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「独り」語りの系譜① 小田尚稔の演劇

「独り」語りについて

 小田尚稔さんの芝居は、2019年に三鷹のSCOOLで上演された『是でいいのだ』を観たのが最初でしたが、その時は大変な衝撃を受けました。
 小田さんの戯曲は、その多くがモノローグ、つまり一人語りとなっています。登場人物の誰もがそれぞれに孤独を抱えているので、その語りは「独り」語りでもあります。そしてその語りの文体も、目の前の誰かを想定しているというよりは、頭の中の思考をごろっと外に出したような、独り言みたいなものです。そのことを示すように、台詞は読点でこまかく区切られていて、流暢に相手に伝え聞かせるようなものにはなっていません。周りの情景をぽつぽつと書き出した小説の地の文をたどたどしく読み聞かされているような印象をおぼえます。
 それから、小田さんはずっと善や悪をめぐる問を軸に劇作をなさっています。何作にもわたり同種の主題を追いかけるというのは、やはりなにかそれだけ小田さんの中に善悪にまつわる形にしなければならないなんらかの根深い孤独があるのでしょう。これはいささか自分に引き寄せていうのですが、善くあろう、正しくあろうという心は、自分の存在を無条件には肯定できない心性の裏返しだからです。
 けれども、そんな孤独はただ剥き出しにしただけでは誰の心にも届くことはありません。むしろ剥き出しの孤独は、その生々しさのゆえに、いっそう目を逸らされてしまうのが普通です。だからこそ誰もが自分の話し方、文体を獲得していくのですから。

「独り」語りの文体

 演劇の文体はまずもって俳優の身体でしょう。
 小田さんの芝居では、俳優が落ち着いた口調で、しかし身振りを交えながら、目の前にいるわたしたち観客とまっすぐに対峙して発話します。
 そう、まっすぐに対峙しているのです。小田さんの芝居での演技でまず目につく特徴は、観客の目を見ていること。そして、観客に語り掛けようという手の動き、表情、声の調子などの中に、「独り」語りをなんとか届けようという、文体へのもがきを認めることが出来るのです。時には俳優が観客に小道具を手渡し、預けてしまうことさえあります。それから、観客は開演前にドリンクを振る舞われ、一人の客人かのようにその場にもてなされます。小田さんの芝居は小劇場という狭く親密な場所で展開されます。そのささやかで親密な空間に、目の前の誰かと「独り」語りを共有するための大きな可能性を認めるからこそ、小田さんは演劇というメディアを選んだのではないでしょうか。
 不自然に誇張せず静かに振り付けられた俳優の身体。その身体を見つめること。彼らの固有の文体だからこそ、届く孤独があること。そのとき私たちは壁を隔てたところから作中人物を眺めているというよりは、彼らの言葉を伝える媒体としてそこにゆらゆらと立つ俳優その人に向かい合わされているのです。
 気さくな話しぶりで自分に嘘をつくのではなくて、孤独を何とか孤独のままで分け合うことはできないか。そういう困難な問いに小田さんの演技は見事に応えています。
 そのとき、伝達のみを心がけて作られた文章と違って情景をわかりやすく確定しない、地の文のような文章の孤独は、観客の手で色付けられるべき余白に塗り変わっていくことでしょう。
 ぽつりぽつりと話すことを強いられる俳優は、観客を前にして緊張をあらわにしているように見えます。もちろんそれも演技のうちかもしれないのですが、目の前にいる観客がいないかのように振る舞わず、嘘なく誠実に言葉を届けようとする緊張状態の中で、その「剥き出しの孤独」はやわらかく僕たちの心に包まれていきます。



『是でいいのだ』

 普通批評を書く際に気にすべきことではないのですが、これを読んでくださった方には再演の折などになんとか感動をそっくりそのまま味わってもらえたらと思うので、作品の個別的な内容やシーンの紹介、分析には立ち入らないこととします。その分どうしても抽象的な書きぶりになってしまいますが、なんとか退屈せず興味を持っていただけると嬉しいです。
 『是でいいのだ』は、
「『三月のあの日』、、『東南口』のマクドナルドにいた」
という一文から始まります。小田さんの戯曲には、固有名詞が意図的に多数配置されます。東京の地名であるとか、思想書や楽曲の題名。それら固有名詞をなんとかつなげて、時空を超越する普遍的なものを立てようとする欲望がそこにはあります。この、普遍への志向こそが小田さんの作品の根幹を成しています。
 『三月のあの日』、つまり東日本大震災の東京での経験が、被災地から離れた新宿『東南口』のマクドナルドから語られます。それは、東京でその事件を引き受けたという自分の固有の経験に嘘をつかないためだけではなくて、なんとかそれを被災地の記憶にも接続して、もはや時間的にも空間的にもそこから離れて思えるはるかな東京の狭い舞台にまで、あの痛ましい孤独を分け持たせるためと見るべきでしょう。
 カントの言葉を作中で直接的に引用し、取り込み、その思想その時代といま・こことを結ぶ仕方で、『是でいいのだ』はさらに大きな過去向きベクトルを把持することになります。カントの有名な批判書は、普遍的な人間理性なるものがあるとして、その力をどの程度認めて良いか画定していく作業でした。その試みはきわめてストレートに小田さんの劇作とアナロジカルな関係に結ばれている筈です。
 カントの『実践理性批判』から小田さんはしばしば次の言葉を引きます――「私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則」。星々は実は生滅を不断に繰り返しているのだけれど、遠いこの星からはその配列はあまりに確かに見えます。そして人はそれを結び合わせて一つの絵を描いて見せたりもする。
 登場人物たちは誰もが自分の生活に大小の不満を抱えています。震災の記憶をその一部として抱え持つ東京のささやかな個人の生活が、時空を超越してある固有名詞と結び結ばれてそれでも肯定的な星座を描いていくプロセスに、僕は胸を洗われました。それは単に気晴らし的に現状を美化して肯定しているのではなく、もっと大きな生の全体に向けられた一つの賛歌でした。


『悪について』

 けれども、小田さんはなお思索をやめず劇作を続けます。星座が不動に思えるのはあくまで星ぼしから遠い遠い距離どりをしたマクロな視点からのことです。この街で生活を続ける限り個人のあり方はなんども問題にしなくてはならないということでしょうか。
小田さんの思索は善にまつわるものから『悪について』へシフトします。ここで注目すべきは不変の持つ意味の変化と、ダイアローグ、すなわち対話の増加です。
『是でいいのだ』と同様に個から普遍への志向性はなお失われてはいないのですが、そのために「独り」語りをするひとりの個人にフォーカスするのではなくて、むしろ彼らの交わりを通じたその関係性の中に普遍を見ようとする意思がそこに感じられるのです。考えてみれば、大きな開けに結ばれているとはいえ、善に向かう「独り」語りの肯定はいささか自閉的な地点から出発していました。しかし、自分の悪に直面する経験は、たいていそうした自閉的な自分の殻と外との摩擦によって生ずるものでしょう。だから、ダイアローグ、他者との交流を欠いては悪についての思索は成立しえないというわけです。
壁面の白さと空間の手頃な狭さが印象的なSCOOLで上演された『是でいいのだ』と対照的に、奥のガラス張りの壁から外の道路の光景や道ゆく人々の姿が上演中ずっと目に入る中野のRAFTへ、という舞台の変化も、この自閉性の緩和に伴うものでしょう。
 では、そのときこの普遍化志向性はどのように働くのでしょう。『是でいいのだ』では、個が他の個と結ばれる構造の星座的なきらめきの美しさに個人の生が抱きかかえられる印象がありました。対してここではむしろその星々を結ぶ線、人と人の間に置かれる関係性が、名著や東京の街の内部に見られる遠くのそれと並行し、図的な相似形を描き出しているように思われます。
悪を、断罪もせず、救済もせず、どの時代どの場所にも見られる、けれどもかけがえのない悪として、そのままにゆるやかに受け入れていく世界の大きさといいますか、そういう開けへ個人の罪を導く赦しの場としての舞台がそこにあったように思います。


『善悪のむこうがわ』

現状の最新作である『善悪のむこうがわ』では、小田さんは善も悪も超えたさらに遥か遠いところへと飛んでしまわれます。
ここでこの作品の大事な特徴となるのが、一人の俳優が必ずしも一つの役を演ずるにとどまらず、複数の役柄を演じていることです。孤独な個人の多く生まれてしまった現代は、誰とも違う個性的でかけがえのない個人を前提しづらい時代でもあります。その時代精神に対応するように、俳優と登場人物の数の不一致などを軸に「個」の融解、撹拌を自覚的に行う作品は、ちかごろ大変目立つのです。
小田さん自身、それまでも思想書を俳優が読み上げたり、俳優と登場人物とが二重化したような身体がそこに立ち現れるなどして、かたちの明確な「個」を盲目的に前提することは避けられて来ました。けれども今回は文学作品に類似した発話内容に出発し、名曲の歌詞の内容をさも自分に起きた出来事かのように読み上げ、しかもはっきり別の人間になりかわってしまいもするのです。
『善悪のむこうがわ』は、美術手帖と自動車会社VOLVOのコラボレーションプロジェクトとして実現しました。上演はまたもガラス張りで外の風景が映り込むボルボスタジオ青山で行われ、舞台中央にはVOLVOの自動車が強い存在感を放っていました。
俳優たちは、時代からも虚実からも引用先からも人格からも自由自在に憑依(ドライブ)して誰でもない身体へと変貌を遂げます。そのように境界の曖昧なリキッドな身体になるためでしょうか。今作ではソリッドな「個」の印象を与えるモノローグはさらに削られ、ダイアローグは一層の増加を見せることとなります。
僕の見た回のアフタートークでは、モノローグが減りダイアローグが増えたのはなぜかという質問がやはり客席から上がりました。それに対して小田さんは作風をエンタメに寄せるためといった旨の返事をなさっていましたが、それだけではやはりないでしょう。
 奥のガラス壁越しに青山の風景が透けて見えたり、入口近くのサービスカウンター上方に上演内容がリアルタイムで撮影されて映し出されることで、鑑賞体験は一層多面的、多層的、多視点的になり、「個」の攪拌傾向はゆるやかに加速を続けていました。
ドライブのように様々な人格に移り変わる液状化の果てに、「個」を超え善を超え悪をも超えた、徹底的な普遍を見出そうとする試みが、『善悪のむこうがわ』だったのだと僕は理解しています。
とはいえそうして届けられる孤独は、やはり求心性を欠くものです。個人を攪拌して得られる普遍が客席に届けるものは、時にあまりに希釈されすぎているかもしれません。僕はこの作品には大変な満足を覚えましたが、知人からはあまり楽しめなかったとの声を複数聞きました。この野心的な試みが舞台へ足を運んだ観客へと共有されないことは、それ自体ひとつの孤独な悲劇と言えます。
それまでは俳優の身体と観客の身体の交錯により果たされていた「個」の普遍化が、記号的な操作や観念的な処理に映ってしまっていた面もあるのではないかと推察します。少なくとも小田さんの思惑に反して、これまで紹介した二作品に比べむしろエンタメから隔たったところで勝負をしていることは確かです。
あるいはその身体のドライブ感を、緊密な雰囲気として維持し続けて、よりダイレクトに客席と共有することを図ってもよいのではないでしょうか。私見ですが、そのためにはダイアローグが鍵になるのだと思われます。
そして善も悪も超えた先に待つのがそのように「個」を撹拌した抽象的な場所であるなら、次の最新作ではどのような地平が切り開かれることになるのでしょう。2020年の11月にこまばアゴラ劇場で上演される小田さんの新作『罪と愛』に、僕は期待を隠すことができません。

最後に、小田さんの「独り」語りをここではないどこかへ届けるための試みは、その孤独を攪拌する傾向とともに、他の作家にも自覚的に引き継がれています。そこで、「『独り』語りの系譜」と銘打ち、小田さんに続けて、tatazumi、そして青年団リンクキュイという二劇団の直近の上演を紹介してゆくこととします。

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