見出し画像

3年経っても

先月、祖父の3回忌があった。

私は幼い頃から祖父母が大好きで、
そんな祖父が亡くなって、3年。

私はまだ受け入れられていないのだなと実感した。




今までにも、曽祖父母が亡くなったことがあるから、
身近な人の死を経験したことはあった。

でも、その時はそれほど引きずらなかった。

悲しみはもちろんあったけれど、
お通夜やお葬式をしたら自分の中で受け入れられた。


曽祖父母と遊んだこともあるし、
お話ししたことももちろんある。

だから思い入れがない、とかではないと断言できる。




曽祖父母と祖父で何が違うかといえば、
私の人としての基盤に影響があったかどうか。

祖父は私をすごく可愛がってくれ、
私にいろいろなことを経験させてくれた。

いろいろなところに連れて行ってくれたり、
いろいろなものを見せてくれたり。

私の幼少期の経験のうち、記憶に残っているものは
ほとんど祖父が経験させてくれたものである。

今の自分のことを考えると、
それらの経験が全てつながっているように感じる。

多すぎてキリがないから、1つだけ。


例えば、私の触覚のこと。

私は触った時の感覚にこだわりがあって、
これはいいけど、これは嫌だ、と
わかりやすいところでは服とか、
わかりにくいところではアクセサリーとか。

実際に触って選びたいタイプだから、
ネットショップとかも、苦手なほうである。

それは、祖父がいろいろなものを触らせてくれたからだと思う。

砂遊びの砂は砂浜の砂も家に持ってきてくれたり、
虫を捕まえてきて渡してくれたり、
似ている木の実を持ってきて比べてみたり、
野菜とかの皮を触らせてくれたり。

それらをいつも、「どう?」と、
微笑んで私のほうを見ていた。

そんなふうに、直接私に触らせてくれた経験から、
私は今でも直接触って確かめることが好き。


こうして、いろいろなことを経験させてくれた祖父。

その経験の中でも、
今でも好きなことがいっぱいある。

もちろん怒られたこともあったし、
少し頑固な祖父を恐いと思っていた部分もあった。

だけど、祖父のことを考えるたびに、
思い出すのは、
優しく私を呼ぶ声や、
大きなしわしわの手、
いつもの微笑み。

わがまましか言わない幼い頃の私のことを、
「やだもん怪獣」
と呼ぶときですら、優しい声で、呼ぶ。


高校生、大学生と年齢を重ねるにつれて、
会う機会は減る一方だったけれど、
そんな祖父が大好きで、
お盆やお正月など、イベントがあるときだけは、
どれだけ忙しくても、家に行っていた。


大学生になり、祖父が入院した時、
私はすぐに、悟った。

病名も、状態も聞く前から、
もう、回復はしないのだと。


実際には入院してすぐに亡くなったわけではなかったし、
母も、病院に何度も行っていたけれど、
その度に本心で「元気だったよ」と言っていたし、
退院して、家での介護も長い間続いた。


いろいろな事情で、私は1度しか病院には行けなかったけれど、
退院して家に戻ってきて、
私は祖父の家に行く機会を何かと作って、会いにいった。

だけど、祖父の家から帰ってくるたびに、
私は涙が止まらなくて、
家族に気づかれないように、夜、泣き続けた。

亡くなってからも、半年ほどは毎日涙が出てきたし、
今でも思い出すたびに涙が出るけれど、
考えないようにしていても、毎日のように思い出す。

幸い、家族は鈍感なので、
祖父に会うたびに、
私がこんなに泣いていることには気づいていない。




これほどまでに、私の中では、
祖父は大きな存在なのだ。

私という人間の基盤を、作った人。


祖父の存在が大きすぎて、
私はこれから先、生きていくのが不安だ。

祖父という個人の死だけでなく、
「死」というものに対して敏感にさせてしまった
祖父の死。

私は今、「死」というものに対して敏感で、
なるべく関わらないように、
耳にしないように、生きている。

そうでもしないと、
再び「死」を身近に感じてしまった瞬間に、
自分の中で何かが壊れてしまいそうで。

自分という人間が、わからなくなってしまいそうで。


祖父の死を受け入れるということは、
自分の死を受け入れるということになりそうで、
そうなってしまったら、
私はこの世から消えてしまいそうで。

でもそれは、
まだ先の出来事のような気がして。

だから受け入れることができなくて、
受け入れたくなくて。


祖父の死を受け入れないことで苦しむのは自分。

それはわかっているけれど、
どうしても、今じゃなくて、
もっと先に、頑張らなくても受け入れることができるような
そんなタイミングがある。

根拠はないけれど、そんな感覚がある。

まだ、綺麗な思い出として、
祖父のことを自分の中にしまっておきたくない。


それに、私は結構、
祖父のことを思い出して苦しむ時間が好き。

苦しむというと、語弊があるかもしれないけれど、
祖父のことを思い出して、
涙が溢れて止まらなくても、
私は祖父のことが好きだから、祖父のことを考えたい。




祖父の死が、私を縛っているのは承知で、
日常でも、かなり影響がある。

その一つが、私の住む場所。

私は今祖母(亡くなった祖父の妻)の家に住んでいる。

もちろん、祖母のことが大好きで、
祖母と一緒にいたいからというのが大きな理由だし、

それ以外にも、祖母が一人暮らしだから、とか
実家にいるよりも、実家の人との関係もいい、とか

いろいろな理由があるから祖母の家に住んでいる。

今のところは、祖母の家から出るつもりはないし、
祖母が亡くなってからも、
この家を保って行きたいとは思っている。

仕事も、自分のやりたいことをやるということと同じくらい、
この家から通うということを大切にしている。

自分の中では、ここにいることで、
祖父のことをたくさん思い出すことができるし、
祖父を近くに感じられる。

祖父を近くに感じられるからこそ、
祖父の死を受け入れることができないと思っている。

物理的距離は、物事を受け入れることにつながると思うから。


でも、私はそれをしたくないし、
先述した通り、今ではないと思う。

このことが、自分を縛っていることもあるけれど、
私はそれ以上に、祖父のことを優先したいと思っている。


自己満足かもしれないけれど、
自分のことを大切にするということは、
自分の感覚を大切にして、突き詰めてみるということでもあると思うから。






祖父のことを、
こんなにスピード感をもって文章にしたのは初めて。

いつもは、アナログで、
のんびりと、つらつらとノートに書き綴っている。

こういう綴り方もありだな。

頭をフルで動かして、
指もフルで動かしてキーボードを叩いて。

こういうのも、いい。







次は、のんびり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?