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【ゲームレビュー】アーマード・コア6-AC6は何に火を点けたのか-

はじめに

生まれ落ちた問い

先日、以下のようなニュースが流れた。

アーマード・コア6(AC6)が世界累計出荷本数300万本を突破したというニュースだ。AC6はフロム・ソフトウェアから2023年に発売されたゲームである。20年以上続くナンバリングタイトルの最新作であり、前作『アーマード・コア ヴァーディクトデイ(ACVD)』から数えて10年近くの月日が空いた。

AC6の出荷本数300万本とは特筆すべき数字である。前作ACVDの売上が約11万本。単純な比較で30倍近くになっている。何故、AC6は続編としてここまで成功したのか、それが最初の問いであった。

問いは連鎖する。先述したように、本作は前作から10年近くの月日が空いている。一体どうしてそれほどまでの期間が空いたのか。また、それだけ長い期間が空いてもなお新作を出したのは何故か。

本論ではこれらの問いに対して一つの答えを出す。そしてその答えは、この作品が伝えんとする主題の一つである。どうか最後までお付き合いいただきたい。
論を進めていくに当たって読者の皆様に一つの問いを投げかけよう。以下はAC6のキャッチコピーだ。

「火を点けろ、燃え残った全てに」

AC6は何に火を点けたのか。その答えが先述した問いに対する答えに繋がる。簡潔に結論だけ述べよう。AC6は火葬である。それが私の下した結論だ。

※以下、AC6のネタバレを含みます。ご了承の上お進みください。


アーマード・コアの歴史

アーマード・コアのこれまで

アーマード・コアシリーズの歴史は古い。初代アーマード・コア(AC)の発売は1997年である。プレイステーション用のゲームソフトとして発売されたこのゲームは、自由度の高いゲーム性、硬派なストーリーなどが評価され、今後の続編展開へと続く火種となった。

初代の時点でACシリーズの根底となるゲームデザインは完成されていた。特に、アセンブルは本作最大の特徴である。アセンブルとは機体をカスタマイズする行為を指す。このアセンブルに魅せられたファンも多い。

本作最大の魅力は、自身が搭乗する人型機動兵器“アーマード・コア(AC)”のカスタマイズ。武器をはじめ、頭部、コア、腕、脚、ジェネレーター、FCS(火器管制装置)など、多種多様なパーツが用意されていて、それらを自由に組み合わせてオリジナルの機体を作り上げることが可能。
当然、パーツの組み合わせで操作感覚も変化するため、トコトンまでこだわり抜いた機体に仕上げたユーザーも多かったのではないだろうか。

ファミ通「初代『アーマード・コア』が発売された日。カスタマイズの自由度と操作難度の高さに驚きハマった3Dメカアクション【今日は何の日?】

このアセンブルというシステムはどこから生まれたのか。ルーツを辿ると、一人の男に行き着く。河森正治である。

河森正治(1960~)

河森は『マクロスシリーズ』をはじめとして、多くのロボットアニメに関わってきたメカニックデザイナーであり、アニメーション監督だ。彼はメカニックデザイナーとして、初代ACに関わっている。そして、部位ごとのパーツを組み替えてオリジナルの機体を作るというアイデアは、彼が提示したものであった。

河森さんのお話によると、すでにこの時点で、ロボットの腕や足、武器などをカスタマイズするという、本作の根底となるアイデアがあったとのことです。

ゲーム夜話「【アーマードコア】初見プレイヤーの試練【第151回前編-ゲーム夜話】

河森の出したアイデアをアセンブルというゲームデザインの根底に置き、ACの開発は進行する。メカニックデザイナーという特異な立場から出るこだわりによって、ACの独自性は増していく。

その上河森さんは設計したすべてのパーツをチェックし、デザインの統一感が保たれるようにしたそうです。
それから、特定のパーツの組み合わせが、特にかっこよくなることも避けたと話していました。
その理由は、プロデューサーの唐沢さんが”最強のパーツ”を用意しなかったことと同じです。
パーツを選ぶ楽しみを体験してもらうためにも、特定の組み合わせのデザインに、特別感が出てしまっては、つまらないものになると考えたからです。
それは河森さんが、メカデザインだけに留まらず、”コンセプトデザイン”にも携わっていたからこその視点でした。

ゲーム夜話「【アーマードコア】新米レイヴンにとっての高い壁【第151回中編-ゲーム夜話】


河森正治HPより


つまり、初代ACにおいて、デザイン面とシステム面は強く結びついていた。どう動くか、というアクション面と、どう見えるか、というビジュアル面。この両者が混ざり合うことで、ACという唯一無二のゲームが生まれた。

ACの複雑な操作もシリーズの醍醐味のひとつ。
慣れないうちは目標をセンターに入れてスイッチを押すのすら難しい有様なのだが、遊ぶうちに少しずつ上達するのがうれしく、徐々に機体の操作自体が楽しくなっていくから不思議なもの。
クルマでドライブするのが楽しいように、ACを自在に操る快感に目覚めてしまった人も少なからずいたはずだ。
もっとも、公式サイトのジャンル表記にはシミュレーターと書かれているので、リアル志向な操作になっているのも大いに頷ける。

ファミ通「初代『アーマード・コア』が発売された日。カスタマイズの自由度と操作難度の高さに驚きハマった3Dメカアクション【今日は何の日?】

ファミ通のレビューにもあるように、初代ACのプレイヤーにとって、自分でアセンブルした機体を自在に操ること、それこそが初代ACの楽しみであった。それは河森の狙い通りである。メカニックデザイナーがゲームのコンセプトデザインに関わっていたからこそ生じた化学反応。そうして生まれた初代ACはミミクリのゲームであった。シミュレーターという言葉に代表されるように。

ミミクリとアゴン-ロジェ・カイヨワの定義から-

ミミクリという聞き慣れない言葉が出てきた。これはフランスの社会学者ロジェ・カイヨワが提唱した概念である。本節では、カイヨワの定義を元に、ミミクリとアゴンという2つの概念を説明していく。別の記事で説明した内容と被るため、より詳しく知りたい方はそちらも参照していただきたい。

ロジェ・カイヨワ(1913-1978)

カイヨワは遊びの分類原則を考え、以下のように示した。

すなわち遊びにおいては、競争か、偶然か、模擬か、眩暈(めまい)か、そのいずれかの役割が優位を占めているのである。
私はそれを、それぞれアゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)と名づける。
これら4つはいずれも明らかに遊びの領域に属している。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワの言葉を借りれば、遊びとはアゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの4つの分類で示すことができると言う。ここで強調したいのが「ミミクリ」と「アゴン」の2つである。

ミミクリ――すべて遊びは、幻覚とまでは言わなくても、少なくとも、1つの閉ざされた、約束により定められた、幾つかの点で虚構の世界を、一時的に受け入れることを前提としている。
ここで言う遊びは、(中略)彼自身が架空の人物となり、それにふさわしく行動するというところに成立しうる。
(中略)
すなわち、人が自分を自分以外の何かであると信じたり、自分に信じこませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ、という事実にこれはもとづいている。
その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう。
私はこうした形をとる遊びをミミクリという言葉で表したい。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワはミミクリの例として、ごっこ遊び、人形遊び、仮面をつけること、演劇を挙げている。

ミミクリ(Mimicry)は英語で真似、模倣、擬態の意味

アゴン――すべて競争という形をとる一群の遊びがある。
競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件の下で対抗することになる。
(中略)
その結果、勝利者というのは、ある種目での最高記録者という形をとる。
(中略)
勝負の始めにおけるチャンスの平等。これを求めることが競争の本質的原理であることは明らかであって、遊戯者の能力に差がある時には「ハンディキャップ」を作り、この平等を確立するほどである。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワはアゴンの例として、テニス、サッカー、競走、チェスといった種類の遊びを挙げている。

アゴン(Agon)はギリシア語で試合、競技の意味

初代ACはミミクリとアゴン、両方の要素を備えていることは明らかだ。アセンブルした機体を複雑な操作を通して動かすこと。これはミミクリの楽しみである。一方、その機体を使って敵対者と戦闘をすること。これはアゴンの楽しみだ。では、どちらの方が色濃いか。ミミクリである。

ファミ通「初代『アーマード・コア』が発売された日。カスタマイズの自由度と操作難度の高さに驚きハマった3Dメカアクション【今日は何の日?】
初代ACの戦闘画面

それは先述したように、河森の影響も大きい。だが、それ以上に、当時のフロム・ソフトウェアがどういう会社であったか、それが関連しているとJiniは指摘する。

そして「アーマード・コア」はまさに、この「フロムゲー」の特徴を色濃く反映している。
まずフロムが得意とする高度な3D処理を前提にしたロボットゲームである点は評価できるものの、ゲームバランスもレベルデザインも投げっぱなしに等しい。
一方、ロボットでありながらヒロイックな展開を極力排除し、ガンダムでいう『第08MS小隊』のような泥臭さと、押井守的なハードSFの想像力を融合させることで、未熟なゲームデザインを「だがそれがいい」という認識へと改めさせたのだ。

Jini「『アーマード・コア』はなぜ9年も続編が出なかったのか 『AC6』が成功するために必要なもの」

本来アゴンには勝負の始めにチャンスの平等を求める。ゲームにおいて、これはゲームバランスやレベルデザインにおいて実装されるものだ。だが、この点においては初代ACの評価は芳しくない。初代ACの良さは、ここまで述べてきたように、アセンブルを軸としたミミクリ的な、自分が作り上げた機体を動かすという点にあるのだから。

初代ACはミミクリのゲームであった。その系譜はアーマード・コアシリーズにおいて続いていく。大きな転換点である、『アーマード・コア4(AC4)』が発売されるまでは。

AC4と宮崎英高

AC4は2006年に発売されたシリーズ11作目の作品である。このゲームのディレクターを務めたのが宮崎英高である。

宮崎英高(1974-)

現在フロム・ソフトウェアの代表取締役である宮崎は、伝説的なゲームディレクターだ。『Demon's Souls』、『DARK SOULS』をはじめとした多くのゲームに関わっている。記憶に新しいところでは爆発的にヒットした『ELDEN RING』も、彼がディレクターとして創り上げた作品だ。米タイム誌の選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選出されるなど、国内外問わず彼の評価は高い。

AC4はプレイステーション3で販売された

そんな宮崎が手掛けたAC4はどのようなゲームになったのか。結論から言うと、これまでのACをブラッシュアップさせ、アゴン寄りのゲームになったのである。

『アーマード・コア4』で画期的だったシステムが「クイックブースト」だ。
これは瞬時にブースターを吹かし、ロボットを前後左右に動かせるというもの。
これにより、本作では敵の攻撃を避けたり、逆に射程内に踏み込んだりといった意思決定の余地が生まれ、何よりもアクションゲームとして操作をする快楽、奥深さを大いに拡張した。
他にも自動回復する「プライマルアーマー」やロックオンシステムの刷新なども相まって、「アーマード・コア」は明確にアクションゲームへと変化したのである。

Jini「『アーマード・コア』はなぜ9年も続編が出なかったのか 『AC6』が成功するために必要なもの

アゴンを突き詰めることは、ミミクリとのコンフリクトを生じさせる。マダミスといった、その両者を内包するゲームもあるが、ACはそうではない。

この「世界観のリアリティ」と「ゲームデザイン上の合理性」は常にコンフリクトであるが、フロム・ソフトウェアが伝統的に前者を取るのに対し、宮崎英高はかならず後者を取る人間だった。

Jini「『アーマード・コア』はなぜ9年も続編が出なかったのか 『AC6』が成功するために必要なもの

福沢諭吉は『文明論之概略』の中で「一身にして二生を経るが如し」と述べた。2つの生涯をこの身で経験したかのようだという意味である。江戸時代の幕藩体制から、文明開化を経て、明治時代の立憲君主制を生きた彼と、ACの変遷を重ねることは無意味ではあるまい。

アーマード・コアシリーズはその歴史において、ミミクリとアゴンという2つの対立を内包していた。それが、これまでのアーマード・コアであったのだ。

AC6の誕生

AC6が選んだもの

これらの経緯を踏まえてAC6は発売された。ミミクリとアゴン、どちらの生き方をAC6は選んだのか。

本作のディレクターは山村優である。『DARK SOULS(ダークソウル)』、『Bloodborne(ブラッドボーン)』のプランナーを経て『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE(SEKIRO)』のリード・ゲームデザイナーを担当。AC6でディレクターに就任した。

山村がディレクターをするようになった経緯を開発陣は以下のように語る。

こうして長い期間が経ってしまいましたが、社長である宮崎(宮崎英高氏)や私自身も含め、『AC』を作りたいというスタッフが多くおりましたし、これまでのタイトル開発の経験から優秀な人材が育ってきたこともあって、そもそも『AC』を作らないという選択肢はありませんでした。
(中略)
2017年ごろから検討を始め、2018年ごろから宮崎と複数のディレクターが開発初期段階のイニシャルディレクターとして、新しい『AC』シリーズはどのようにあるべきかという大きな方向性を模索検討する形で、プロトタイプの開発に着手しました。
そして目指す方向性や方針がある程度固まったうえで、本作のディレクターである山村に引き継ぎ、本格的なタイトル開発がスタートした形になります。

ファミ通「【AC6】『アーマードコア6』山村D&小倉Pロングインタビュー

AC4に携わった宮崎がプロトタイプを作り、その後山村が完成させたのがこのインタビューから分かる。それ故に、AC6のゲームデザインはアゴンの要素が強い。更に言えば、既存のACを換骨奪胎したと表現できるほどに、その変化は著しいものであった。AC6は根本のバトルシステムに大きな手を加えたのである。

しかし、本作のバトルには攻撃力と対になる重要項目として“衝撃力”という要素があり、アサルトアーマーはそれが極めて高い攻撃手段のひとつとなっています。
衝撃力は言わば崩し性能とも言えるパラメータで、蓄積により敵の姿勢制御システムをダウンさせ、“スタッガー”と呼ばれる数秒間の動作不能状態に陥らせることができます。

ファミ通「【AC6】『アーマードコア6』山村D&小倉Pロングインタビュー

このスタッガーというシステムがAC6のバトルにおけるメインだ。攻撃を継続して敵に当たることで、敵が短時間動作不能になる。攻撃をし続けることにインセンティブが生じ、ヒットアンドアウェイを中心とした持久戦は不利になる設計だ。そして、本作の敵(特にボスキャラに顕著だ)はスタッガーを前提としてバランス調整をされている。

スタッガー状態の相手には大ダメージを与えるチャンスとなる

山村の手掛けたSEKIROでも似たようなシステムが存在している。SEKIROで実装されていた体幹ゲージは、同じく攻め続けることにインセンティブを生じさせる。アクションゲーム的な、アゴン的な遊びの楽しみを最大化するために、山村は意図的にこれらの要素を組み込んでいる。

SEKIROでは攻撃、弾きといった戦闘面での駆け引きに焦点が当てられている。
一瞬の判断を積み重ねて、相手の体幹ゲージを削り、活路を開く

ひとつは“メカならではのアクション”について突き詰めていった結果ですが、もうひとつはシンプルに“バトル中にも区切りとなる成功体験が欲しい”という考えがありました。
決着がつくまでの過程の中にも、プレイヤーが「これはうまくいった」、「気持ちいい」と思えるような瞬間を作りたかったのです。

ファミ通「【AC6】『アーマードコア6』山村D&小倉Pロングインタビュー

ここに宮崎から継承された、新しいフロム・ソフトウェアのアクションに関する思想が集約されている。先程引用したように、「世界観のリアリティ」と「ゲームデザイン上の合理性」は常にコンフリクトである。山村もまた、"スタッガー"という「ゲームデザイン上の合理性」を重視し、プレイヤーがアクションを通じて体験する、アゴン的な楽しみを選択したのだ。

AC6が捨てたもの

では、これまでのACにあったミミクリの要素は削除されたのか。それも違う。AC6はむしろ、これまでのミミクリというアゴンの対立をアウフヘーベンさせて、新たな境地へと向かおうとしている。

アセンブルについてはパラメータの高低だけでなく、アクションゲームとしての“手触り”の部分で自分好みの機体が構築できるようなものを目指しています。
とくに移動を司る脚部パーツと攻撃を司る武器パーツは注力したところで、たとえばタンクならドリフトターン、四脚なら空中ホバリング移動といった追加アクションが使えたりします。また武器も使用モーションや射撃反動の受け止めかた、弾丸の飛んでいく挙動といった感覚的なところで個性が出るよう意識してきました。

ファミ通「【AC6】『アーマードコア6』山村D&小倉Pロングインタビュー

初代ACで河森達が生み出したアセンブル。その精神はAC6でも生きている。山村はアセンブルによって、アクションの"手触り"が変化すると示す。パーツの組み合わせによってアクションの質が変わる。初代ACから受け継がれてきたアセンブルの妙。それにもまた注力することで、過去の要素を継承したと言える。

しかし、その一方で全てをそのまま受け継いだ訳では無い。

そこについて言うと、本作では操作がなるべく直感的になるよう整理していますし、“ターゲットアシスト”という機能も実装しています。
これをONにしていただければ、画面内かつ一定距離内にいる敵を自動で注視するようになるので、カメラ操作でのエイム技術に自信がない方や、あるいはキャラクターを動かすこと自体を楽しみたいという方でも遊べるようになっています。もちろんOFFにもできるので、状況や技量に応じて使い分けていただきたいですね。

ファミ通『アーマード・コア6発売記念インタビュー

初代ACにおいて醍醐味と言われた複雑な操作。それを直感的になるように整理したのである。これは新規プレイヤーにとっての配慮であると共に、ミミクリ的な要素の削減と言えよう。複雑な操作を通じてアゴン部分に負荷をかけることで、ミミクリの没入感を増やし、その帰結としてアゴンの要素も高まっていた。複雑な操作性の中にミミクリとアゴンの融合があったことは興味深い。

この点を詳しく説明しよう。一見すると、"ターゲットアシスト"はONとOFFを切り替えられる点で、両方のプレイヤーへの配慮がある。だが、それは両者に対する適切な配慮であるとは言えない。この切り替えはあくまでも選択肢の1つでしかなく、前者に対する後者の優位性は明らかに低くなる。実際、私もプレイをする中でほとんどの場面でONを選んでいた。

既存のプレイヤーにとってもこの点は賛否両論であり、問題点を指摘する意見もある。

カメラ操作一切不要の3Dアクションをアクション:エイム=95:5位の比率とするなら、FPSは10:90位の比率で、アーマードコアは50:50(シリーズによって変動)位の割合でした。この、適度なサイティングと自機の複雑な三次元機動の両立を求められる操作が、本当にACのたまらなく面白い部分でした。
ACが新作を出さない間、多くのメーカーが「ACっぽいゲーム」を出しましたけど、その多くは、ロックオン固定で手動サイティング不要なアクションゲームでしかありませんでした。だから、この「手動のサイティングで目標を捕捉し続けなければならない」という部分こそが、ACのACたる所以だったと思っています。

MT「AC6はアーマードコアではないよねという話

MT氏の指摘は鋭い。これまでのACらしさをAC6は捨てたと表現しても過言ではない。

本作が初めての『AC』となる皆さんに向けては、いまのフロム・ソフトウェアが作る銃撃戦メインの三次元メカアクションと、それを彩る宇宙スケールのSF世界にご期待いただきたいです。
また、メカを自由にカスタマイズして自在に動かして遊ぶという、『AC』が元々備えていたプリミティブなおもしろさをぜひ体験していただければと思います。
そしてシリーズファンの皆さんには、そういった変わらないよさを思い出していただきつつ、ハードや技術の進化がもたらす臨場感に満ちた戦場表現や、重厚感溢れるメカの質感を堪能していただきたいです。
また、本作でのアセンブルに対する新たな解釈などから、『AC』というゲームにはまだ発展させられるところがあるという、シリーズへの可能性を感じていただければ幸いです。

ファミ通「【AC6】『アーマードコア6』山村D&小倉Pロングインタビュー

好意的な表現をすれば、これは継承だ。親であるACシリーズの醍醐味をそのままに、根本的なシステムを作り替える。否定的な表現をすれば、これは便乗だ。旧来のACアシリーズのファンからすれば、自分の求めていた遊び方を否定されることに他ならない。積み上げてきたブランドイメージに便乗し、製作者のエゴを塗り隠す。AC6の改革とはそれほどまでにラディカルであったのだ。

このAC6と旧作品の対立の図式は、革新と伝統の対立と構造的に類似している。更にそれは子と親のアナロジーで語ることができる。AC6は親殺しを成し、その業を背負う。果たしてそれを制作者たちは意図していたのだろうか。

親殺しと解剖

AC6はACシリーズの子でありながら、旧作という親を殺した。何故その選択肢を選んだのか。そこには、徹底的に親の遺骸を分析する冷静な解剖医の目があった。

プロトタイプ開発では、『アーマード・コア』の面白さとは何であるかという素朴な疑問を解明するため、映像やテストビルドといった試行錯誤を繰り返しました。
その結果、「『アーマード・コア』のコアコンピタンスの見直し」という答えに辿り着きました。
『アーマード・コア』シリーズの根幹の面白さは、武装の交換(アセンブル)とアクションの自由度とが直結し相互に作用することです。
しかし過去作では武器を変更してもダメージなど数値上の変化のみでアクションに影響を及ぼすまでにはいかず、脚部を変えても多少の変化だけで、相互作用しているとはお世辞にも言えない、『アーマード・コア』が本来持つ面白さの真髄が伝わっていなかったと小倉氏は語ります。
そして目指すべきは、アセンブルすると挙動が変わり、プレイスタイルの自由度と多様性がもたらされることだと述べました。

さらに、メカとしての意義、人間には真似のできないメカならではのアクションができること、メカゲームでしかできない世界といった「メカゲームである意味」を提示することが、本作の魅力を伝えるための絶対的な必要条件であるとも述べました。
そして、フロム・ソフトウェアらしいアクションゲームの設計思想と言える立体的なマップ設定、手触りの良いアクション挙動、多彩なモーションとリアクション、手ごたえのある高い達成感が得られるゲーム性といった、これまでの開発で得られた知見や経験を土台にすることで、『アーマード・コア』の面白さを上積みする。
そんな信念のもと、今の時代にふさわしい『アーマード・コア』を実現すべくブランドを最適化していくことになります。

ゲームメーカーズ「『ARMORED CORE VI』は何をコアと見据えてリブートしたのか。ポジショニングから見る、ゲーム開発とマーケティングの密接な関係【CEDEC+KYUSHU 2023】」

引用したのはAC6のプロデューサーである小倉康敬の言葉である。ここに、フロム・ソフトウェアが成し遂げた腑分けが見て取れる。それは狂気的とまで言える削ぎ落とし、抽象化に他ならない。複雑に絡み合った要素という筋繊維を寄りわけ、構築された骨格を取り除く。後に残るのは鼓動を止めた、心臓という名の核。それを掴み上げ、後へと続く子の糧としたのだ。

フロム・ソフトウェアは世界的なディベロッパーである。従来のファンが何を重視しているのか、知らない筈がない。それらは過程において見つけられた。だが、苦渋の末に決断する。解剖台から取り除かれた部位は、やがて一纏めにされて火葬場へと向かう。

最後に小倉氏は、既存のフランチャイズをリブートするとはどういうことかについて、今の時代に適した形で蘇らせることだと述べました。
それは見た目の事だけではなく、システム技術全てにおいて今の時代に即したものに柔軟に対応することが必要だということです。

一方で変化させてしまうとそのIPの良さを削いでしまう恐れもあり、変えて良い点と変えてはいけない点を見極めることが非常に重要だと小倉氏は指摘します。
IPを奥底まで見つめ続け、光輝く原石すなわち、それだけが持つプリミティブな部分があると確信できるかが重要だということです。

ゲームメーカーズ「『ARMORED CORE VI』は何をコアと見据えてリブートしたのか。ポジショニングから見る、ゲーム開発とマーケティングの密接な関係【CEDEC+KYUSHU 2023】

それは子として、筆舌に尽くし難い痛みを伴う。その爪先の一変まで、先人達の思いや、従来のファンの思いが詰まっている。針の筵を一歩一歩踏みしめるように。彼らの道程を思うと、10年近くの開発期間も頷けた。

「一度生まれたものは、そう簡単には死なない」

ゲーム中に紡がれるその言葉には、開発陣の思いが込められている。彼らはリブートさせようとした。リソースを注ぎ込んでも、回収できるかは分からない。ACVDの売上は11万本。『ELDEN RING』が1700万本売れる中で、企業としてどちらを選ぶべきかは明白だ。それでも、彼らは「そもそも『AC』を作らないという選択肢はありませんでした」と言う。

親を解体し、子の糧となす。そうして残った全てに火を点ける。故にAC6は火葬なのだ。視界を埋め尽くす茫々と燃え盛る火の海。眼前に広がる光景を見て、子は何を思うのか。

そして個人としては、いつも圧倒的な信頼感を置くクリエイターの宮崎氏がいない中で『ACVI』を作り上げることができたのは、フロム・ソフトウェアとしての収穫であったとも小倉氏は語りました。

ゲームメーカーズ「『ARMORED CORE VI』は何をコアと見据えてリブートしたのか。ポジショニングから見る、ゲーム開発とマーケティングの密接な関係【CEDEC+KYUSHU 2023】

フロム・ソフトウェアには宮崎英高という生きた伝説がいる。彼の背中から何を学ぶのか。それもまた、親と子のアナロジーで示される。人はやがて死ぬ。いつまでもその庇護の下にいるわけにはいかない。巣立ちの時に羽ばたくのは、いつだって自分の意志だ。

そうしてAC6は飛び去っていく。灰となった親はそれ見て何を思うのか。その答えはAC6の中で示されていた。

親から見た子

ハンドラー・ウォルターという「親」

AC6ではハンドラー・ウォルターというキャラクターが登場する。プレイヤーが操作する主人公621の雇い主であり、彼の命令に従って、プレイヤーはストーリーを進めていく。ウォルターとの関係はあくまで主従にある。彼は雇い主であり、621はその飼い犬でしかない。

物語序盤のウォルターは冷酷な雇い主を思わせる

だが、ストーリーが進むにつれて、彼の人となりが見えてくる。ミッションが終わるたびに621を労う。他のキャラクターに621を馬鹿にされた時は、それに反論する。621とは距離を保ちつつも、その身を案じる姿は、親のそれであった。

そのような視点に立つと、彼の真意も見えてくる。ゲーム内において、傭兵とは使い捨てされる駒に過ぎない。彼もまた、多くの傭兵を失ってきたことがストーリーの中で示唆される。情がわかないように。そんな彼の思いを、プレイヤーは察することができる。親の愛情に気づくのは、いつだって子の特権なのだ。

ハンドラー・ウォルターのエンブレム。
飼い犬の手綱を握っているようにも、手綱に縛られているようにも見える

ストーリーの中で、621を使って何をしようとしているのかが明らかになっていく。彼の行動理念は「古い友人との約束を果たすこと」にあった。今は亡き友人たちの意志を継ぎ、彼は行動していたのである。

彼は常に言う

「これは、ある友人からの私的な依頼だ」

真意は違う。友人だけではない。彼からの依頼でもあるのだから。けれどもそれを彼は言わない。雇い主と傭兵と、その間に引かれた一線。それを乗り越えてはならないという、病的な信念。彼は自分自身を雇い主として律する。親と子はあくまでメタファーであり、明示してはならない。そんな不器用な思いが、彼という人間を縁取っていく。

ストーリーの終盤、彼はその思いを吐き出す。

「621 これは ある友人からの… いや… この俺からの ごく私的な依頼だ」

そこで語られる真意。ここにあるのは雇い主と傭兵ではない。一人の人間同士の会話であった。そして、ウォルターがハンドラーとしての自分ではなく、ここまでひた隠しにしてきた、親としての自分を見せた瞬間である。

彼は託した。指示でも命令でもない。ただ、願うようにと。遺言のようにも思えた。病床の親が語る、細雪のように、淡く微かな言葉。ここに来て、意志は託される。その営みこそ、親から子へと託される襷に他ならない。

親殺しをする子、そして

だが、621は選択を迫られる。自らの判断によって、親とも言えるウォルターを裏切るルートもあるのだ。

そしてその最終盤。任務を果たした621の前に立ちはだかる最後の障壁。それがウォルターである。

ウォルターとの最終決戦。互いの命を削り合いながらも、ウォルターの口からは一切の恨み節は出ない。さざなみのように寄せては返す心の波紋。それが溢れた時に、凪が乱れる。

「コーラルを焼けば…俺たちの仕事は終わる…」
「お前が稼いだ金だ…」
「再手術をして…普通の人生を…」

普通の人生という言葉の重さ。それは子の身を案じる親の思い。全ての仕事を終えて、帰る場所。人はそれを家と呼んだ。彼は親として621を見ている。それはこの瀬戸際においても、殺し合いの最中でも変らなかった。

やがて至る決着。

「友人たちの…遺志を…」

ウォルターは最後に銃口を向ける。限界を向かえてもなお、彼の歩みを進めるのは、友人たちに託された遺志であった。

しかし、徐ろに、彼は銃口を下ろす。

それは満足気な声。ここに来て彼は悟った。621に友人ができたこと。何より彼は知っているのだから。友人の遺志を継いだ彼には、その重すぎる意味が。

そして、2人の関係性は雇い主と飼い犬でも、親と子でもなくなる。子の巣立ちを見た親は、生身の人間へと戻るのだから。それを見たウォルターが何を思ったのか。火葬され、灰となった親の思いがそこにはある。

ハンドラー・ウォルターという「親」の物語。そして親殺しをする「子」の関わり。このイニシエーションを通じてフロム・ソフトウェアが伝えたかったこと。それこそが、AC6に込められた思いなのだと私は言いたい。

未熟な子を育て上げ、親の庇護から離す時。そこには葛藤や障害があるだろう。だが、それは祝福すべきことなのだ。立って歩くその先にしか道はないのだから。

AC6は何に火を点けたのか

AC6は親であるアーマード・コアシリーズを解剖し、その核を受け継いだ。遺った全てに火を点け、親の火葬とする。それが、私の答えだ。

何故、AC6は続編としてここまで成功したのか。一体どうしてそれほどまでまた、それだけ長い期間が空いてもなお新作を出したのは何故か。その答えは、火葬という隠喩によって示される。

AC6の辿った過程は、私達自身にも繋がる。私達もこの歴史の中で、子として生まれ落ちた。もちろん、親と共存する道もある。だが、ここで示された親殺しのイニシエーションを通じて初めて、得られるものもあるはずだ。

そしてそれは、親の小ささや限界を知るといった残酷な行為では決してない。むしろその過程を通じて、その背中に気づく。

作家の向田邦子は厳格で暴君だった父を回顧し『お辞儀』というエッセイを書いた。父が勤め先の社長へとお辞儀をするその背中を見て、心情を綴る。

それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。(中略)それにしても、初めて見る父の姿であった。
(中略)
私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。
父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。
私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。
(中略)
親のお辞儀を見るのは複雑なものである。
面映ゆいというか、当惑するというか、おかしく、かなしく、そして少しばかり腹立たしい。

向田邦子『お辞儀』

私達は時と共に「親」となる。それは歴史の中に生きている以上、次世代の「子」をもつという点で真だ。その時にどんな背中を見せるのか。骨の髄まで解体されて、使い尽くされるなら、それが本望だ。燃え遺った灰にさえ、やがて火を点けてほしい。

AC6には河森正治も参加している。私はそれが、どうしようもなく嬉しい。

参考


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