カテゴリ的に生きるか、コンセプト的に生きるか。
おはよう、こんにちは、こんばんわ。
クリエイティブ業界のクソガキこと、さわくんだ。(誰も通称してない)
よろしゅう、皆の衆。
この日記ではクソガキがうんちくを垂れ流すことをコンセプトに書いていく。
決してお下品な”アレ”ではなく、お上品な”うんちく”だ。
クソ面倒で、クソ冗長で、クソどうでもいい内容が続いていくはずなので。
読む場合は覚悟して読むことをお勧めする。
カテゴリー的極み、コンセプト的極み
さて、今日は最近思い至った、「カテゴリー的人間」と「コンセプト的人間」の2種類の存在について勝手に考察していこうと思う。
思い至ったのは、箱根にワーケーションに行ってたときだ。
仕事に疲れを癒すために行ったので、基本的に湯治に行ったのだが。
そこで、真逆と言ってもいいほどの湯治場に出会った。
一方は、ザ・湯治場。
https://tenzan.jp/tenzan/
名前は天山湯治郷。
年季がありながらもおしゃれな佇まいの暖簾をくぐると、木造建築の千と千尋の世界のような場所。
料亭の料理も自然薯ベースで非常に美味しく、お湯もさまざまな種類を楽しめ、古風な石鹸で体を洗う。
想像している湯治場の頂点のような設備で、非常に満足した。
箱根の中でランキング1位なのも頷ける。
一方は、恐ろしいほどに素朴な湯治場。
https://shumeikan.biz/
名前は秀明館。
温泉は、熱湯と通常の湯の2個(女子風呂に至ってはただ1つらしい)
申し込んだ人は古風な旅館の一室のような場所に通され、お湯と部屋を行き来する。
石鹸もなく、食事もない。
あるのはしめ縄がされたお湯のみ。
ちなみにお値段は圧倒的にこちらの方が高いとくる。
さて、これだけ並び立てられると圧倒的に天山湯治郷の方が良いように見える。
実際、ランキングの1位であり家族連れ、学生あらゆる人々がそこに集まっていた。
しかし、秀明館は秀明館で独自の世界線ができていた。
客層も非常に大人びていて、もう一つの湯治場が”湯治場”であるのに非常に騒ついていたのに対して、”湯治する”をある意味体現する世界がそこにはあった。
私が最終的に心に惹かれ、記憶に残っているのは圧倒的に秀明館である。
ということをふと思っていた時に、「カテゴリー」を極めることと、「コンセプト」を極めることはまるで対極にいくのだなぁと思ったのである。
カテゴリーの極みが最初の天山湯治郷であり、コンセプトを極めているのが秀明館。
ではなぜ、ここまで違いが生じるのだろうか。
カテゴリーは大衆が定義する
天山湯治郷について上で書いていた時私は、
「想像している湯治場の頂点のような設備」
と書いた。
意図せずそうなったが、まさにここにカテゴリーを極める場合の極意が表れている。
カテゴリーを極める場合、そこには受け手側にとって想像できる最大のものを作ることが大事になる。
逆に、想像に反していたり余分なものが加わっている場合はカテゴリーを極めることから離れていく。
故に、カテゴリーを極める場合、受け手(大衆)はその名称(今回は湯治場)をどう想像するのか。
ということについて最大限予想し、相手の期待を裏切らないようにすることが求められる。
これを完遂して初めて、大衆に受け入れられるものが構築可能となる。
コンセプトは2重に定義する
一方のコンセプトの極み。
こちらはどのようにして至るのか。
秀明館を例にすれと「素朴」であることになるのだろうか。
いや、きっとそうではない。コンセプトを極めることは別に「〇〇であることである」という具体的定義はできないように思える。
では、どうなるのか。
私はコンセプトを極める場合、「二重に定義する」という営みを徹底することにあるのではないかと思う。
どういうことか。
まず、秀明館が生成される前。
そこには、ただの事実が陳列されている。
箱根であること、温泉が湧き出てること、森に覆われていることetc.
などであろう。
そこに、「湯治場」であることをまずは定義することで、湯治場としてその場所は生成される。
ここまでは天山と一緒だ。
しかし、コンセプト的な極みに達する場合、ここにさらに「湯治場とは何か」という定義をさらにするのだと私は思う。
ここでは、秀明館のコンセプトとは何かは言明しないが、この2重に定義されることによって圧倒的に削ぎ落とされながらも、
確実な世界と、他では得られない充足感、余韻、印象に残る何かが宿ってたのだと思う。
カテゴリ的に生きるか、コンセプト的に生きるか
カテゴリの極み、コンセプトの極み。どちらに向かうか、これは人の生き方にも通じてくる。
カテゴリを極めるならば徹底的に周囲や社会をよまなければいけない。
逆にコンセプトを極めるなら、自分の定義を極めなければいけない。
どちらがいい悪いではなく、どちらに向かっているか、そしてどちらに向かいたいかが大事なのだととても思う。
果たして、あなたはどちらなのか。自分に問いかけてみてほしい。
今週の質問:カッコいいとは、どういうことさ?
「かっこいい」かどうか、とか考えずに生きていることではないだろうか。
冒頭の話をひっくり返すような話になるが、「定義しようとして定義する」ことをした時点でどこか無理が生じる。
その無理さは歪な形になって「カッコよくない」ものとして立ち現れるような気がする。
なので、「かっこいい」を定義しないを言い換えるなら「自然体」ということなのかもしれない。
つまり、カテゴリ的定義もコンセプト的定義も、無理した瞬間にそれは「カッコ良くない」のであり、自然とそう定義してしまった。
くらいが、一番「カッコ良くなる」ような気が私はしている。
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