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【マダミス】マダミスの構造的分析-または『地球より愛をこめて』への応用-

はじめに

『地球より愛をこめて』の発売に先駆けて

拙作『地球より愛をこめて』が2024年8月3日に発売される。

ミステリアス・トレジャーから発売されるこちらの作品は、SFをテーマにしたマーダーミステリーゲーム(以下、マダミスと表記)である。以下、シナリオ背景を引用しよう。

シナリオ背景:はるか未来の話。星々の間を飛び交う【宇宙船】の軌跡が流星雨のように降り注ぎ、夜空の海を宵よりも明るく染める時代。
【船長】【副船長】【操舵手】【機関士】【航海士】【通信士】【医者】【作業員】【学者】の9名は、【食糧】を安定して確保できる【惑星】を見つける旅に出ていた。
​しかし、旅の途中で立ち寄った【寄港地】と呼ばれる【惑星】で【宇宙生物】との戦いに巻き込まれ、【学者】が命を落としてしまう。
それでも旅は続き、【地球】への到着を間近に迎えたこの日、もう一人の犠牲者が発生する。【航海士】が自室で死んでいるのが発見されたのだ。しかも、現場の状況は密室であった――

ミステリアス・トレジャーHPより

一般販売する初めての作品であり、ミステリアス・トレジャーの水谷さんをはじめとして、たくさんの人に関わっていただいた。私の拙いシナリオが製品として成立できたのは、皆様の助力によるものである。この場を借りて、深い感謝を述べたい。

そして、この作品の発売に先駆けて、より多くの人に知ってもらいたいという思いが湧き上がってきた。だが、マダミスの仕様上、どのようなシナリオであるのか、語るだけでゲームの良さを損なう可能性が生じる。

そのため、本記事では『地球より愛をこめて』のネタバレは一切含まない。その代わりに、マダミスそのものの構造的分析を行う。マダミスとはどのようなゲームで、どのようなところが面白いのかを、言語化するということだ。これは私が日頃から考えていたことであり、『地球より愛をこめて』にも、そのエッセンスが多分に含まれている。本記事を読むことで、『地球より愛をこめて』をより楽しめるだけでなく、マダミスそのものが理解できるようになる筈だ。

論を始める前に予め注意点がある。この構造的分析は私の主観が多分に含まれており、あくまで私なりの解釈だ。学術的な根拠や、明証性があるわけではない。以上のことを了承していただき、読み進めてほしい。

マダミスとは何か

マダミスを構成する5つの要素

論を進めるにあたってまず最初にマダミスとは何かを論じる。これらのゲームはマーダーミステリーと表記されることも多い。

注:グループSNEとcosaicがタッグを組んで展開しているパッケージ型も人気である。

マーダーミステリーは、欧米・中国で流行中の参加型イベントです。

殺人事件をベースとしたシナリオの中で、参加者は「事件に関係する登場人物=容疑者」になりきっていただきながら、
犯人を捜し出す(犯人役は逃げ切る)ことを主な目的として、自由な話し合いや調査を行ない物語を進めます。
人によっては犯人捜し以外にも隠しておきたい事実や別の目的があるため、議論は一筋縄ではいきません。

全員の思惑が交錯する中で貴方にとってより望ましい結末を迎えるために奮闘していただきます。
最終的にどんな結末にたどり着くとしても、マーダーミステリーの最大の目的は全員でお話を創り上げ、全員で楽しむことにあります。

一生に一度の物語体験をお楽しみください。

マーダーミステリー専門店 RabbitholeのHPより

Rabbitholeの紹介文を元にしながら、マダミスの構成要素を分類する。

  1. ゲーム全体のシナリオがある

  2. 真犯人とその他の対立構造がある

  3. プレイヤーそれぞれ個別のシナリオがある

  4. 話し合いや調査、投票を中心とするアクティビティがある

  5. 物語体験を楽しむことが目的である

以上大まかに5つの構成要素を挙げた。これら5つの構成要素を含まない作品もある。だが、これらの要素を兼ね備えている作品ならば、マダミスに分類される筈だ。つまり、これらの要素はマダミスの十分条件といえる。

では、個別の要素について解説していく。

1.ゲーム全体のシナリオがある

マダミスにはゲーム全体のシナリオが存在する。多くは何かしらの殺人事件が発生したというシナリオだ。シナリオでは、時代設定や場所設定といった背景情報、プレイヤーが演じる登場人物、プレイヤーが体験する物語が予め設定されている。プレイヤーは用意された物語の世界を楽しむ。

似た形式のゲームにはTRPGがある。これはテーブルトークRPGの略であり、その源流は『ダンジョン&ドラゴンズ』に辿り着く。プレイヤーは物語の登場人物になりきり、用意された物語の世界を楽しむのである。

日本ではクトゥルフ神話をベースにしたTRPGが人気である。

マダミスとTRPGの違いは何か。これらのゲームの差異は明確なものではなく、これらは同じ体験型ゲームという範疇にある。明確に定義すること自体がナンセンスだろう。敢えて挙げるのであれば、マダミスのシナリオは「マーダー」つまり、殺人事件を扱うことが多い。加えて、後述するように、プレイヤーが演じる登場人物自体もシナリオの骨格を構成している。つまり、予め背景設定を含め、シナリオの中で登場人物が作り上げられ、組み込まれているのだ。

また、ストーリープレイング(以下、ストプレ)という形式のゲームもある。これは、プレイヤー同士の対話を通じて物語を作り上げるゲームを指す。一部にはマダミスと似た部分もあるが、プレイヤー間の協力を重視する点で差別化もできる。

概して、マダミス、TRPG、ストプレの差異はグラデーションであり、先述したように、同じ体験型ゲームという範疇にあるのだ。あくまで私見であるが、これらの楽しみには親和性があり、どれか1つのジャンルを楽しめるのであれば、その他のジャンルを楽しめる素地をもっている。興味があればそれぞれの作品に触れてみるのも一興だ。

『リアル脱出ゲーム』など、体験型ゲームの種類は幅広い

2.真犯人とその他の対立構造がある

マダミスの多くは殺人事件を題材に扱っている。殺人事件には被害者と容疑者、真犯人が存在し、それらもまた、プレイヤーに割り振られるのだ。プレイヤー全体を通じて真犯人とその他の対立構造があり、これらは目的の点で対立している。つまり、真犯人となったプレイヤーはその他のプレイヤーから疑われないようにゲームに参加するのだ。それ以外のプレイヤーは自分達の中にいる真犯人を探す。

この点はマダミスの大きな特徴だ。多くの場合真犯人は所持している情報の面で、他の登場人物よりアドバンテージがある。この利点を生かし、どう疑われないように振る舞うか。真犯人役のプレイヤーの腕の見せどころだ。

一方、それ以外のプレイヤーは、誰が真犯人かという目的をもって情報収集や議論に勤しむ。殺人事件という謎に挑むこともまた、彼らにとっての楽しみだ。この対立構造はそれぞれの目的のみならず、楽しみ方の筋道を示す。

また、必然的に嘘をつくことが奨励される。真犯人役のプレイヤーは、疑われないことが目的だ。だからこそ、誤魔化したり、偽りの推理を述べたり、手練手管を尽くして逃げ切ることが求められる。

この対立構造と類似しているのは人狼ゲームだ。『汝は人狼なりや?』を発端とし、日本でも流行しているこのゲームもまた、真犯人(人狼)を見つけ出す推理ゲームと言える。

人狼ゲーム自体は映画化されるほど、認知度も高い

では、真犯人以外のプレイヤーは全員で協力するゲームなのか。一概にそうとは言えない。

3.プレイヤーそれぞれ個別のシナリオがある

これは1と2の要素に大きく関連している要素だ。プレイヤーに配布される、登場人物それぞれに個別のシナリオ。それには各登場人物の設定や秘密が記述されている。プレイヤーはそれを読み込み、各々が演じる登場人物への理解を深めていく。

多くの場合登場人物はそれぞれに個別の目標が設定されている。重要な点は、この目標を達成することにも勝利点というインセンティブが設けられている点だ。マダミスでは最も高い勝利点を獲得したプレイヤーが勝者となる。この勝利点には軽重があり、真犯人を捕まえることが最高得点でない場合もある。つまり、真犯人を捕まえることが、常に第一の目標とされるわけではないのだ。これにより、真犯人以外のプレイヤーが全員で協力することが難しくなる。時として、真犯人に協力することが自分にとって最良の選択肢に成りえるのだから。

プレイヤーごとに与えられる個別のシナリオという点において、マダミスは一般的なTRPGと異なる。TRPGにおいては、プレイヤーがオリジナルキャラクターを作り、そのキャラクターを演じたり、運用したりすることが楽しみの1つであるからだ。マダミスの場合は、予め用意されたキャラクターを演じることが多い。

4.話し合いや調査、投票を中心とするアクティビティがある

マダミス中の主なアクティビティは話し合い、調査、投票に類別される。これは対話という要素に一元化できる。シナリオとの対話、参加者同士の対話、推理を通した自己との対話。マダミスとは対話のゲームであり、より良い対話体験を生み出すことが目的であるといっても、過言ではあるまい。では、各要素について検討していこう。

話し合いはゲームを通して何度も行われる。議論に代表される、全体での話し合い以外にも、密談と呼ばれる形式の話し合いが実装されているのが特徴的な点だ。密談は2人から3人といった少人数での話し合いである。多くの場合、カーテンなどで区切られた空間が用意され、そこでの話し合いは全体化されない。それゆえに、誰と何を話すかにインセンティブが生じる。

マダミスでは、個別のシナリオ以外にも、シナリオの真相に関わる情報が配布される。調査を通じて、プレイヤーはその情報を収集するのだ。それらの情報は「(現場に残った)証拠品」「(誰かの)証言」といったアイテムの形で用意されている。プレイヤーはアイテムの獲得という過程を経て、情報収集ができるのだ。

多くの場合、1人のプレイヤーがゲーム内で入手できるアイテムには制限がかけられている。そのため、他のプレイヤーと話し合いをし、情報を共有する必然性が生まれるのだ。

最終的な意思決定は投票にて行われる。これまでの話し合いと調査で手に入れた情報を吟味し、誰が真犯人であるかを決定するのが投票だ。多数決で決定されるため、自分の投票を成立させるためには、できる限り多くのプレイヤーと投票先が一致しなければならない。ここでも、他のプレイヤーと協力することにインセンティブが生じる。

ここまでの分析から、マダミスはゲームシステム上で対話が奨励されていることは明確だ。それは何故か。その答えは、5つ目の要素に関連している。

5.物語体験を楽しむことが目的である

! プレイヤーを大切にしよう
他のプレイヤーとのやり取りで生まれて来る物語が、マダミスの醍醐味です。プレイヤー同士で疑ったり問いただしたりするシーンも想定されますが、あくまで演出や演技の範囲内に留めるように意識してください。他のプレイヤーは共にゲームを遊ぶ仲間です。

! 物語を楽しむ
キャラクターシートに書いてあることを無造作に読み上げたりするのではなく、キャラクターのセリフとして発言するようにするとゲームに臨場感が生まれます。演じることに自信がないという方も、ぜひキャラクターに成りきって遊んでみて下さい。

マダミス通話アプリ「UZU」HPより

最初に引用したRbbitholeの紹介文にあるように、マダミスの目的とは物語体験であるとされている。マダミスとは対話のゲームであるという観点に立つと、ここで奨励される物語体験とはどのような体験であるかが明確になる。用意された物語(シナリオ)の登場人物として対話をすること、それがマダミスのいう物語体験だ。

この視点からマダミスを解釈すると、生じるのは1つの疑問だ。2の要素でも示したように、マダミスのゲーム上、勝利点が最も高いプレイヤーが勝者となる。それはつまり、ゲームシステムでは、勝つことが目的となっているのだ。ここにコンフリクトが生じている。

「対話をすること」「勝利点を稼ぐこと」この2つの要素は解消されない対立なのか。システム面でその答えを出されていない以上、プレイヤー各位の判断に依拠するしかないのか。これはマダミスの面白さを語る上では避けては通れない問題である。次章では、「マダミスの面白さ」という考察を通して、その問いに対する答えを出そう。

マダミスの面白さ

「アゴン」と「ミミクリ」

「対話をすること」「勝利点を稼ぐこと」この2つはマダミス上に存在するコンフリクトだ。無論、この間のジレンマを楽しむという選択肢もあるだろう。だが、それにより「マダミスをどう楽しむのか」という点において他者と摩擦が生じることもある。

フランスの社会学者ロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を下敷きに、遊びの社会的意義を検証し、それを『遊びと人間』の中で論じた。

ロジェ・カイヨワ(1913-1978)

カイヨワは遊びの分類原則を考え、以下のように示した。

すなわち遊びにおいては、競争か、偶然か、模擬か、眩暈(めまい)か、そのいずれかの役割が優位を占めているのである。
私はそれを、それぞれアゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)と名づける。
これら4つはいずれも明らかに遊びの領域に属している。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワの言葉を借りれば、遊びとはアゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの4つの分類で示すことができると言う。ここで強調したいのが「アゴン」と「ミミクリ」の2つである。

マダミスにおける「アゴン」

アゴン――すべて競争という形をとる一群の遊びがある。
競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件の下で対抗することになる。
(中略)
その結果、勝利者というのは、ある種目での最高記録者という形をとる。
(中略)
勝負の始めにおけるチャンスの平等。これを求めることが競争の本質的原理であることは明らかであって、遊戯者の能力に差がある時には「ハンディキャップ」を作り、この平等を確立するほどである。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワはアゴンの例として、テニス、サッカー、競走、チェスといった種類の遊びを挙げている。マダミスにもこのアゴンの要素が含まれているのだ。

アゴン(Agon)はギリシア語で試合、競技の意味

マダミスにおいては「勝利点を稼ぐこと」がプレイヤーの目的として提示される。点数として絶対化されるその価値は、カイヨワの定義における「明確で疑問の余地のない価値」だ。

さらに、「ハンディキャップ」という観点から見てもそのことを裏付けられる。個別のシナリオによって与えられる情報は、質、量共に不平等なものだからだ。これは、真犯人とその他の非対称性から説明できる。絶対的な人数の不利を是正するためのハンディキャップなのだ。裏を返せば、ゲーム開始から真犯人側のプレイヤーが不利な状況になってしまうのは、シナリオ側の不備である。シナリオ制作者によるハンディキャップの見込みが甘かったのだ。

遊びのこの原動力は、どの競走者にとっても、一定の分野で自分の優秀性を人にみとめられたいという欲望である。それゆえに、アゴンの実践は不断の注意、適切な訓練、たゆまぬ努力、そして勝利への意志を前提とする。
(中略)
きめられた限界の中で、フェアに持てる力を発揮しなければならないのだ。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワは明確に定められたルール(限界)の中で、持てる力を発揮することを肯定している。つまり、嘘をつくことがルールの範疇にある以上、他者を欺き陥れることも、マダミスにおいては是とされるのだ。ここにおいては、勝つためには手段を選ばなくて良いというマキャベリズムも肯定される。

アゴンという要素に着目すると、マダミスと人狼ゲームの類似性が強調される。人狼ゲームでも「敵陣営を排除すること」「敵陣営より人数が多くなること」が目的として提示され、それは絶対的な価値だ。人狼ゲームで求められるのは、敵味方の陣営を見極め、いかに自分の発言を信じさせるかという要素である。人狼ゲームにおいては複数の戦術が体系化されており、その点においてもアゴンの要素が強い。

では、マダミスはアゴンのゲームなのか。それは違う。マダミスにはもう1つ大きな要素が含まれている。それがミミクリだ。

マダミスにおける「ミミクリ」

ミミクリ――すべて遊びは、幻覚とまでは言わなくても、少なくとも、1つの閉ざされた、約束により定められた、幾つかの点で虚構の世界を、一時的に受け入れることを前提としている。
ここで言う遊びは、(中略)彼自身が架空の人物となり、それにふさわしく行動するというところに成立しうる。
(中略)
すなわち、人が自分を自分以外の何かであると信じたり、自分に信じこませたり、あるいは他人に信じさせたりして遊ぶ、という事実にこれはもとづいている。
その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう。
私はこうした形をとる遊びをミミクリという言葉で表したい。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワはミミクリの例として、ごっこ遊び、人形遊び、仮面をつけること、演劇を挙げている。

ミミクリ(Mimicry)は英語で真似、模倣、擬態の意味

マダミスでは個別のシナリオを配布され、それぞれのプレイヤーが与えられた登場人物を、与えられた設定の上で演じることが求められる。UZUの紹介文でも「キャラクターのセリフとして発言するようにするとゲームに臨場感が生まれます」とされるように、いわゆるRP(ロールプレイ)が奨励されているとも言えよう。

ここでは「対話をすること」という目的に即して、「(キャラクターとして)対話をすること」という解釈が可能だ。

マダミスを遊ぶ店舗では、専用の部屋が用意され、ゲームへの没入感を高める
マーダーミステリー専門店 RabbitholeのHPより

この観点から見ると、TRPGのみならず、演劇との親和性も見出される。実際に、衣装合わせをして配役に成りきった上でマダミスを楽しむプレイヤーもいる。それはマダミスにおけるミミクリの要素を最大化させる手立てとも言えよう。

重要なのは、ミミクリにおいても、アゴンと同様にルール(約束)を遵守することが求められている点にある。役になりきって好き勝手振る舞うことを許可されているのではない。定められたルールが存在しているのだ。それはつまり、虚構の世界を作り上げる上での絶対法とも言える。

ミミクリとは絶え間ない創作である。
この遊びの規則はただ1つ、すなわち、演技者にとって、それは見物人を魅惑(みわく)することだ。
ミスがあって見物人が幻覚を拒否するということになってはならない。
見物人にとっての規則は、幻覚に身をゆだねることだ。
道具立てや仮面や人為的な仕掛けに、のっけから異議を申し立てるといったことはしてはならない。
現実より以上に現実的な現実として、そうした仕掛けを、しばらくの間、信じなけばならぬのだ。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワの生きていた時代にはマダミスはなかった。そのため、彼は演劇を念頭において書いている。マダミスの文脈に即して示そう。

ミミクリにおいて演技者(プレイヤー)は見物人(他のプレイヤー)を魅惑することが求められる。ミスをして、他のプレイヤーが幻覚を拒否するということになってはならない。

ここでのミスとは、単に演技のミスや、演技をしないことではない。シナリオによって許可されている以上の干渉、いわゆるメタ的な発言に対する是非を示している。更に言えば、他のプレイヤーが演技をしていることに対する批判や非難なども含まれよう。総じてそれは、ミミクリの文脈に換言すれば、幻覚を拒否することなのだから。

この観点に立つと、マダミスはミミクリのゲームとも言える。アゴンとミミクリの要素を兼ね備えているのがマダミスだ。だが、この2つの要素が先述したコンフリクトの要因である。「対話をすること(ミミクリ)」「勝利点を稼ぐこと(アゴン)」の対立は解決していない。あくまで、ここまで示したのは、マダミスの「アゴンとしての」面白さと、「ミミクリとしての」面白さである。では、マダミスの面白さはどちらかの立場に経たないとなし得ないもなのだろうか。

マダミスの面白さとは何か

マダミスの面白さとは、アゴンとミミクリの対立におけるグラデーションの中にある。簡易的にだが、図で示すと以下のようになる。

上図において、矢印で示された実線上に、マダミスの面白さが存在しているのだ。ここで重要なのは、この線上のどこに、面白さの核を置くのかは個々人によって違うという点である。つまり、アゴン寄りのプレイヤーもいれば、ミミクリ寄りのプレイヤーもいるという事実が、マダミスの面白さを証明するのだ。

それぞれのプレイヤーによって、この位置は異なる。アゴン寄りのプレイヤーにとっては「勝利点を稼ぐ」ことは重要だが、ミミクリ寄りのプレイヤーにとっては「対話をする」ことが重要になるのだ。ここに統一的な指標はない。

マダミスの面白さとは、これら個々人の思う面白さを内包させながら、それを物語体験として昇華させることにある。ゆえに、全員で物語を創り上げ、全員で楽しむことが最大の目的とされるのだ。

だが、対立構造にある以上、各々の価値観の違いによる摩擦は生じる。特に、アゴンとミミクリ、それぞれの極に近ければ近いほど、他との差を感じやすいのは事実だ。しかし、それはあくまで、一元的な見方しかしていない。

アゴン寄りのプレイヤーを例にとって説明しよう。アゴンにとっては「勝利点を稼ぐ」ことが至上の目的だ。そのためには、自分の意志に沿って発言や投票をする仲間を見つけることが、合理的に肯定される。ここで彼が「嘘をつく」という判断を選んだとしよう。これもまた、勝利に向けた努力として肯定される。

重要なのは、ここでただ「嘘をつく」のか、「演技をしながら嘘をつく」のか、どちらを選択するかにある。前者はアゴン的、後者はミミクリ的手段と言えよう。嘘をつく相手がミミクリ寄りのプレイヤーであった場合、どちらが最適なのかは言うまでもない。つまり、ミミクリ的手段を取ることが、アゴンのプレイヤーにとって最適解となることがあるのだ。更に、その演技の中にシナリオの文脈に即した「物語」を添えたなら。その効果は絶大だ。

つまり、「対話をする」ことを目標達成の手段として最適化した場合、必然的にそれはミミクリの楽しみを内包することになる。その帰結として、上質なアゴンの競技者は良いミミクリの演技者となるのだ。

同様の話はミミクリ寄りのプレイヤーでも説明できる。ミミクリにおいては「対話をする」ことが至上の目的だ。マダミスの中で、勝利点を獲得する条件は、その登場人物における信念や心情に準拠している。その役を演じ切るというのは、勝利点の獲得に向けて振る舞うことと合同なのだ。

その立場に立てば、「目的達成のために手段を選ばない」選択肢もまた、肯定される。ミミクリのプレイヤーが演じる別の人格とは、設定書において練り込まれた、生の登場人物に他ならないのだから。ここでも、アゴン的手段を取ることがミミクリのプレイヤーにとっての最適解となる場面が生じる。その時、演じている登場人物が「まるで本当に生きているかのように」感じられるかもしれない。

結論として、マダミスはアゴンとミミクリ、2つの要素を相互干渉的に融合させ物語体験として昇華できる遊びである。そこにマダミスの面白さがあるのだ。それぞれのプレイヤーの立場に違いがあることを理解した上で、自分の立場に沿って合理的に行動すること。それぞれのプレイヤーがそのように行動することで、マダミス本来の面白さが顕在化する。そして、その物語体験こそ、一生に一度しか味わえない唯一無二のものになるのだ。

ここまでプレイヤーとしての面白さを分析したが、これはシナリオを制作する制作者としても必要な視点である。自分のシナリオがアゴンとミミクリのグラデーションの内、どこにあるのか、それを明確に意識すること。そうすることで、それぞれのプレイヤーに対してどのような配慮が必要かが見えてくる。

カイヨワの知らない世界

マダミスはアゴンとミミクリ、2つの要素を相互干渉的に融合させ物語体験として昇華できる遊びである、と私は記した。そしてそれは、ここまで引用してきたカイヨワにとっても未知の世界である。そのことを示して、本章の締めにしよう。カイヨワは以下のように記述している。

活動であり想像であり演技であるミミクリは(中略)しかしアゴンとは結びつかないわけではない。
(中略)
すべてアゴンは、それに参加しない者にとっては、1つの見世物である。
(中略)
すなわち、競技者が真似るのではなく、観衆が真似るのである。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

カイヨワがここでアゴンとミミクリの結びつきについて論じている。彼が言っているのは、スポーツにおいて、競技者と観衆の関係だ。観衆がスポーツを見ながら、自分をそのプレイヤーと同一視し、その一挙手一投足に感情を揺れ動かすことを、ミミクリと表現している。

これとよく似た組み合わせが、アゴンとミミクリとの間にも存在する。
私は前に、次のことを強調しておいた。
すなわち、あらゆる競技はそれ自体見世物であると。
競技は見世物と同様、大団円をめざし、見世物と同一の規則にしたがって展開するものだ。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

ここでは競技と見世物(演劇)において、規則が同一であることを示している。

だが、ここまで論じたように、マダミスにおけるアゴンとミミクリの関係性は、カイヨワが示したよりも、本源的な繋がりである。それらは混ざり合って分離できないのだから。換言すれば、マダミスによって示される遊びの形は、カイヨワが分類し得ないほどに、新しい遊びの形なのだ。

ミステリーの面白さ

ミステリーの分析

本章ではマダミスの構造的分析を発展させ、ミステリーそのものを分析する。ミステリーの面白さとは何か。それを明らかにすることでマダミスに対する理解も深まる。のみならず、ここで得られる知見によって、マダミスにおける推理の在り方を示す。

上記で引用したのは「ボードゲームカフェ」ディアシュピールを運営するかわぐちまさし氏のポストである。かわぐち氏はマダミスを初めて日本に持ち込んだ、マダミス界の第一人者であり、日本におけるマダミスブームの火付け役だ。作家としても作品を大量に出している。

かわぐち氏の指摘は鋭い。かわぐち氏はマダミスにおける「推理」を「違和感と物証からの【気付き】で犯人を推測するもの」と表現している。それに対して「プレイヤーの考える推理」は「情報整理して実行可能性で犯人を確定するもの」であり、それは帰納法でしかない。つまり、推理の解釈が違うのだ。ここにもまた、プレイヤー間のコンフリクトが生まれている。

かわぐち氏の指摘を切り口にして、「推理」を足掛かりにミステリーを分析していく。

ミステリーにおける帰納

帰納とは何か。個別的・特別的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論のことである。元を辿るとフランシス・ベーコンに行き着く。より一般的な解釈では具体的事例から一般的な規則を導き出す推論とされる。ミステリーの文脈に即すると、「証拠や証言(具体的事例)から犯人像(一般的な規則)を導き出す推論」となる。

フランシス・ベーコン(1561-1626)
知識を力として捉え、帰納法を唱えた

ミステリーの中で、この思考法を最適化したものがいわゆる論理パズルだ。複数の情報を照らし合わせ論理的に正しい答えを探し出す。ここでは、正確な情報が全て開示されることでただ一つの解が明証的に示される。この推論とマダミスのシステムとのコンフリクトをかわぐち氏は指摘するのだ。

ミステリーにおいて、「推理」の過程で帰納法は頻繁に用いられる。証拠や証言は犯行が可能である時間や、方法を制限していく。それらをパズルのように組み合わせる論理的思考こそが、ミステリーの魅力であるとさえ言われる。

だが、マダミスにおいて、帰納法を厳密に用いる場合、情報ができる限り多く開示されることにインセンティブが生じる。先述したアゴンのプレイヤーにとってはそれが最適解なのだ。それによって、各プレイヤーがそれぞれの持つ情報を全て開示し、現実的可能性の中で犯人を絞り込む。そこに必要とされるのは発想力やひらめきではなく、情報に即して正誤を照らし合わせる能力である。

では、かわぐち氏の言う「推理」や、発想力やひらめきといった要素はどのような推論なのか。あるいは、それは体系化されていない、個人の感覚に属しているものでしかないのか。シャーロックホームズやエルキュールポアロの見事な推理とは、あくまでミステリー小説上から抜け出せないのか。

論理の飛躍を肯定する「アブダクション推論」

ここで提示されるのが「アブダクション推論」である。帰納を元にした帰納的推論と比較すると認知度が低い。だが、私達はその生活において、このアブダクション推論を頻繁に用いているのだ。

アブダクション推論は哲学者チャールズ・サンダース・パースによって提唱された推論形式である。

チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)

パースによる帰納推論とアブダクション推論の違いの考察は非常に興味深い。
帰納推論は、観察した事例での現象・性質が、それらの事例が属するクラス全体についても見出されるという推論である。
言い換えれば、観察される部分を、全体に一般化するのが帰納推論である。
それに対し、アブダクション推論は観察データを説明するための、仮説を形成する理論である。
推論の過程において、直接には観察不可能な何かを仮定し、直接観察したものと違う種類の何かを推論する。

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』

このアブダクション推論こそが、かわぐち氏の言う「推理」に即した推論形式であり、発想力やひらめきに代表される論理の飛躍である。

たとえば、コナン・ドイルの小説『シャーロック・ホームズ』のシリーズで、ホームズがよく披露していることもアブダクションです。
『緋色の研究』で、ホームズがワトスンと初対面であるにもかかわらず、ワトスンがアフガニスタン帰りであることを言い当ててみせたことなどがそれにあたります。
ホームズは、ワトスンを見て観察できるさまざまな事柄(医者風、軍人タイプ、日焼けしている、かなり負傷している、など)から「この男は最近まで、英国陸軍の軍医として、戦地であるアフガニスタンにいた」という仮説を立てて、観察できた事柄をうまく説明してみせたわけです。
はたして仮説は事実であったため、ワトスンはとても驚きました。
(中略)
アブダクションは非演繹的な推論のひとつですが、観察した事象とは違ったなにかを仮定することで見えないものを推論する点が、帰納的推論とは違うところです。

久保(川合)南海子『「推し」の科学 プロジェクション・サイエンスとは何か』

久保(川合)が述べているように、ミステリーの世界においてアブダクション推論は頻繁に用いられている。探偵の見事な推理に舌を巻く時、そこには鮮やかなアブダクション、論理の跳躍が弧を描く。その軌跡に魅せられて、私達は謎を解こうとするのである。

望ましい推理の在り方

ここまで、ミステリーの分析を通して、推論形式には2つあることを示してきた。1つ目が「帰納的推論」であり、2つ目が「アブダクション推論」である。ミステリーの文脈において「推理」を語る時、この2つを混在して語ってしまうこと。それこそが、推理におけるコンフリクトの正体だ。

では、この2つを明確に区別することが望ましい推理の条件になるのか。答えはだ。アブダクション推論は推論プロセスの中に仮説や仮定を求める。それはつまり、推理のすべてをアブダクション推論によって導くということは、仮説の上に仮説を重ねた、砂上の楼閣を組み上げることに他ならない。
帰納的推論とアブダクション推論の緻密なバランスこそが、望ましい推理の在り方である。

ここで、どのようなバランスが望ましいのかを数理モデルで示す。予め断っておくが、筆者は数学に関しては門外漢である。そのため、以下の数理モデルも単純なものだ。より適した形にブラッシュアップできる方は、連絡していただけるとありがたい。

ここで数式で示したのが推理の絶対量となり、この値が高ければ高いほど、望ましい推理、即ちプレイヤーにとって「面白い」推理になる。

対数の底がa+1となっているのは、アブダクション推論を複数重ねることを咎めるためだ。自然数においては、対数の底が増加するほど推理の絶対量が減少する。そのため、a+1=2の時に最大値を示す。よって、ある推理における望ましいアブダクション推論の個数は1個であると導き出せる。また、アブダクション推論が0個の場合、対数の底は1になり、この際、真数は必ず1になってしまう。これは、アブダクション推論のない推理は単なる論理パズルであるということを示している。

対数の真数に配置した、「帰納的推論の情報量の総和」とは何か。ここで、クロード・シャノンが論理立てた情報理論から一部を抜粋する。

クロード・シャノン『通信の数学的理論』より、一部改変

ここでのnは確率を示している。具体的に見ていこう。
2枚のカードから1枚を選ぶ時、その時の確率は1/2となる。この際、情報量は1となる。
4枚のカードから1枚を選ぶ時、その時の確率は1/4となる。この際、情報量は2となる。よって、後者の場合に得られる情報量は前者の2倍となる。
つまり、より確率の少ない(珍しい)情報を知るほど、情報量は大きくなる。

マダミスにおいて、情報収集は有限個のカードから1枚を選ぶ試行に等しい。よって、帰納的推論の情報量もまた、この定義によって導き出せる。

また、この情報量は加法性を持つ。つまり、それぞれの情報量を足していくことで、総和が導き出せるのである。

対数の単調増加性から、帰納的推論の情報量は多ければ多いほど総和が増加する。ここでは、より多くの情報量を得ることにインセンティブが生じる。

まとめると、帰納的推論の情報量を多くもった上で、1つのアブダクション推論によって推理を構成する。この際に推理の絶対量は高い値を示し、プレイヤーにとって「面白い」推理となる。作品における推理の絶対量がどれだけ高いかがミステリーの面白さに直結するのだ。

また、この数理モデルを活用することで、マダミスにおける対話の重要性も間接的に導き出せる。帰納的推論の情報量を最大化するためには、より多くの情報を手に入れることが必要になる。個人で情報を手に入れる機会は制限されているため、それより多くの情報を手に入れるためには他者との対話が必須だ。故に、合理的判断から他者との対話が奨励される。

総括

マダミスの面白さとミステリーの面白さ

ここまでを通して、「マダミスの面白さ」と「ミステリーの面白さ」について論じてきた。

「マダミスの面白さ」とはアゴンとミミクリの対立におけるグラデーションにある。2つの対立する要素が融和し、渾然一体となったところに、マダミスという新しいジャンルの遊びが生まれたのだ。その構造的な仕組みを知ることで、プレイヤーはメタ的に自身の遊び方を分析し、最大化することができる。

アゴンとミミクリを内包した楽しみ方こそ、「物語体験を楽しむ」ことに他ならない

「ミステリーの面白さ」とは帰納的推論とアブダクション推論のバランスにある。それぞれの情報量と個数によって、推理の絶対量が決まり、これが面白さに直結する。

推理の絶対量を定量として捉えると、その値同士を演算することが可能になる

興味深いのは、この絶対量もまた、個数が制限されていない点だ。作品によっては、複数の推理を前提とするものもあるだろう。その場合、推理の絶対量はそれらの総和によって示される。つまり、「複数の謎を複数の推理で解決する物語」と「1つの謎を1つの推理で解決する物語」を定量的に比較することが可能になるのだ。前者と後者の間に優劣がある訳では無い。あくまでこの比較は個人の内において、どちらがより好みかの差異に過ぎないのだから。

加えて、ここではアブダクション推論の個数にしか焦点を当てていない。これは私の数学的知識が乏しいことに起因している。アブダクション推論は論理の飛躍にこそその良さがあり、それを定式化することで、より解像度の高い数理モデルが示すことができる。

どのようなアブダクション推論が相応しいか。論理の飛躍幅と、推理の難しさを定量化できればそれが示される。だが、それもまた個人の感覚に依拠する部分も大きく、あくまで感覚的にどれくらいか、を示すことしかできない。

ここまでマダミスの構造的分析を行ってきた。拙文にここまでお付き合いいただき、感謝しかない。最後に、拙作『地球より愛をこめて』では、この「マダミスの面白さ」と「ミステリーの面白さ」をどのように応用しているのかを解説する。ネタバレは一切含まないが、シナリオの内容に触れるため、初見の楽しみを最大化したい人は、プレイ後に見ることをおすすめする。

『地球より愛をこめて』における「ミステリーの面白さ」

このゲームは論理パズルではない。それは即ち、アブダクション推論を必要とする推理が構造的に組み込まれている。私自身、ミステリーにおける先人達の見事な推理に魅了されてきた。奇想天外なトリックに感銘を受けた経験は、ミステリーの楽しみとして心の中に刻まれている。故に、アブダクション推論を必要とする推理は、私にとっての必要条件であった。

ではその難度はどうか。ここについては言及することを避けよう。1つ示すことができるのは、物語全体を通してプレイヤーが体験する違和感。その違和感もまた、正解へと至るアブダクションに組み込まれているということだ。ぜひ注意深く、全ての要素を吟味していただきたい。跳躍は高く、不安かもしれない。だが、踏み込んだ先にしか、真実はないのだから。

また、このシナリオには密室が出てくる。古典的なモチーフではあるが、現在でも多様されるほどに、それは魅力的な題材だ。これは論理的推論で辿り着けるのか、あるいはアブダクション推論を必要とするのか、それもまた実際にプレイして確かめてほしい。

作者からのヒントとしては、数理モデルで示したように、アブダクション推論にアブダクション推論を重ねることは、砂上の楼閣に他ならない。ここまで、アブダクション推論を多用してきたが、それは即ち、仮説の上に仮説を重ねることを意味する訳では無い。

かつて、数学者達はユークリッドの「第5公準」を疑い、その結果として非ユークリッド幾何学の世界を切り開いた。彼らの根本にあったのは、「第5公準」の醜さである。完璧な論理とは美しく、簡潔に記されたものだ。私もまた、彼らと信念を同じくしている。それだけは伝えておこう。

『地球より愛をこめて』における「マダミスの面白さ」

このシナリオはアゴンとミミクリ、どちらの要素も強く含まれている。マダミスというシステムの中でシナリオを書く上で、私にとって必要条件であった。アブダクション推論を軸とした推理の絶対量を保証するためには、プレイヤー間の対話が必須だからである。

推理をし謎を解くというプロセスは、ミミクリよりもアゴンに近い。そのため、シナリオの根底にある謎は、アゴンのプレイヤーに向けたものだ。この謎を解くプロセスは、対作者としての側面もある。思う存分楽しんでもらいたい。

ミミクリのプレイヤーに向けては、この作品の舞台設定を用意した。閉鎖空間を演出する「宇宙船」によって、SFというジャンルも連鎖的に決定される。重要なのは、その必然性だ。それに対する答えも、シナリオの中で用意されている。特殊な空間の、特殊な設定の中で、しばしの間生き抜いてほしい。

最後になったが、ここまで読んでくださった全ての人に、この場を借りて感謝を申し上げる。本当にありがとうございました。

参考


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