソフトウェアが成し遂げた腑分けが見て取れる。それは狂気的とまで言える削ぎ落とし、抽象化に他ならない。複雑に絡み合った要素という筋繊維を寄りわけ、構築された骨格を取り除く。後に残るのは鼓動を止めた、心臓という名の核。それを掴み上げ、後へと続く子の糧としたのだ。
フロム・ソフトウェアは世界的なディベロッパーである。従来のファンが何を重視しているのか、知らない筈がない。それらは過程において見つけられた。だが、苦渋の末に決断する。解剖台から取り除かれた部位は、やがて一纏めにされて火葬場へと向かう。
それは子として、筆舌に尽くし難い痛みを伴う。その爪先の一変まで、先人達の思いや、従来のファンの思いが詰まっている。針の筵を一歩一歩踏みしめるように。彼らの道程を思うと、10年近くの開発期間も頷けた。
「一度生まれたものは、そう簡単には死なない」
ゲーム中に紡がれるその言葉には、開発陣の思いが込められている。彼らはリブートさせようとした。リソースを注ぎ込んでも、回収できるかは分からない。ACVDの売上は11万本。『ELDEN RING』が1700万本売れる中で、企業としてどちらを選ぶべきかは明白だ。それでも、彼らは「そもそも『AC』を作らないという選択肢はありませんでした」と言う。
親を解体し、子の糧となす。そうして残った全てに火を点ける。故にAC6は火葬なのだ。視界を埋め尽くす茫々と燃え盛る火の海。眼前に広がる光景を見て、子は何を思うのか。
フロム・ソフトウェアには宮崎英高という生きた伝説がいる。彼の背中から何を学ぶのか。それもまた、親と子のアナロジーで示される。人はやがて死ぬ。いつまでもその庇護の下にいるわけにはいかない。巣立ちの時に羽ばたくのは、いつだって自分の意志だ。
そうしてAC6は飛び去っていく。灰となった親はそれ見て何を思うのか。その答えはAC6の中で示されていた。
親から見た子
ハンドラー・ウォルターという「親」
AC6ではハンドラー・ウォルターというキャラクターが登場する。プレイヤーが操作する主人公621の雇い主であり、彼の命令に従って、プレイヤーはストーリーを進めていく。ウォルターとの関係はあくまで主従にある。彼は雇い主であり、621はその飼い犬でしかない。
だが、ストーリーが進むにつれて、彼の人となりが見えてくる。ミッションが終わるたびに621を労う。他のキャラクターに621を馬鹿にされた時は、それに反論する。621とは距離を保ちつつも、その身を案じる姿は、親のそれであった。
そのような視点に立つと、彼の真意も見えてくる。ゲーム内において、傭兵とは使い捨てされる駒に過ぎない。彼もまた、多くの傭兵を失ってきたことがストーリーの中で示唆される。情がわかないように。そんな彼の思いを、プレイヤーは察することができる。親の愛情に気づくのは、いつだって子の特権なのだ。
ストーリーの中で、621を使って何をしようとしているのかが明らかになっていく。彼の行動理念は「古い友人との約束を果たすこと」にあった。今は亡き友人たちの意志を継ぎ、彼は行動していたのである。
彼は常に言う
「これは、ある友人からの私的な依頼だ」
真意は違う。友人だけではない。彼からの依頼でもあるのだから。けれどもそれを彼は言わない。雇い主と傭兵と、その間に引かれた一線。それを乗り越えてはならないという、病的な信念。彼は自分自身を雇い主として律する。親と子はあくまでメタファーであり、明示してはならない。そんな不器用な思いが、彼という人間を縁取っていく。
ストーリーの終盤、彼はその思いを吐き出す。
「621 これは ある友人からの… いや… この俺からの ごく私的な依頼だ」
そこで語られる真意。ここにあるのは雇い主と傭兵ではない。一人の人間同士の会話であった。そして、ウォルターがハンドラーとしての自分ではなく、ここまでひた隠しにしてきた、親としての自分を見せた瞬間である。
彼は託した。指示でも命令でもない。ただ、願うようにと。遺言のようにも思えた。病床の親が語る、細雪のように、淡く微かな言葉。ここに来て、意志は託される。その営みこそ、親から子へと託される襷に他ならない。
親殺しをする子、そして
だが、621は選択を迫られる。自らの判断によって、親とも言えるウォルターを裏切るルートもあるのだ。
そしてその最終盤。任務を果たした621の前に立ちはだかる最後の障壁。それがウォルターである。
ウォルターとの最終決戦。互いの命を削り合いながらも、ウォルターの口からは一切の恨み節は出ない。さざなみのように寄せては返す心の波紋。それが溢れた時に、凪が乱れる。
「コーラルを焼けば…俺たちの仕事は終わる…」
「お前が稼いだ金だ…」
「再手術をして…普通の人生を…」
普通の人生という言葉の重さ。それは子の身を案じる親の思い。全ての仕事を終えて、帰る場所。人はそれを家と呼んだ。彼は親として621を見ている。それはこの瀬戸際においても、殺し合いの最中でも変らなかった。
やがて至る決着。
「友人たちの…遺志を…」
ウォルターは最後に銃口を向ける。限界を向かえてもなお、彼の歩みを進めるのは、友人たちに託された遺志であった。
しかし、徐ろに、彼は銃口を下ろす。
それは満足気な声。ここに来て彼は悟った。621に友人ができたこと。何より彼は知っているのだから。友人の遺志を継いだ彼には、その重すぎる意味が。
そして、2人の関係性は雇い主と飼い犬でも、親と子でもなくなる。子の巣立ちを見た親は、生身の人間へと戻るのだから。それを見たウォルターが何を思ったのか。火葬され、灰となった親の思いがそこにはある。
ハンドラー・ウォルターという「親」の物語。そして親殺しをする「子」の関わり。このイニシエーションを通じてフロム・ソフトウェアが伝えたかったこと。それこそが、AC6に込められた思いなのだと私は言いたい。
未熟な子を育て上げ、親の庇護から離す時。そこには葛藤や障害があるだろう。だが、それは祝福すべきことなのだ。立って歩くその先にしか道はないのだから。
AC6は何に火を点けたのか
AC6は親であるアーマード・コアシリーズを解剖し、その核を受け継いだ。遺った全てに火を点け、親の火葬とする。それが、私の答えだ。
何故、AC6は続編としてここまで成功したのか。一体どうしてそれほどまでまた、それだけ長い期間が空いてもなお新作を出したのは何故か。その答えは、火葬という隠喩によって示される。
AC6の辿った過程は、私達自身にも繋がる。私達もこの歴史の中で、子として生まれ落ちた。もちろん、親と共存する道もある。だが、ここで示された親殺しのイニシエーションを通じて初めて、得られるものもあるはずだ。
そしてそれは、親の小ささや限界を知るといった残酷な行為では決してない。むしろその過程を通じて、その背中に気づく。
作家の向田邦子は厳格で暴君だった父を回顧し『お辞儀』というエッセイを書いた。父が勤め先の社長へとお辞儀をするその背中を見て、心情を綴る。
私達は時と共に「親」となる。それは歴史の中に生きている以上、次世代の「子」をもつという点で真だ。その時にどんな背中を見せるのか。骨の髄まで解体されて、使い尽くされるなら、それが本望だ。燃え遺った灰にさえ、やがて火を点けてほしい。
AC6には河森正治も参加している。私はそれが、どうしようもなく嬉しい。
参考
ファミ通「初代『アーマード・コア』が発売された日。カスタマイズの自由度と操作難度の高さに驚きハマった3Dメカアクション【今日は何の日?】」
ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』
ファミ通『アーマード・コア6発売記念インタビュー』
ゲームメーカーズ「『ARMORED CORE VI』は何をコアと見据えてリブートしたのか。ポジショニングから見る、ゲーム開発とマーケティングの密接な関係【CEDEC+KYUSHU 2023】」
向田邦子『お辞儀』
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