中高生に絶対見て欲しい。高三の私が12年間学校という教育機関に通ってようやく理解した勉強の本質。


丁度2週間前の英語の授業だったろうか。とある生徒が内職をして教師に怒られていた。その際にその教師は「何であなたは勉強するのか」とその生徒に問うた。その生徒は少々イラついていたのかその教師が嫌いだったのか(おそらく両方)、「受験のためです」とはっきり答えた。(注記:一応その生徒は英検2級持ちである。まあ私からしたらそんな風に学びを蔑ろにした時点で捨ててしまえと言いたいが。)

ここで自分は考えさせられた。確かにその生徒の言ってることは間違ってない。高等学校という機関の表面上最大の目的は、生徒自らの希望する進路を実現させることにある。しかし受験のための勉強ということは、受験の対策さえ出来てしまえば、極端な話受験に出てくる問題の答えさえ分かれば良いのである。そのための勉強というのは違和感を感じた。自分は来年度から一人暮らしということもあり、時間と金の管理を自らやらなければならない。エンゲル係数が凄いことになりそうだが、何とか頑張って家計をを維持するために今はそのための情報をかき集めている。そのなかである言葉に出会った。
「本当に成功する人は、宝くじが当たったら時にその金で投資をする。例えそれで全て金が消えたとしても、次の成功に結びつけられればそれでいい」とのことだ。
学校という教育機関はどうにもそれを学べる機会だということに自分は今の今まで気がついてなかった。知識教養というのは、金という不安定で確実性のないものとは違う。一旦手にすれば生涯それが失われることはない。内職を注意した先生はまさに知識教養の塊だ。それを得るための時間捻出の方法が物凄く気になるが、まさに人生の成功者と言わんばかりの知識教養を身につけている。恐らく自分が知り得る全ての教養を彼に話しても、「それくらい常識だ」という形でさらに深く切り込んでくるだろう。そのレベルの知識に憧れるし、そうなりたいと思う。
流行に惑わされない確固たる教養というものを身につけるのが勉強の本質なのだ。
それを体験したのは今週。大学の推薦入試の志望理由書と自己PR書を書いて担任(国語教師)に添削を依頼した。その際ボロクソに言われた。「これは志望理由書ではなくて小論文だ」と。確かにそうだった。文章そのものは、自分がその大学の学問と、将来の目標の共通点と応用を書いたものだった。論文としては70点くらいのものだろうが、志望理由書としては0点だ。その分志望理由にその論文を落とし込むのは簡単だったのでその後の作業は楽ではあった。
ちなみにこの一連の作業にかかった時間はおよそ10時間。3日間も自転車に乗れなかったのは後悔したいレベルだが、その分対価として得られたものはとても大きい。このような経験を得ることが学校教育の最大の目的なのだろう。

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