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「独り語り」の系譜④ 座談会 後編

 これまで東京はるかにでは「『独り語り』の系譜」と称して、小田尚稔さんの作品を一つの軸にとり、孤独なモノローグを上演する作品群への考察を深めてきました。現在、小田尚稔さんとtatazumiのそれぞれについて劇評を公表し、また今後は青年団リンクキュイ『景観の邪魔』の劇評の公開を予定しています。
 「独り語り」への理解を深めるため、2020年2月5日に対談を行いました。
 前半は小田尚稔さんの舞台におけるモノローグや、tatazumi『明けない夜があったとして』における演技の直面した困難についてお話しました。
 熊倉さんの帰宅を経て、後半では小田さんのモノローグとダイアローグの違いに始まり、青年団リンクキュイにおける「独り語り」のあり方、長沼さんが所属なさる劇団散策者と長沼さんの経歴の結びつきについて、話が交わされました。以下、その全貌となっております。

小田尚稔さんのモノローグとダイアローグの違い

植村:小田さんはダイアローグについて「自家発電ではないからモノローグと全然違う」といったことをおっしゃっていたんですけど、それでも僕から見ると、モノローグに近い側面はある気がしています。
 戯曲を読むとずいぶん多く読点が打たれていて、相手の反応を受け取るための間が積極的に用意されています。だから、ダイアローグと言われればそう無理なく観れるのだけれども、片方が沈黙している時間が多い。そして、その沈黙を使ってダイアローグを成立させているところがある。
 聞きたいことを整理します。俳優相手のモノローグと小田さんのダイアローグはどう違うとお思いでしょうか。小田さんのモノローグが観客の反応を受けてのものであるなら、その場合小田さんのモノローグとダイアローグの間の本質的な違いは何でしょうか。

長沼:まあ確かになんかぱっと見た目で追うと区別できない感じはあるけど、『悪について』は男1が最初長すぎるからなあ。結論から言うと、違うと思うんだけど。

植村:喋っていてどういう違いを感じましたか。

長沼:例えばこの(『悪について』の戯曲をめくりながら)アニサキスのシーン覚えてますか? 新田さん(註:『悪について』出演者の新田佑梨さん)がアニサキスの展示を目黒寄生虫館で観ている。ここはわりとモノローグに近いっていうことができて。
 俺は喋らずに、アニサキスがいかに気持ち悪いかっていう話をずっとされてて、それにドン引きするっていう。で、別に何かセリフがある訳ではなくて、ただ後ろの方に下がって嘔吐するだけなんだけど。これは大変なんですよね。自分は喋んないけど、でも反応しているということは見せなきゃいけない。しかもそれは、一人で喋っていることに対して、一人で引くことをしなきゃいけないから、そういうところは難しかった。
 それに対して、例えば最後のところとかは、個人的にも好きなシーンなんだけど。「今からうち行かない?」っていうところは、結構決めゼリフなので緊張はするけど、やりやすくて。そこはそれぞれの沈黙に対して何か意味があるというか、空間がある。少なからず好意を持っている人が帰ってしまいそうだっていう状況があることによって、言いたいけど言えないっていうムーブが生まれるから、これはやりやすかった。
 で、冒頭とかは究極の自家発電。初めの言葉っていうのはきっとどんな演劇でも自家発電的な側面があると思うし。だから自分の台本に「演劇は偶然に始まる」って書いて笑、納得させるというところから始めた。入ってきてお客さんにあいさつするところから始まるから、そこをいかに実り豊かな導入にするかということに賭けていたかな。
 あとは、小田さんのモノローグは演技の形式としてはお客さんとのやり取りっていうのが必須になるんだけど、戯曲の形式としては話している自分を客観視しているもう一人の自分がいる感じもある。読点がめちゃめちゃ多いんだけど、それは台詞のまとまりとまとまりの間の「、、、」だけじゃなくて、「大学も、5年、ないし、6年、いや7年とか、、まあ、ぶっちゃけ、てか実質、今年で8年目」とかって一文の中にも絶え間ない逡巡がめちゃくちゃあって、それをうまく使うことに賭けてるところはあるのかな。一回こっちに意識いくんだけどでもやっぱこっち、とか。あ、これ説明しなきゃみたいなことがたくさん内在してるから、それを僕が全部戯曲に書きこんでいく。一旦これ考えて、という意識の移り変わりをいくつも、ある種武器として戦場に持ってって、それで何とか勝負するところがあった。それはダイアローグでもやってるんだけど、でもその層が違う。

植村:モノローグは、観客の他にもう一人の自分というものを立てて、それに自分の中で沿って演技をしている?

長沼:そう。演技は外なんだけど戯曲はある程度頭の中との応答で書かれているところがあるから。その内側とのやりとりもうまく活用して演技に持っていく。

植村:戯曲の部分を活用する仕方があまり具体的にまだ見えてないです。

長沼:「だから、日中は働いている。家の近所といっても、自転車で二十分程度のところ」っていう台詞があって、これは「家の近所」って言った後に、でもいわゆる「近所」よりは遠いかもしれないなっていう意識が一旦はさまる。それを踏まえると、「家の近所」って言った時にお客さんを見るとかすることになる。それまでは自分なりの事情の方に目が向いてるけど、こっち側の事情だけでは他人に話せないから。

大内:「考えていた」とか「と思ったりもする」みたいなセリフが多いのはそっちの方向に働きますよね。

植村:自閉的な印象のあるところだけれど実は人を向いてるよね。

大内:わざわざ喋ってるじゃんっていうところにお客さんが引き戻されるので。

青年団リンクキュイ『景観の邪魔』

植村:キュイの方に出演されたのはどういう流れだったんですか?

長沼:キュイは『景観の邪魔』の初演を観てて凄い好きで、吉祥寺で『景観の邪魔』を使ったワークショップがあってそれに出て、何カ月かして「出ませんか?」って言われて「出る」と言って出た。

植村:なるほど。
 『景観の邪魔』は話がずいぶんぶつ切りになって、今どこの話してるのかがわからないような構図を採用していたじゃないですか。だから小田さん的な求心的な演技と、観客を見ない攪拌的で遠心的な演技が様々に組み合わされて採用されていたように思えました。
 まず長沼さん個人として、小田さんに通ずる部分を感じたかどうかお聞きしたいです。

長沼:上演台本における言葉の選び取り方っていうのは小田さんに似てるなって思う。っていうのは、もともと橋本さんもドキュメンタリー演劇を、つまり俳優が稽古場で喋ったこととかを元にテキストとしてまとめて上演するっていうのをやってたのね。例えば最初の新田さんのセリフ。今回も稽古場で「自分の土地について話してください」っていうのを全員俳優はやってて、それが戯曲に入ってきてる。だからこの、「あの」とか「その」とか「んー」とかって言葉が入ってくる。
 小田さんとは逆なんだけどね、作り方としては。実際に話した事実があってそこからテキストを作ってるのであって、別にそれのために戯曲を書いてる訳じゃないから材料の取り方は逆なんだけど、でもまあそういうところは似てるなとは思う。
 こことかね。「僕は裕福じゃあないし、あー、それに」も、「あー、それに」とかないんですよ、綾門さんの戯曲には(註:2019年に上演された『景観の邪魔』は、綾門さんの戯曲を橋本さんがA,Bプログラムの二通りに編集したものを用いて上演されました)。で、「練馬区役所の手続きがしやすかった、以上のメリットをこの家には感じていない。特に行くところもない」っていうのが元々の戯曲なんだけど、「から、うん、特に行くところもなかった」っていう風になってるんですよね。もうこれだけで演技を変える必要がでてくる。そういう風に、いつも話している言葉を持ち込もうとするっていうのが似てるとは思うね。

植村:確かに小田さんほど間を取って客席のリアクションを受けてっていうことはなかったかもしれない。

長沼:うん、やめてる。あれは絶対やらないと思ってた。

植村:やめてた理由は何ですか? 作品のテーマ?

長沼:自分としてはとりあえずこの方向性はいいかなって、『悪について』でもういいやってなった笑。俳優だけの力じゃあの方向性をうまく突き詰められないなと思って。『景観の邪魔』でもお客さんの方は見てるけど、視線がいってるだけで。どちらかといえば散策者でやってることに近いようにしようっていう。散策者を寧ろ持ち込んでいく感覚で行ったかな。

植村:本当に長沼さんの去年の経歴は面白くて、全部散文的なものを戯曲として使いながらもあり方が違うんですよね。その中でも、小田さんと散策者を両極として、その中間にキュイがある感じがあって。
 キュイはテクストを日常的なちょっとどうでもよさそうなつぶやき的なものから立ち上げている上に、「場所」を問題にして、今ここに居る場所を飛び越え普遍的なところを目指そうとする動性があったので、作品のテーマ的にも小田さんの方向に近い。
 だけれども、キュイは採用する演技としては求心的なものを選び取らないという意味で散策者の方に近いなというのが僕の理解なんですけれども。

長沼:なんか、最初は演技がもうちょっとつまんなくて、のっぺりしてたんだよね。で、一回スタッフの人とかも含めて見てもらう回があって。初演は37分ぐらいの上演時間だったんだけど、その時はたぶん70分ぐらい。2シーンしか追加してないのに70分ぐらいで笑、このままじゃダメだねってなって。
 大きな問題点として、間が作品の中に回収されないただの間延びになってるっていうのがあって、例えば土地神のところをかなりキュッとする作業が、本番直前期のやった事。後半は全然変わってないんだけど。そうして何とか成立するようにした経緯があります。
 基本的には橋本さんの方向性として、まあこの『景観の邪魔』が持ってる特質でもあるけど、キャラクターに回収されないっていうのをわりと気にしてやってて。かなり登場人物いるから。

植村:あ、思い出しました。小田さんに近かった点として、俳優の存在が強く出てるんですよね。だから小田さんに比べて客席の方は向いていないんだけど、演技が凄い見ていて面白かったんです。『景観の邪魔』は久々に楽しい演技の芝居を観たなと、全然お世辞でなく思いました。その理由として、演技がキャラクターに回収されないで俳優に回収されていく感じがしたんです。

長沼:だから間延びするってのもあって。キャラクターは凄いんですよ。キャラクターがあればとりあえず喋れるから。まあ、土地神(註:『景観の邪魔』に登場する、東京のそれぞれの土地の守り神らしきキャラクター的存在)を背負えるかどうかはともかくとして、何かそういうキャラクターを担う演技をすれば進めることにはなりますね。どんどん先に進めるんだけど、でもそこは別に目指すところじゃないっていうのが前提にあって。だから、今この劇場があってここに立っているっていうことからスタートするけど、でも戯曲を使ってるっていうことも失ってはいけない。今・ここがあるだけだったらそこで立って何かしゃべってくれればいいだけだから。そこをうまく折衝しながらやるっていうのが大変だね。
 最初のところとかで俳優として喋ろうとして、キャラクターの方向から脱して行くと、結構エネルギーが必要だから時間が掛かっちゃうっていうのがあって。最初、僕は主婦の台詞を喋るんだけど、別に主婦っていうキャラクターとしては喋んない。でも単に生身の「長沼航」として喋るわけにもいかんくて。
 だから最初はもう灯体とかを見てる。劇場入りしてから、「場所を見てください」という指示があって、本番は、お客さんいるな、とか、知り合いがあそことあそこに、とか見てた。しょっぱな「聞きました、この間のニュース」って言うんだけど、そう言い出すまでに結構時間が掛かる。そこをうまく進めるために「場所」とかの力を借りた。
 小田さんの時も、文字通りすぐそこで、青山通りだったから被せた。

植村:そうですね。『善悪のむこうがわ』は上演された場所と描かれた場所が一緒だったから。『悪について』についても中野の話を中野でやってませんでした?

長沼:そうそう。でも、中野駅前とかだから。この通りの向こうを行けば新大久保、とか、それぐらいの繋がりで直接的ではなかった。だから舞台上に口頭で裁判所を作ったりとかするし。景色を立ち上げる、的なこと。
あんまりそういう感覚は『景観の邪魔』の時はなかったな。「空港待合室です」とかってやらなかった。

大内:僕は結構三鷹を使いました。小田さんに倣ってごりごり固有名詞出すのもそうだし、お客さんがほぼ全員中央線に乗って同じ道を歩いてくるのでその話も入れて。そうするとやっぱりちょっと聞いてくれるんですよね。おお、知ってる話をされると聞くんだなと思って。どうでもいい話を何とか聞かせる時の道具の一つとして固有名詞は偉大でした。

植村:『景観の邪魔』もBプログラムでは東京っていう固有名詞を結構しっかり出しながら、いかにして東京じゃないところに行けるかっていうのがあって。でも、長沼さんの出演なさったAプログラムは寧ろどこかに飛ぶというよりかは、どうどこかに腰を落ち着けるかっていうことろに肝があったかなと言えるかな。それがいい対になってると思います。

長沼:飛びたかったけどね。

植村:Aプロは最後座りますもんね。

大内:水飲んで。

長沼:炭酸水ね。あと話したかったのは、床にペットボトルが置いてあるっていうことなんだよ。あれがなかったらちょっと演技はできなかったんじゃないかな。初演は観てますか?

植村:観れていないです。

長沼:初演は、春風舎の素舞台でこれを爆速でやることによって何とか問題を乗り越えるみたいな感じだった。実際映像観てみると記憶の中のそれよりすごい速くて。で、その速さを踏襲した部分もあるんだけど。
 速さが必要だったのは多分何もなかったからっていうのと、あとは三十分ずつのショーケースだったから。でも今回はそうじゃない。キャラクターも速さも抜きで勝負する。だから稽古場でも場所に助けられるというか、何か物があるとか、何か見るものがあるっていうことには非常に助けられた。

植村:スピードがない分、舞台にペットボトルがないと演技の依拠するものがなかった?

長沼:そうそう。

植村:ペットボトルに依拠するというのは具体的にはどういう感覚なんですかね。

長沼:例えば最後の方で、ひとり旅に出るって言って新幹線の切符買った後に舞台奥に下がるんだけど、あれって意味わかんないんですよ、あのペットボトルがないと。単に下がるだけだとただの段取りになってしまう。でもペットボトルがああやって円形に並んでることによって後ろに下がることが正当化されたのね。小屋入りして感動したんだけど。ありがとう井坂さん(註:『景観の邪魔』で照明を務めた井坂浩さん)って言って笑。
 もともとただ後ろの方に下がるみたいなものだったものが、あの円の中から外に出るみたいな動きになった。別にそれに何か作品の内容に関わる重要な意味を見出しているというわけじゃないんだけど、ちっちゃいけどそういう根拠みたいなのがあって、そこに下がったり座ることが体感として正当化される。

植村:なだらかな境界を引いている訳ですよね。

長沼:まあ、そのシーンはそうやって使ってただけだけど。あれは二十三区プラス武蔵野市だから、例えば武蔵野の話をしてる時は武蔵野市のペットボトルだけ光ってるので、それを見たりとか。見たりするものが下にもあるよっていうのはありがたかったし、座るときとかもそれとの関係性によって座れる。関係を取るものがあるっていうのが凄く大きかったんですよ。だからBプロ難しそうだなって。

大内:固有名としての単位は大きくなかったですか? 視点として下に23区+1があるのを上から見られる。土地神の視点なのか分からないですけど、視線が最初から飛んでいるというのは。まあ単純に土地神を演じることの難しさの話かもしれませんが。

長沼:あんまり気にしてなかったな。最初はとりあえず俳優だから。登場する時はお辞儀までしてるし。

植村:そこも小田さんぽいですよね。

長沼:ペットボトルがあるな、灯体光ってるな、LEDだな、青だな、から始まるっていう。

植村:じゃあアゴラ劇場を使って演技をしていたという言い方ができる。

長沼:あ、そうそうそう。それは本当に橋本さんが言ってたことだったと思う。

植村:それはすごい興味深いことですね、作品のテーマとしても。

散策者について

植村:散策者についてお話をお聞きしたいんですが、僕がうまく散策者を説明することはできそうにないので、長沼さんの方からお聞きしてもいいですか?

長沼:たぶん散策者にいる人誰も説明できないけど笑、土田(註:散策者に所属する土田高太朗さん)と中尾ぐらいしか。何を話せばいい? 団体の興り笑?。

植村:興りも興味深いですけど、ここまで話してきたことの延長線上に散策者を位置付けられるとしたら……、ってまあ、位置づけられると思ってるからお呼びしたんですが、それを踏まえた基本的な活動方針や、どこを向いている集団なのかがお聞きしたいですね。

長沼:取り敢えず今考えていることは抜きにして、これまでやってきたことを話すと。僕が俳優として参加したのが去年一年ぐらいで、その間にやっていることは基本的に小説を上演することであって。まあ意味わかんないんだけど小説を上演するって笑。でもそれをなんとか上演することをしている。
 やっぱり演技をどうやってするのかというところに、作品を作るときの土台があると思っていて。それは作・演出が分かれていることもそうなんだけど、僕らのテキスト解釈とかそういうのを伝えるっていうのではないあり方を志向していて。いわゆるダイアローグじゃない形でどれだけいろんな人や物が関わり合いながら演技をできるか? っていうのが多分散策者の核になっていると思う。散策者の公式見解では全然ないからあれなんだけど。
 というのは、会話だったら相手がいてある程度反応していることになってるから、関係を取ってることになる。聞いている相手と関係を取りながら演技をしているっていうことに一応なるんだけど、小説の上演においてはそれが一筋縄ではいかないっていうか、例えば小説の地の文を読んでて他人と関係するっていう言葉がもう言ってていびつなんだけど、でもそれをしないと上演にならない。関係を取った上で喋るんじゃないと朗読すればいいじゃんってことになるし、スピーチじゃんってことになる。
 だからあくまで「小説の上演」として立ち上げるために演技っていうのをするんだけど、でも演技を無理やりしていくっていう方向性、例えばテキストの中にある感情とかをエンジンにして行われる演技っていうのはあんまり好きじゃないし、かつ新居の書くテキストにも合わない。なので、例えば前回の公演で言えばぬいぐるみを使ったりとか、オーシャンドラムを使ったりとか、椅子使ったりとか、あとは喋る人もいるんだけど、それに対してその喋ってる内容と結びつくかもしれないようなムーブメントをしてる人とかっていうのがいて、そういうところで関係を取り合うということをしながら演技を組み立てることで、なんとか上演っていう形式に持っていってましたね。

大内:観客はどこに?

長沼:ああ、そうなんですよ。観客のこと今まで全然考えてなくて。

植村:考えてないですよね。

長沼:うん。基本的に舞台の中で完結するように。っていうのは別に見てもらう必要がないってことではなくて、お客さんの反応からではなく、他の俳優だとか音とか音楽だとかから演技をするという。ある種音楽劇みたいな感じ、歌ったりするわけじゃないけど。音楽という枠組みの中で演技を作ってるから、基本的にはお客さんは見てるだけ。前回は客席の方をちょっと向かなきゃいけないシーンがあって、嫌だなって思ったからお客さんの足下とか見てた。

大内:tatazumiも90分間アドリブ演奏を弾き続けるっていうことをしていて、音楽があるとだいぶ色んなことができるなと。たぶん、稽古場で観客の代わりになってくれていたんですよね、ピアノ演奏と演奏をする人が。

植村:散策者が極にあると言いましたけれど、本当に極にあって。だって、第四の壁を破らないわけですよね。だから散文を舞台に乗せるためにどうするかっていうことを、客席の方を最も志向してやると小田さんになるし、客席の方を全然志向しないと散策者になるということが言えるんです。で、一応客席との間に壁を作ってでもなぜかちゃんと観客にも参与を強いていているのが僕はキュイだと思うんですけど、散策者は何でそんなに大胆に観客の間に壁を引けるのか? っていうことを聞きたいです。

長沼:頑張ってるから。自分たちが頑張ってるって知ってるからですよ笑。うん、まあ、ふざけずに言うと、俳優とか演出家とかが、観客がこういう風に見たらいいかなみたいなのを作る上での指針にしたり、観客からの反応とかを演技の元手にしたりみたいなことをしない、っていうのでやってるから。それで大丈夫なように。もちろん、こっちからお客さんに解釈を与えるような感じにはしないっていう大きめの指針みたいのはあるけど

植村:散策者はだいぶ職人気質という感じがしますね。本当にこだわりが強い人たちが集まっているなあと思います。

長沼:散策者はずっと領分の話をしてるんだよね。演出家は演出家で、作家は作家で、俳優は俳優なので、俳優は演技を作るし、みんなそれぞれの仕事をしてる。だから職人っていう言葉はなんか、合う笑。それぞれ仕事場だなっていうか。
 最初のシーンとか、例えばこういう風に入ってきて、これ終わったら出て、とかっていうことが演出家から枠組みとして与えられたら、それを埋めるって言うかその時にどういう動作をしてどういうことをするかっていうのを考えるのはこっちの俳優の仕事で、それをみんな外から見てああだこうだ言うっていう集団だから。

植村:重要な違いになるのは、散文を上演することのモチベーションなんです。たとえば小田さんや大内くんの場合は頭の中のことがなかなか届かないから、それをどうやって人前に持っていくのか? っていう問題意識がおそらくある訳で、だから商品価値とか関係なく観客を前提にするわけですけれども、散策者の場合はもうちょっと観念的な次元になっている気がするというか、何か個人の内発的な感情というかは、もっと方法的なところへの知的な好奇心から出発している印象が傍からはあるんですね。どうやったら小説が舞台に乗るのか試してみたいな。っていう感覚がある気がします。

長沼:なるほどね。なんでやってんだろうね笑。

植村:情動に由来してない感じがして、そこが不思議ですね。

長沼:やってる時のモチベーションは説明できるんだけどね。所与のものとして小説というテキストが与えられた上で演技を組み立てていくから、そこで演技のことは凄い考えるし、個人的には普通の演劇と同じことを、ただ小説でやってると思ってる。演技の面ではね。演技の根本にあるものは同じだと思っていて、別にそこを追求するのはわりと面白いし。

植村:小説を上演するっていうことが所与の前提としてあるっていうのは、今一般的な戯曲の形式と、散策者が上演しようとしている小説の形式っていうのが、上演台本としてそれぞれ偶然的な位置というか、どちらでもあり得たというか、今一般的なものからあえて外れようとしているのではない、ということなんですかね?

長沼:うーん、そういうことでもないっていうか、まあ別になんか変だなとは思うんだけど笑、変だよねとは思うんだけど、でもまあ上演だなとも思う。なんで小説をやってるのかは中尾に聞いた方がいいと思う。
 俺たちは会話やりたいってずっと言ってるんだけどね笑。ていうかできなくて小説でやってるわけじゃないんだぞっていうのは一回やっておきたい笑。バキバキにできるけどあえてそこは目指してないんだぞ、みたいな。
 あとは純粋な欲求として、去年一年間ずっとモノローグばっかやってたから笑。一回夏にワークショップでドイツの20世紀初頭の戯曲とかやって超楽しかったからそういうのをやりたいんだけど、まあ取り敢えずはみたいな感じ。

植村:散策者のコンセプトが散文の上演にではなくて、対話でない仕方で舞台上にどう関係を結ぶのかというところにあると整理してよいなら、小説じゃないものの上演もあり得るわけですね。
 僕はその方法論に満足できたら普通の戯曲をそれで演じたくなりますね。できるのかとかは置いておいて。

長沼:まあ何だろう、団体の未来とかはわかんない笑。

植村:確認したいのは、まず散文を演じようっていうモチベーションからじゃなくて、対話じゃない形で人とどう関われるのかっていう問題意識から散文が選び取られているっていうか、順番が逆なのかなっていう。

長沼:小説をやることになんかもう麻痺してきてて、ちょっと記憶にない笑。けど新居のテキストをやるっていうことはあんまり前提ではないよねっていう問題意識はちょっとある。
 それは結構お客さんのことを考えてというか。前回は小説も事前に公開して上演に臨んだんだけど、それはお客さんにとっては出どころのよくの分からない小説を「そのまま上演」とか言われても訳がわからないままなんじゃないかという。訳が分からないっていうのは、別に小説の内容は分かるかもしれないけど、なんでこの小説を、っていうところの納得感?
 だから例えば有名な小説を上演するのもありなんじゃないかみたいな話。ゴダールとかやってもいいよねみたいな話とかは中尾と新居が言ってた。

植村:ゴダールに散策者の作り方は向いていると思います。

長沼:そうだね。でも、やっぱりいわゆる普通の演劇みたいのを普通にする気はあんまりなさそうだね。みんなそれぞれ外で好きなことをやって持ち帰ってくる。俳優は中尾に「キメラになって帰ってこい」って言われてる。

植村:今後の散策者はどういう方向に向かわれていくんですか?

長沼:ちょっとお客さんのことを気にしだすかもしれない。でも別にそれは上演そのものがとかじゃないと思う。上演前の個人個人の時間のことを考えることだと思うから、別に上演の時にお客さんの方を向きますとかっていうことにはならないと思う。
 いま「早足」っていう話をしてて。ちょっとよくわかんないんだけど、劇場に向かう時にどうしても早足になってしまう事実に目を向けなきゃいけないよねみたいな。

植村:その話、前にもお聞きしましたけど、僕は共感できないんですよね笑。普通にゆっくり行くし。

長沼:差し迫ってる感?

植村:観劇し慣れてくると差し迫れなくないですか? お芝居を観に行くのに差し迫れないことの方を問題にしたいです。

長沼:まあそれもそうなんだけど。月に十数本は見てたのが、今年に入ってまだ4本しか見てなくて、それは差し迫れないっていう問題意識から。別に減らしたところで早足ではあるから、上演の時間にどう作品と向き合えるか? っていう問題と、それまでの間に早足になっているっていうこととは別だな。
 「早足」が話題になったのは、土田が演劇を観に行く予定があってバスに乗ったんだけど、バスが遅れて観に行けなくなってしまうという時の、急がなきゃいけないけどどうにもできないみたいなそわそわが元で。結局そのバスは間に合わず観に行けなかったんだけど、その時の間に合うか間に合わないかみたいなことと、そこに上演される作品があるっていうことの関係が大事だと。本当にリテラルに早足っていうこともそうだし、もうちょっと抽象的な意味で急いてしまうということに対しても何か考えなきゃいけないかもねっていうのを、中尾と土田が謎の意気投合を遂げて盛り上がってるのを見てみんな「へー」って言ってるっていうのが散策者の今の構図。

大内:でも一貫しているというか、上演自体の問題を直接扱おうとしないのは、らしいですね。演劇で会話すると言ったって、優しい顔して、特別な環境だから成り立つ会話じゃないですか。それはある意味で直接的すぎるのかもしれないとは思います。避けるほどではないけど、どうデザインするかということは考えなきゃいけない。小田さん的なものがポピュラーになろうとすると、一つのネックになるかもしれないですかね?

植村:そうだね。ポピュラーになってほしいんだけどね。演技が一定の狭さを要請するところもある。

長沼:アゴラでポピュラーになれるかな。

以上が対談の全貌です。東京はるかにでは、今後も「独り語り」の系譜を追っていきます。

対談前半はこちら

「独り」語りの系譜① 小田尚稔の演劇

「独り」語りの系譜② tatazumi

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