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#163 生存報告 240222

 動ける日には動いている。ただし、何らかの強迫観念によって。それを回避するためには、遊んで時間を使えばいい。脳のリソースを楽しいことで埋めてしまえばいいのだ。楽しめる自信がないときには、とにかく外に出て、美味しいものを探せばいい。

 しかし、ここ最近は「動け!」の圧がすごい。そんな自分の心の声を、体が拒否しているようだ。この拮抗は、「このまま仕事を続けているとヤバいぞ!休め!」と思いながらも働かざるをえない、労働のジレンマと同じものだ。

 つまり現在時点で、労働に等しい、あるいはそれ以上のストレッサーを抱えている。だからきっと、当面の間は「元気になった」がない暮らしが続いていくことだろう。

 動ける日には、動くことでストレッサーを取り除くための具体的行動をとり、前進する。これはほとんどの場合、体調面では後退する。だから、動けない時にはひたすら休む。しかし、ストレス源の解消が停滞する。そのこと自体にストレスを感じたりもする。

 ところで、アラビア語を学ぼうとしない不埒なムスリムであるわたしだが、好きなアラビア語がひとつある。

インシャアッラー(إن شاء الله

 これは「神様がお望みならば」という意味で、アラビア語圏では日常的に(都合よく)使われているそうだ。

明日晴れるかな?「インシャアッラー」
結婚できるかな?「インシャアッラー」
病気治るかな?「インシャアッラー」
貸した金、返ってくるかな?「インシャアッラー」

 こんな具合に使われているらしい。逆に、望み通りにならなくとも、神様がそう望んだまでのことである。きっと彼らはそのようにして、過度に自分を責めたりはしないのだろう。

 以前、この話を酒のツマミ(飲酒するムスリム笑)として、友人に話してみたことがあった。友人から「関西弁の、しらんけど。みたいな感じか」と言われ、もちろん意味は異なるが、その使われ方からして非常に的を射ており、爆笑した記憶がある。その夜は二人でインシャアッラーを言いまくった。

 以前、わたしのnoteは家族も読んでいる、と書いた。母からはよく言われる「ぼちぼちやれ」と。ぼちぼち、これもなんだか都合が良くて、でも心が軽くなる良い言葉だなと思う。とりわけ、今のわたしにとっては。

 過度に心配されても困惑するし、無関心でもいてほしくない。でも、「そうか、ぼちぼちやりなはれ」と言われれば、すっと受け取ることができる。なんとも不思議な言葉である。

 イスラームネタをもう一つ。実は、わたしには実名とは別に、イスラームネームがある。自分でつけることができるので、アッラーの99の美名(神様に名前は無いが、99もの別名がある。これを覚えるための歌まである。さながら『ポケモン言えるかな?』である)から選ぶことにし、その中から、わたしはガッファール(الغفور)を選んだ。この言葉には「赦し」という意味がある。

 当時の気持ちとしては、現代社会に足りていない価値観、社会が取りこぼしているもの、そうしたものを名乗ろう。そんな気概で選択した訳だが、そのわたし自身が全く自分を赦せていないというのは、なかなかに…おっと、ここから先は、インシャアッラーでぼちぼち行こう。どうにかなるさ、しらんけど。

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