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「屋根裏ハイツ再建設ツアー」東京公演評

・概要

 「屋根裏ハイツ再建設ツアー」と銘打たれて上演された『とおくはちかい(reprise)』『ここは出口ではない』という二つの舞台はそれぞれ同劇団の代表作であるようですが、どちらも初演時とは大きな変更が加えられていたそうです。ツアーは東京のこまばアゴラ劇場(7/23-/8/2)と仙台の演劇工房10-BOX(9/18-9/22)を回りました(京都公演は中止)が、ここで論じるのは私の観劇した東京での公演です。

 「覗き見るように御覧いただけたら幸いです」と示されたその舞台は、しかしそれほど窃視的なものではありませんでした。窃視というには、舞台上に再現された室内の家具はかなり厳選されてフィクションの気配を漂わせていて、生活感は希薄だったのです。それに俳優も基本的には観客に身体を向けているので、あくまで見られるために適切に構成された視覚が提供されることになります。
 「覗き見る」ということであれば、身体の存在を相手に悟られる可能性のないままに一方的に視線をぶつけることのできる「オンライン演劇」の経験の方がよほどそれに近かったでしょう。
 では、屋根裏ハイツのこれらの舞台はいったいどのような意味で「覗き見」的であったのでしょうか。

・とおくはちかい(reprise)

 劇場に入り、まず最初に驚かされたのがその環境の快適さでした。客席間の距離がかなり大きく取られ、パーソナルスペースがしっかりと確保されているのです。昨今の他の舞台のゆとりある客席に比しても間隔は顕著に大きかったです。
 その結果、自分が一人でそこにいるのだ、という感覚が強まりました。舞台では大勢で場を共有する一体感に満ちたライブ性がしばしば重視されますが、しかし今回の屋根裏ハイツの東京公演では、客席の集合性はむしろ弱められていたのです。その分、舞台に向き合う個人の存在が自覚されやすい上演形態だったと言えます。
 客席はL字型に舞台を囲んでいて、他方の辺に座る観客のことは、舞台の方に集中すれば目に入らないけれども、客席側を意識すれば簡単に覗けるようになっていました。つまり客席が見る場でありつつ見られる場でもある、両義的な空間として機能する配置がとられていたのです。たとえば、私の視界に入った女性が、上演中に靴を脱いで両足を椅子にのせくつろいでいたのですが、このような光景は他の舞台ではなかなかお目にかかれません。それだけ自然とリラックスしてしまうほど、プライベートな場所として、しかし他者(ここではわたし)の視線にただちに晒されうる場所として、客席は設計されていたわけです。

 物語はある男性が郷里の友人を訪れるさまを描いたものですが、会話はドラマ性の希薄な、なにげないものに終始していました。呟くような抑揚のない小さな声で、ぼうっとしていれば聞き逃してしまいそうです。舞台も簡素で、テーブルとベッド代わりのソファに、垂直に伸びる積み木のような、あるいはインテリアのような抽象的なオブジェがあったのみだと記憶しています。一度短い場面転換を経て、10年の時が簡単に過ぎ、ふたたび彼は友人の家を再訪します。舞台美術に大きな変更は見られませんが、この長い年月の間に友人は引っ越しを済ませた旨が語られます。震災で家を失った友人は仮の住まいを転々としているのです。
 俳優の声が小さい分、わたしは自然と息をひそめるよう注意していました。それは台詞を聞き逃さないためでもあるし、また他の観客への配慮のためでもあります。あるいは、描かれるのが震災をめぐるドラマであるという事実もまた場を緊張させていたでしょう。お腹が鳴るのを抑えようとこらえたのもよく記憶しています。そういえば、作中にから揚げを実際に食べる箇所があって、コロナの自粛生活で他人との交流が途絶えていたわたしとしては、その光景のいかにもナマのてざわりに強く驚かされました。
 沈黙を守り、暗闇の中ひとつところに動かずじっとしていることを強制される劇場の体験の新鮮さが身体的に実感されました。それはほとんど無意識レベルで責任と公共性――ソーシャル・ディスタンスの時代に身体から抜け落ちていたもの――を身体に改めて内在化する経験です。しかし、それは長きにわたる自粛を経たからというばかりではなく、むしろそれだけ静かに身体に強制力を働く構造が屋根裏ハイツの舞台にあったということでしょう。
 考えてみれば、「覗き見」とは対象から隔離された安全な居場所で行われるようなものではなく、むしろ発見されるリスクを恐れながら、暗所で声を殺すことで実践される、リスキーな悦楽であったでしょう。他者に対して至近距離に接しながらもすんでのところで身を隠す、そのあわいに佇むことがこの公演の核であったはずです。

 描かれる二人の人物は被災者ですが、しかし、災害の被害者というヒロイックなステレオタイプは決して付与されません。観客の同情や涙を誘うような悲劇的な出来事は開陳されることなく、あるいは絆や希望といった風な仕方で、彼らの無機質な生活の短絡的な肯定が行われることもなく、あくまで淡々とふたりの生活者の現実が紡がれます。平坦な会話は退屈なようですが、しかしそのやりとりを味気ない物として棄却することの暴力性の自覚が観客に傾聴を迫ります。ここでは、会話は退屈であればあるほどスリリングなのです。
 震災の被害者を演ずるという構図には、しかし、どれだけ役に近づこうとしても彼らの気持ちを知ることはできないし、また知った気になってもいけないという、当事者性をめぐる問題が付きまといます(たとえ演者自身が震災を経験していようと事情は変わりません)。
 鍋つかみのように、ただ、ある。終盤ではそのような暮らしの姿が語られます。思い出され、物語化されることを拒む当事者の姿がそこにはあります。脚色を阻む当事者への傾聴の経験。こうした、つかずはなれずの「覗き見」の距離の中で、舞台の魔法で捨象されてしまった十年感の重みが、その省略の簡単さのゆえに、いっそう静かに深刻に私たちの身に降りてきます。そのようにして、遠方の他者をいくらか親密な存在として引き受けること。

 美術批評家のマイケル・フリードは「芸術と客体性」という論文の中で、それ自体としてはほとんど中身も持たず、美術館という場所の制度性にその真正性を支えられたミニマル・アートのことを「演劇的」であるとして批判しています。当事者性をそのままにリテラルに描きだすためにドラマ性をごくミニマルに切り詰めた本作は、ある意味でこれ以上ないほどに「演劇的」であると言えます。しかし、ミニマル・アートとは違い、屋根裏ハイツの舞台にオーラを付与する、その場の空気感は、その構造が促す観客の静かに主体的な参与によってもたらされたものです。
 場面転換時の時間の跳躍は、舞台の隅にあるオブジェの下方の部品を俳優が取り外し、上方に付け替えるというきわめて抽象的な操作によって行われます。また、通常の家屋の部屋の高さを明らかに突き出たこの垂直なオブジェの存在が、簡素な舞台をメタフォリカルな空間として異化してもいました。観客自らの積極的な想像によって姿を変え得るような多義的な場として空間が設計されていたのです。
 このような能動的な参入を要求する構造を通じて、、2mのディスタンスにも拘らず、観客は場に強くかかわっていました。とおくはちかいのです。

・ここは出口ではない

 『ここは出口ではない』が再演されたことの効果として何より大きかったのは、宮川紗絵さんがリモート出演となっていたことでしょう(仙台版では舞台に立っていらしたようです)。
 このコロナ対策としての応急処置がしかし舞台上で説得力を持っていたのは、作品が此岸と彼岸との境界の解消を主題としていたからです。夜間にビデオ通話をしているカップル。知人の女性の葬儀を振り返っていると、気が付けばその女性が男性の部屋に来ている。しかし二人は驚く風でもなく彼女を歓待します。くわえて、ふと外出した男性が、駅が封鎖され道を見失ったとかで路頭に迷っている別の男性を連れ帰ってしまいます。
 舞台に通底しているのは死の気配です。駅の封鎖などといった状況は阪神淡路大震災やオウムの事件を暗示しているかのようですが、しかし描かれるのはあくまで一市民たちのせまくちいさな生活半径での出来事です。その過剰に小規模なスケールのうちで示唆されるカタストロフィのちぐはぐな予感が、死者の世界と現世とをシームレスにつないでいるのです。
 四人はその場に居合わせてはいるのですが、俳優の演技にはどこか互いに浮いたところがあって、同じ場所に居ながらにして実はそれぞれが別の世界にいるかのような、ふぞろいな感じがぬぐえません。台詞回しも、他者に話かけるというよりは個人的なつぶやきの感の強い語りのようなもので、そこでは役と同時に俳優個人の姿が前景化されています。そして、そのような俳優個別のばらばらな身体言語が、個を顕示する独白的な会話によって強調されることで、それぞれの人物同士の「場違い」感がささやかに示されていたと思います。そしてもちろんその「場違い」さは、宮川さんが劇場外から舞台に参加することで構造的に反復されてもいます。
 『ここは出口ではない』は『とおくはちかい』と舞台セットを共有していて、実際に両者はネガ/ポジの関係にあります。『とおくはちかい』が場の共有を描いたのだとすれば、『ここは出口ではない』は場の「非共有の」共有へ向かっているのだと言えるかもしれません。実際、死者の復活という設定やフィクショナルな演技によってドラマ性が強まった『出口』では、舞台と観客とを隔てる「第四の壁」の存在が堅固です。
 あるがままにあることを肯定するばかりでは、生死の区別はつかなくなってしまいます。盲目な現状肯定、根拠なき肯定の反復は、知らず知らずのうちに人間の生を奪うのです。そのような内容を伴わない形式の反復(スノビズム)による甘やかな「死」こそが、1995からこの2020までを貫通する日本の心性だったのではないでしょうか。そして今なおここは出口ではない。
 『出口』のカップルの男性は健忘症で、直前にあった出来事を不自然なほどすぐ記憶から消してしまいます。それは彼の存在のよるべなさの表現であるとともに、楽観的な「あるがまま」主義に広く妥当する態度の具現化でもあります。
 さて、このように二つの大きく相反するテーマが両作品によって呈示されながら、しかし両者を止揚する答えは与えられません。問いに答える責任は観客に投げられています。『出口』の終幕は緩慢で、物語が一定のまとまった完結をみたあと、ほとんど無意味に思えるシークエンスがだらだらと持続します。やがて一応舞台は終幕し、すぐに明転して、観客は劇場の外へとさまよい出るのですが、しかし結局のところわたしたちは依然その「持続」の中にいるのです。

*2022.03.26追記
屋根裏ハイツ主宰の中村大地さんからご指摘をいただき、以前の批評から以下の点を修正いたしました。
①『とおくはちかい(reprise)』について、舞台を福島であると断定する書き方が為されていましたが、作中では具体的な場所は指示されていませんでした。さらに、作品が描いていたのは、正確を期して中村さんの言葉をお借りするならば「原発避難をせずに済んだ、津波による自宅損壊の被害を受けた人」であり、したがって舞台が福島であるとするのは無根拠である上に不正確でした。
②『ここは出口ではない』について脚本に大きな変更が加えられたと記していましたが、確認不足による事実誤認でした。『とおくはちかい(reprise)』の方で大幅なリライトが為されたと耳にしていたのと、文中にあるような宮川さんのリモート出演という変更から誤解してしまったものと思われます。

以上の点につきまして、一年以上の間誤った情報を発信し続けてしまったことを屋根裏ハイツのみなさま、そして読者のみなさまに深くお詫びいたします。

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