教育の原点は,「遊ぶこともできない人は,学ぶこともできない。」かもしれませんね!

私の好きな言葉の一つに,次のようなものがあります。

遊ぶこともできない人は,学ぶこともできない。

です。

私は,この言葉を信念・モットーのひとつとして,子供の頃から,持ち続けてきました。


もっと言えば,そもそも,「遊び」と「学び」を二項対立的に区別することには,無理があります。

学校を意味する英語の"school"は,古代ギリシャ語の「スコレー」を語源としています。

古代ギリシャの「スコレー」とは,「閑暇」,「ひま」を意味していました。

人が,時間的にゆとりがあり,暇を享受しながら,様々なことを考え,そして,それが哲学・学問につながる知的営みをするのが「スコレー」の神髄でした。

2,000年以上前のギリシャでは,人は,暇だから,哲学をし,学問をしたのです!

「暇つぶし」とまでは言いませんが,人は,時間にゆとりを持ち,暇を享受した状態でなければ,真の思考や学びは,なかなかできません。

そう考えると近代教育は,時間的にも,集団的にも組織化され,決められた時間の枠内で,決められたことを,一定の集団で行うことが,学びの姿になっています。

2,000年以上の前の古代ギリシャ人が,現在の学校教育を見学したら,きっと子供奴隷の労働の光景だと思うかもしれませんね。


スコレーというか,古代ギリシャの思索の風景を,ルネサンス期にラファエロが描いたのが,名画「アテネの学堂」です。

アテネの学堂

人が,時間的なゆとりを享受しながら,あちこちで,思索にふけったり,議論をしたり,意見を交換したりしている風景が,ルネサンス的な画法で描かれていますよね。

時間をゆっくりと使い,自由で,縛られない形で行うのが,古代ギリシャの学びだったようですね。


また,日本語(外来語)でも,英語でも,シンポジウム(Symposium)という言葉がありますが,この言葉も,古代ギリシャ語に起源を持ちます。

古代ギリシャのシンポジアとは,日本語では,「饗宴」とも訳され,人々が集まり,横たわり,酒を酌み交わしながら,政治や哲学を議論することを意味する言葉です。

この絵のように,長椅子に横たわりながら,ワインの杯を傾け,時に,音楽を奏でながら,議論に花を咲かせるのが,シンポジアです。

古代ギリシャの頃の絵なら,

といった感じですね。

いずれにしても,「遊び」と「学び」が,未だ未分化で,有り余る時間の中で,思索を深め,意見を交換し,議論をたたかわせるのが,哲学であり,学問だったのが,古代ギリシャの時代でした。


近代教育(現代教育)には,近代教育の理念と理論がありますから,一概に,古代ギリシャの学びのあり方と比較して,優劣を付けるわけにはいきませんが,古代ギリシャの素朴かつ贅沢な学びのあり方も,忘れてはいけないと思っています。

遊ぶこともできない人は,学ぶこともできない。

が私たちに教えてくれることは,

遊ばないことが,学ぶということではない。

遊ばなければ,学んでいるということではない。

遊びを否定し,禁止することが,学びを増進するものではない。

ということです。


遊びを敵視することが,学びを成功させるものではなく,遊びの中に,あるいは,遊びとともに,学びを成立させることができれば,素晴らしいと思っています。

これは,単に,「遊ぶときは,遊ぶ。学ぶときは,学ぶ。」という風な,二項対立的な考えではありません。

遊ぶときと,学ぶときの,オンとオフをしっかり付けるという意味でもありません。

学びを遊びの如く,楽しく,自由に,想いのままに,やってほしいという意味です。

学ぶことが,最高の遊びだと感じられるようになってほしいなと思っています。


そう言えば,私の母校のモットーは,

学問は,最高の遊びである。

でした。

また,二千数百年前の古代ギリシャだけでなく,同時代の中国でも,『論語』に孔子の言葉が残っています。

これを知る者は,これを好む者に如かず。

これを好む者は,これを楽しむ者に如かず。

(あることを知っている人は,そのことが好きな人にはかなわない。

あることが好きな人は,そのことを楽しんでいる人にはかなわない。)


二千数百年前の学びの姿勢と態度,もう一度,復活させたくなりますね!


河野正夫
レトリカ教採学院

https://kyousaijuku.com/


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