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「独り語り」の系譜③ 座談会 前編

 これまで東京はるかにでは「『独り語り』の系譜」と称して、小田尚稔さんの作品を一つの軸にとり、孤独なモノローグを上演する作品群への考察を深めてきました。現在、小田尚稔さんとtatazumiのそれぞれについて劇評を公表し、また今後は青年団リンクキュイ『景観の邪魔』の劇評の公開を予定しています。

「独り」語りの系譜① 小田尚稔の演劇

「独り」語りの系譜② tatazumi

 この「独り語り」への理解を深めるため、2020年2月5日に座談会を行いました。お呼びしたのは以下の三人です。

 2019年に小田尚稔さんの『善悪のむこうがわ』と『悪について』の2作品に出演し、キュイ『景観の邪魔』Aプログラムにも出演なさった長沼航(以下、長沼)さん
 tatazumiを主宰し『明けない夜があったとして』を演出した大内郁(以下、大内)くん
 同作に出演し、東京はるかにに所属している熊倉由貴(以下、熊倉)さん

 聞き手は東京はるかに主宰の植村朔也(以下、植村)が務めました。長沼さんは植村の先輩、大内くんと熊倉さんは植村の後輩だったことから縁あって今回の対談が実現しました。
 前半は小田尚稔さんの舞台におけるモノローグや、tatazumi『明けない夜があったとして』の演技が直面した困難について。後半では小田さんのダイアローグについての話に始まり、青年団リンクキュイにおける「独り語り」のあり方、長沼さんが所属なさる劇団散策者と長沼さんの経歴の結びつきについて、話が交わされました。

小田尚稔さんの演技論――自家発電のモノローグ

植村:まず、長沼さんが『善悪のむこうがわ』への出演を決心なさった経緯からお聞きしたいです。

長沼:小田さんは基本的にワークショップをやって、その中から出る人を選ぶ方針でずっとやってると思うんですね。そういう感じのを私も受けて、「出てください」と言われて出ることになったっていうのがざっくりとした回答なのかなと思います。

植村:『善悪のむこうがわ』に続けて『悪について』にも出演なさっています。それは出演して演技の方針にある程度の満足感があったということですか?

長沼:小田さんのは1回やってなんとなく目標となる到達点が分かった。 『善悪のむこうがわ』では出来なかったことがあるって感じて、次があればもうちょっと対策を練って出来るかなっていう。1回試験受けて微妙な感じだったけど、今は傾向がわかったからもうちょっと先を目指してみたいなという、そういうことです。

植村:なるほど、その到達点っていうのは具体的にどういう?

長沼:『悪について』のダークサイド2人(註:作中の重い罪を抱えた登場人物を指した表現)とかは舞台の内側で喋れるんだけど、俺は割とお客さんにガッて向かっていかなきゃいけない。それが苦にならずに出来る人もいるのかもしれないけど、やってる途中でなんで喋ってるんだろうっていう気分になることがあるんですよ。その苦しさをどう解決できるか、健康的に演技できるかっていう問題。それこそ「独り語り」の大変さなんだけど笑。
 でも先んじて言ってしまうと、今回「独り語り」ってなってる小田さんのと綾門さんの戯曲ってやっぱ全然違って、小田さんのは語る相手がいるんだよね。聞いてるお客さんがいて演技の対象になるっていうことがすごく前提になっていて、客席に向かって喋らなきゃいけない。でも、ここで大きな問題が、稽古場にはお客さんがいないっていうすごい大きな問題があるんですよ笑。それは演劇の稽古においてとてつもなく逃げがたい、意味のわからない問題なんだけど。
 で、そのいないお客さんを想定して稽古するっていうことが、まあ一回も小田さんの芝居出てないから『善悪』の頃あんまり意識してなかった。どちらかというととりあえず台詞を覚えて動くとか、自分ひとりの作業としてやってたっていうのもあって。一人で喋るのはわりかし得意だったんだけど、稽古場を出てお客さんの前に立つとそれが揺らいじゃう。パワーダウンするよねっていうのが僕的にも小田さん的にも問題で。
 あとは会話。『善悪』も会話が割と多いんですよ、小田さんの中では。『善悪』の会話の演技は自分でもよくないと思ったし、それもまた小田さんに微妙だって言われ続けたので

植村:あ、そうなんですか?

長沼:はい。俺も全然やりたくなかったし、その頃。ダイアローグ。でも『悪について』は、そこはだいぶよくなったと自分では思っている。モノローグとダイアローグそれぞれ思うところがあって、そこをそれぞれ乗り越えて的な感じで『悪について』があった。

植村:そうですね、小田さんの作品についてはモノローグとダイアローグの定義をちゃんとしないといけないですよね。さっき、キュイでの演技は観客を前提しないから小田さんの演劇と異なる、ということをおっしゃってたと思うんですけど、それは僕もその通りだと考えています。
 僕も先んじて言うと、小田さんの作風と散策者の作風の中間にあるのがキュイではないかと思ったんですね。キュイでの橋本さんが小田さんの影響を受けているように僕には見えて、その上で散策者よりは求心的な演技をしていると感じて。なので最終的には、長沼さんには小田さんの作品やキュイの作品に出た経験が、散策者に軸を置く人間としてどう映っているのかっていうことまで聞けたらいいのかなと思っています。

長沼:なるほどね。

植村:僕もこの前小田さんのワークショップに行きまして。「出演しないんですけど勉強したいんで行かせてもらっていいですか」って小田さんに言ったら快諾してくれて。早稲田のゼミに小田さんが来たことがあって、それに僕が潜って結構うるさく質問してたのを覚えてくれてたんですね。
 そういう経緯でモノローグとダイアローグの違いについて小田さんからお聞きしたことを、僕なりに整理します。モノローグは観客の反応を受け取りながら台詞やト書にある情景を丁寧に立ち上げ、それを伝える作業がある。その情景を立ち上げるっていう部分が、俳優自身の自家発電でやらなきゃいけないから、その意味でモノローグは一人でやっている側面が強いのだけれども、ダイアローグは人と人の会話だから、自分で自家発電しているというよりかは相手の反応を受け取る、その受け取ったことへの反応として言葉を返すような仕方で話す、そこでモノローグとダイアローグには大きな違いがある。

長沼:そうだよね。演技において自家発電って駄目じゃないですか。

植村:そうそう、そこをお聞きしたかったんですよ。これは結構難しい問題だと思っていて。ダイアローグの場合は稽古場に相手になる俳優がいるからその反応を受け取ることのクオリティを担保しやすいと思うんですけど、モノローグの場合観客がその都度変わるし、しかも喋ってくれないのでなにを受け取るんだって言う問題もあるじゃないですか。そこを、モノローグの場合どうお考えだったかなっていう。

長沼:あー、オッケーです。まず『善悪のむこうがわ』と『悪について』の違いを話すと、一つは会場が違うんですよ。これが演技にもやっぱ影響する。ボルボはアクティングエリアの中に車が置いてあって、それを囲むように扇形にお客さんたちが並んでる。それも二列とかだし、お酒とかも飲めるしみたいな感じで、高級感はあるけどまあリラックスもできるかなっていう。で、結果的に言うとわりと「いいお客さん」ばっかだったんですよね、『善悪のむこうがわ』って。思えば。
 まあでも「思えば」なんで、その頃は別にそんなことあんまり思ってなかったし、どちらかというと必死にやってる感じがあって。なんていうかその、小田さんのキワキワなユーモアセンスみたいなのがあるじゃないですか。

植村:キワキワですよね笑。

長沼:で、『善悪のむこうがわ』は個人的にもキワキワ過ぎて、そこの定着がちょっとキツくて。結構キツそうな顔をしてるお客さんとかもいたから。ルー語みたいなので喋るとか。

植村:そうですよね、ルー大柴の。

熊倉:笑。

長沼:たぶん台本ではそうなってないんじゃないかな。直してるんだっけ全部(机上に並ぶ植村の購入した台本をめくりながら)。

植村:長沼さんにアテ書きがあったってことですか?

長沼:稽古場で書き変わってった、演出として。実際、お客さんの反応は予想より良かったんだけど、僕がその反応に乗り切れないっていうか。

植村:どこで反応を見てたんですか?

長沼:いや、本当に反応が良かったんですよ、単純に。よく笑ってくれてたし、ほんと。それに座りながら自由に過ごせるじゃないですか、RAFTより広いからね。椅子も良いしさ。だから割とリラックスして観ていたんだなっていうのが『悪について』をやってわかったっていう。
 『悪について』はRAFTでやって。前回の反省があるので、絶対に心が折れないように稽古をするぞっていう心意気で始めて、だからより作業を細かくした。お客さんに身を委ね過ぎたらもう死ぬので笑、自分のやるべきことを多くすることでそこの最終防衛ラインは守るようにしようっていうつもりでやってたんだけど、実際にやったらまあ心は折れたね。

植村:折れましたか。

長沼:折れたっていうのはね、全然ボルボの時の方が「いいお客さん」だったっていう。まあ「いいお客さん」っていうと言葉が悪いし言い換えると、「いい共演者」だったんだけど。要するに、お客さんから反応を受け取って演技するってことはある意味でお客さんと演技しなきゃいけないから僕にとってお客さんは共演者とも言えるわけなんだけど、RAFTではなんかすごいお客さん然としていて。

植村:劇場にスタイルの近い舞台だからですかね。

長沼:それが正直やり辛かった。で、映像を撮った日があって。佐々木敦が来た回。その二日目の夜だけ、異常にお客さんの反応が良くて。

植村:小田さんの作品の見方を分かってる人がそこに集まったんでしょうね。

長沼:そうそう。それでもう俳優みんなぶち上がりでやったっていう。いやみんなかわかんないけど、最高のタイミングでパトカーとか通ったりしてね。超神懸かった回だったんだけど、その回以外はなんかしら心が折れちゃうっていう。だから前回はお客さんから反応をもらうってよりも自分でなんとかやろうとしすぎて自分の中でのモチベーションが崩れて、逆に方向転換をしたらあんまりはっきりと反応が来ないっていうので、本当に北風と太陽みたいなんですよね。わ~って風吹かせるけど何も起こらないみたいな。

植村:反応を受け取るっていうのは具体的にどこを見ていますか?たぶんお客さんってそんなに露骨ににやにやしてくれたり、つまらなそうにもしてくれたりしないんじゃないかと思って。真顔じゃないですか?

長沼:結構みんなあるよ。あなたもあるし。

植村:僕は結構意識的に出してますよ。

長沼:俺もそうだけど笑。ああ、まあ「無」の人はキュイの方が多かった。小田さんのは、超黙ってるんだけどニヤニヤしてるおじさんとか笑、なんだこれはみたいな目で見てる人とかいて、まあそれなりにやりやすかった。
 でも俳優同士で話してたのは、「なんだこれは」とか、つまらなそうにするとかっていうのは劇の内容に対してメタじゃん。メタなところに反応すると結局自分もメタになっちゃう。「とか言うてますけども!」みたいな演技になっちゃうのはたぶんあんまり良くないですよね。そればっかになっちゃうから、どんどん。だからそういう方向じゃなく反応するっていうことをしなきゃいけないけど、でもそのボキャブラリーがお客さんの中に多くないとできないしっていうもどかしさを感じた。

植村:稽古場だと観る人が小田さんとか他の俳優さんとか少数に限られてると思うんですけど、本番の場合って観客が複数いるから、反応を受け取らなきゃいけない相手がすごい分散するじゃないですか。そのことってどういう風にクリアしてましたか? 全体として一定の雰囲気が保たれてるように受け取られたのか? 別々のリアクションをする人達が結構ばらばらにいたと思うんですけど、そこからの反応をどう受け取っているのか。

長沼:なんか、あれだね。ぜひ稽古場にいるといいね。君が稽古場にいるか、公演後にすぐこういう場を設けてくれれば反省がしやすい。すぐ次の現場とか行くと、考えてるけど忘れちゃうからさ。
 で、質問の答えとしては、やっぱ総体としても捉えるし個人としても捉えるっていう、ちょっとつまんない回答になっちゃうんだけど。でもなんだろう、反応の良い回っていうのはある程度こう土台がある訳です。その土台があって、その上で個々人の反応の違いがあるっていうのが、まあいい回だとしたい。
 だから、そうそう、分散してる回とかあるんですよ、物凄く。なんか個しかないみたいな、お客さんの中に。だから「客席」じゃなくて「客s」みたいな。客の複数形でしかないみたいな時があって、そういう時は路頭に迷う。

植村:小田さんの作り方っていうのは、全体に一つの雰囲気が保たれていることを前提する部分があるんですかね。

長沼:まあおそらく小田さんの無意識のうちに、小田さんが見たいものっていうのがそういう雰囲気を要請してるっていうことだと。

tatazumiが小田尚稔さんから受け取ったもの

植村:じゃあ一旦ちょっとtatazumiサイドへ。どういう芝居だったのかって僕からまとめた方がいいですか?

大内:お願いします。

植村:えっと。大内くんがtatazumiという劇団を作って作演した『明けない夜があったとして』という作品は平田オリザさんと小田尚稔さんの手法のコラージュみたいな部分があったんですよね。だからダイアローグの部分は同時多発会話を積極的に用いているし、モノローグの部分は小田尚稔さんを意識はする、というかなり特殊な作り方で制作されてたんです。
 その主題として、孤独な語りがいかにしてどこか・誰かに届くのかという問題がストーリーの根っこにあった。そこがこの作品のモノローグを一筋縄ではいかないものにしていて。
 小田さんのモノローグの場合、今お話があったように、観客にそれが届いていて反応が返ってくることを前提に成立してるんですね。対して大内くんの『明けない夜があったとして』の場合は小田さんのモノローグを参考にはしているけれども、モノローグが届かないことから出発して、じゃあそれをどう届けるのかっていう問題意識から芝居を作っている。
 その辺をどういうふうにクリアしたりできなかったりしたのか? 出来ていたと僕は考えていますけど、出来なかった面があるとしたら聞きたいし。
 で、まずどういう経緯で小田さんに惹かれていったか聞きたいです。

大内:きちんと小田さんの芝居に行ったことはそんなにないんですよ。これを書く前に行ってるのは一回か二回で。ただ、それがすごく面白かったので、動画がネットに上がっているのを沢山見て。だからさっきの話のような、観客の方がアクションしなきゃいけないっていう席じゃなくて、カメラの位置、安全圏から見てる。
 先取りすると、さっき植村さんが話してくれたような構造に、素直に俺の知ってる動画の中の小田尚稔さんの演劇を取り入れようとすると、どうしてもコミュニケーションがないところから始まるという風になったということかな。

植村:そうだね。小田さんの作品を映像で見るというのは確かにそういう矛盾があるよね。客席も映すべきなんだな。

大内:僕が惹かれたのは、『是でいいのだ』で、一番最初に1人OLが入ってきて、「『三月のあの日』、、『東南口』のマクドナルドにいた」って、覚えちゃったんですけど。それで、これはいけるなというか、凄いなと思って。言葉足らずだな。

植村:一旦整理すると、観客の反応を受け取ってかつ自家発電してモノローグをするっていう、その手法的な部分からじゃないところで影響を受けてる?

大内:だと思います、やっぱり。一つは単純に趣味として、開いたら哲学者の言葉が並んでいるのは、普段親しんでるものでもあるので、それをどういう風にやってるんだろっていう興味はあった。
 もう一つは普通に素直に、今舞台と客席の関係を問題にしようとするなら一番ストレートな仕方のように思ったんですよね。誰かが出てきて、独り言を、頭の中で考えたような、要は喋り言葉なのか書き言葉なのか、ツイートなのかよく分からないような文体で喋るっていうのが、一番素直な形なんじゃないかなと、捻りなく思いました。

植村:動画で見ているから、届かない「独り語り」から始めるっていうことになるのが面白くて。というのも小田さんの文章って、慣れてくると忘れちゃうんだけれども、やっぱりあの演技の特殊な構造によって伝わりやすくなってるだけで、今言ったようにだいぶ散文的で、普通に舞台に乗せようとしちゃうと観客を突き放してる。僕は突き放していると思うんですね、普通に載せたらですよ。それを成立させるためのあの演技態だと思うんですけど。映像で見ても、やっぱり舞台で見ているよりはどこか届いていない感じっていうのがあったのかな? っていう気が。ちょっと乱暴かな?

大内:もしかしたら単純に、書く段階で別に俺は演出家でも何でもなかったので、分からなかったんじゃないですかね? その、演技態を先に想定して書くようなことは。

植村:書く段階でモノローグの書き方として意識していたことは何だった?

大内:基本的にはどうでもいいことを書く。お客さんはいつ聞かなくてもよくなることを書く。知らねえよお前のことなんてって言われるべき言葉をまずは並べるっていうのは小田さんから勝手に受け取っているものの一つですね。

植村:なるほどね。実は、『明けない夜があったとして』のモノローグの演技は、小田さんの真似を全然してないんですよね。小田さんの影響を受けて、これだって思いながら書いているのに。
 つまり観客と目を合わせて、観客に素直に喋っちゃったら主題が成立しないというジレンマから出発している訳で、その問題にどう向き合ったのかなという話を聞きたいんですが。

大内:とはいえ僕たちは大学高校の友人同士から出発しているので小田さんや長沼さんがやっている芝居とは客層がまるで違くて。客席には「対話を求められる!」と思って来ている人はごくわずかなんですよ。なので書く段階でそれをあてにすることはなおさら絶対できないし、もちろん稽古場でも。それで役者も舞台に立つのがほとんど初めての人も多いし……っていう状況が制作の条件としてとても大きかった。

植村:なるほどね。でもその上で、じゃあ届かない相手だから小田さんを放棄しようということではなく、影響は意識しながら小田さん的じゃないものを作った。

大内:その上でどうでもいいことを聞いてもらうことはできるのかどうかっていう話になって、それがさっきの植村さんの要約に繋がるというか。その上で役者がどうしたんだろうなっていうのは気になりますけど。

植村:どうしたんですか?

熊倉:モノローグを練習していく前に、まず会話はそれっぽくはなったよねってなって。ただ、モノローグの到達点が全然見えないなっていう話をしてました。
 その時に確かフミくんが、「どうでもいいこと、マジで独り言みたいなことを喋ってるのにそれが他人事に聞こえないような形がひとつの到達点としてあるんじゃないか」っていうことを言ってて。目を合わせて語りかけてるわけじゃないのに他人事に聞こえないっていうところは私も目指したような気がしています。
 小田尚稔さんの映像の方から影響を受けたっていうのが、今、分かるなと思ってて。映画とかだと基本的にはこっちに向かって語りかけない。役者さんは独り言みたいなことを普通に画面の向こうでわーって呟いてたりすることが多いけど、観客としては基本感情移入したりとか、共感だったりとか、他人事じゃないように思えるから見てるんだろうなっていう気がする。なのでちょっと映像ぽい感じのお芝居だったのかなと思いました。

植村:僕の受け取り方を言うと、最終的にドラマが進展するにつれて、俳優同士の視線が交錯する瞬間が増えるじゃない。だから、そこで観客の方を向かないけど共感が促されて……あれ、向いた?向かないよね。一瞬向いたかな?

大内:いや、向かないですね。

植村:うん。僕は凄くそこを気にしながら見てたんだけど、「あれ、今目が合ったかな?」って思うシーンが二回あったのを覚えていて。でも「合わせられた」って思いはしなかった。「合ったかな?」って不安になったのは二回あったんだけど、じゃあでもそれは無視してよさそうだね。

大内:モノローグが断続で十回ぐらい挟まるのうちの最後の方で、一人長台詞を言う時には、それは観客を観ることになってました。「何とか頑張って」っていう笑。なので小田さんをやるのではなく、小田さんになるお芝居って考えるとよいのかな?

植村:そう、小田さんになるお芝居を作ってたね。

一同:笑

大内:お客さんも役者もお互い素人同士がぶつかっていって、話が進むとなぜか小田さんになるっていうところが、今の話の流れだとですが、目標にした芝居だった、ということにします。

植村:中で人と人がある程度切実に言葉を届け合ってるから、それをまあ客席の方でも集中して聞くかあという風になっている構図があったんじゃないか? っていうのは考えていて。まあこれは僕の持論を話すことになってしまうのだけれど、人の話を真剣に聞くのって内容がどうでもよくないからじゃなくないですか? 表情が真剣だから、周りの人もその人の話を聞いているからであって、俳優同士でモノローグが通じ合ったから観客も話を傾聴できた、という風に理解したんですけど。
 もうちょっと具体的に演技をどう詰めたのかっていう話も聞きたいかな。台詞単位でやり方がだいぶ変わる芝居ではあったと思うから、細かくてもいいんだけど。基本的にはあまり指定なく「独り言を言ってね」ぐらいのものだったの?

大内:やっぱり役者は困ってたよね。お客さんとのコミュニケーションを使ってやってくっていう方法を普通に知らないので、僕も含めて。だからどうしていいかわからなくなって。

植村:逆にいうと序盤はだから簡単で。何も届いていない状態がはっきり分かればいいから本当に普通に独り言を言ってれば良かったのかな? っていう。
 でも、その変遷だよね。小田さんになっていく、その中間的な状態もあったわけで。言葉が明確に届いてもいないし、まったく届いていなくもない状態のモノローグが中間に挟まれていたと思うんです。
 それはシナリオの内容と、空間とか俳優の配置の構図からもある程度成立はしていたと思うんですけど、演技からはどういう風に迫っていたのかなと思ってます。

熊倉:モノローグを読んでる時に空間がどこなのかあんまりわかんない感じになってるじゃないですか。一応最初の方は本当に曖昧なとこで、脳内のぶつぶつを口にしているんだと思ってたんですけど、最後の方のちょっとお客さんの方にしゃべり始める時には、未来の自分がこれを振り返ってるっていう感じの設定を勝手に頭の中で入れていた気がします。他の役者さんは多分全然違うことを考えていると思うんですけど。
 私に関しては場所と時間がはっきりしてないとやりづらい気がしたので、自分はここにいるんだぞっていうのと、未来の自分で、場所は三鷹の屋上っていうのはなんとなく自分の中にイメージがあったような気がします。未来から振り返ってここで今本音として語ってるんだみたいな風に思ってた気がします。特に後半部分に対してはそうだったかな。

植村:なるほどね。場所を意識することで喋れるようになったということ?

熊倉:場所と時間を自分の中でも作っちゃわないと無理だなって思ったのでそういうイメージを作りました。

植村:その場所と時間をイメージする度合いっていうのは作品のタイミングごとに変わった?

熊倉:だんだん鮮明なイメージになった気がします。

植村:なるほどね。それは適切な感じがする。

大内:立場を作らないとしゃべれないよねっていう話をしたね。今回のモノローグはいつどこで誰と喋ってるかがわかんないから、自分の立場をでっちあげなきゃいけないんだけど、それは台詞ごと人ごとに違うから役者それぞれがやるしかない。何か固定的な立場が最初からあるのではなく、話が進んでくのにつれてなんとなく見つけていく、みたいな話をしましたね。お芝居の基本中の基本の話をしてる気がしてきました笑。

植村:そうだね。やっぱり作り方が独特だから。つまり、誰が誰だか分からないような作りをするっていう。まあ一応現代演劇のトレンドではあるんだけど、そこと真剣に向き合うとそういう基礎がゴールになっていくところはあるのかな。長沼さんとしては今の話でなにかありますか? ある程度リンクするところはあると思うんです。

長沼:いや、ごめんなさいね、観に行けなくて。観に行こうと思ったんだけど暇がなくて。っていうのは先に言って。
 ちょっと関係ない話になるかもしれないけど、いろいろ演劇を観てるなかで、場所とか時間とか、あと感情とかが気になってしまう時間があるなと思って。そこどこなのとか、それいつなのとか、何を思って喋ってるの、みたいな。そう思わせる芝居は凄いつまんないと思う。これは別に、場所とか時間とかの情報みたいなのが伝わる演技じゃなきゃいけないってことじゃなくて。オフィスマウンテンとか円盤に乗る派とか、ああいうのって戯曲の中の場所のこととかそんなわかんなくても全く気になんないけど、でもあれは中になんか詰まってる感じするから観ていられる。そこを曖昧に処理されると、空虚すぎて場所とか時間とかそういうものを欲しがってしまう自分がいて。
 散策者で俳優をやった時に例えば、目をつぶって歩いてドアを開けて、足元にあるオーシャンドラムにぶつかり、そのオーシャンドラムを拾って音を聞くっていう一連の流れを演出家が作る。これはシーンとしては残らなかったんだけどね。大枠の指示としてこれをやってください、って言われて、でもやっぱりそれだけだと俳優もできないし観てる側も観てらんないっていうのがあって。その時は目を瞑りながらここは砂漠だっていうことにして、砂漠の中を歩くということにして足の感触とか周囲の環境とか気にすると凄くよく歩ける。でもそれは、「砂漠っていうことにしてますよ」っていうのは、全然伝わらなくていいんだよね、お客さんに。
 「何もしてないヤギをずっと見ていられるのは、実は中でめっちゃ反芻してるからだ」っていうのを中尾(註:長沼さんの所属する散策者の主宰)がいつも言ってんだけど。俳優の演技も、何をしているかは伝わらなくてもいいんだけど、何かこの人はやってることがあるとわかると凄い観ていられる。それが不足してるとなんだか気になっちゃうよなっていうのを話を聞きながら思い出した。

大内:たぶんこれは、最終的にお客さんが今言った、時間・空間・人格にとらわれないで見られるように、ってとこまで連れていければ成功だったじゃないんですかね。こっちは固めていくけど、お客さんはそれによってこっちから自由になるってことができれば。小田さんになるっていうのとはちょっとずれるかもしれないですけど。

植村:いやでも、そんなにずれてないと思うよ。小田さんは固有名詞ごと出しちゃうもんね。小田さんは特定しながら抽象的な場所に飛ぶっていうところが、またすごく複雑な操作としてあると思うんだけれどね。

tatazumiのダイアローグ

植村:じゃあそろそろダイアローグの方に話を映しますか。長沼さんに改めてお話をお聞きしたいですし。

長沼:いや、違う違う。それ聞きたいと思ったんだよな。「ダイアローグはなんかそれっぽくできたー」みたいな流れあったじゃん今笑。

植村:ありましたね笑。

長沼:ええ、本当に?みたいな笑。

植村:たしかに、そっちから聞かなきゃ。

大内:少なくともできた気になったのはなんでですかね。

熊倉:確かになあ笑。でもよくわかんないけど、反応を受け取る相手がちゃんといるのが、できた気になる一個の要素だったような気がします。一応台詞を読まされてはいるんですけど、実際みんなで会って読んでみると「あ、そう読むんだ」みたいのがあったし、その読み方を受け取ってこっちもまあちょっと勿論変わるし。
 うーん、なんでダイアローグの方が先に完成したような気になったんだろう?

大内:できてたか、っていうと変ですけど、どう見えてましたか?

植村:やっぱり演技が上手くない人はもちろん普通にいたんだけど、できてるかなっていう感覚もあった。

大内:多分構造的には、あんまりダイアローグができてなくても大丈夫な芝居だったのでは……。

植村:ある意味というか普通にずるいね笑。でも小田さんのワークショップで演じさせて貰った時もダイアローグの方が圧倒的に僕はしやすかったですね。モノローグの方がド級の難しさを誇っていて。めちゃくちゃモノローグができなかった。ダイアローグの場合は上手いかどうかっていうのと別のところで落としどころを作れるなっていう感じがしたんですよね。人と普段会話するときも上手さはあんまり気にしないで話すから。

熊倉:それかもしれない。普段通りに喋っていいお芝居だったから、普段の会話をしてるノリで喋って、「なんか普段と一緒だからできてるんだろうなこれ」って思ってた気がします。

植村:勿論その中でも良い悪いを立てる評価軸っていうのはあるべきなんだけれど、モノローグと比べて伝えるためのクオリティっていうものがダイアローグの場合はあまりなくて済むから、目の前にいる人間に対してなかば盲目的に切実に向き合ってると普通に見れるものになってしまう感じが正直僕はした。相手からの反応を素直に出せば。

長沼:相手からの反応を素直に出すっていうのが凄い難しいなと思って。『善悪のむこうがわ』をやった時に、「台本あるじゃん。何回も稽古するじゃん。知ってるじゃん。それに対する反応って何だよ」って思い続けた。で、終わってからも思ってたんだけど、『悪について』の稽古をやりつつ散策者でワークをやって、なんとなく何かつかんでから行ったらわりとできて、ありがとうって思った。

植村:そのワークの内容が凄い気になりますね。

長沼:ワークの内容はボビー中西の『リアリズム演技』を読んでください。レペティションって言います。詳しくはググってください。
 例えばtatazumiでは、口語的な言葉で同時多発も含めながら話すっていう枠組みの時点で演技の方向性が一つあるから、その中でやるっていうことになると敷居の低さがあったのかなと。
 そうするとモノローグは何が難しいんだ?ってなる。方向性としてはダイアローグの感じでそのままやればいいんじゃないかな?っていうことになると思うんだけど。

熊倉:なるほど、なんだろうな。完全な自家発電じゃなかったから難しかったのかもしれない気がしてきました。自家発電も難しいと思うんですけど、「こういう情景を立ち上げるぞよーし」って思える理想形みたいなのが自分の中になかったから、どうしようと思って。言葉も届かなくてオーケーだし。多分もうちょっとわかりやすいモノローグだったらやりやすいのかなっていう気がします。

植村:大内君は何をクオリティの基準にしていたのかな?

大内:あまり考えてなかったんじゃないですかね笑、クオリティのことは。非常に横暴なことを言うと。演出やるには不勉強だなと思いました。

植村:書くだけにしたいってそういえば言ってたもんね。

大内:つまり、演技のクオリティにあまりタッチできなかったし、タッチするのは何なんだろうっていうのがわからず。演出の立場で言ったのは、モノローグを聞く側の動作に関する指示をいくつかしたくらい。

植村:僕個人の見解を言うと、そもそも何で演劇にクオリティが必要ってことになってしまっているのか? っていう問題が実はあるんじゃないかと思って東京はるかにをやってるんです。
 僕も勿論、お金を払ってお客さんとして劇場に行く時にはクオリティを期待しているんだけれども、脚本の内容から離れて演技のクオリティっていうことを素朴に求めると一種のフォーマリズムになってしまう。演技を他のファクターから区別して純粋に志向していくと、演劇の目指すものが「質料としての俳優がいかに表出しているのか?」っていうそこの一点に尽きることになりかねない。でもじゃあ僕は果たして本当にそれが見たいから演劇を好きなのか? って言われるとちょっとよく分からない。

大内:いくつか植村概念が登場してるから、もう少し話を聞く必要がありそうですね。

植村:でも本筋から外れるから、雑談としてインタビューの後でやりたいんだけど。結論としては、ありふれた結論ですけど、個人個人がその作品を通じて達成したい目標のために最も効率や効果を最大化する演技の方法を選びとるしかないんじゃないかっていう気がしている。
でも基本的にはどういう方法を選び取っても、結局いい演技っていうのは俳優の身体とか言葉とかがよく現われてる演技以外のものではないんじゃないかっていうのがひとまず僕の立ててる基準です。そういう意味で俳優は本当にプロフェッショナルだと思うし、尊敬もしているけど、それだけを純粋に追求しちゃうのはあくまでさまざまな形があり得る演劇の一ついびつな形でしかないんじゃないかということは思いますね。一種のフォーマリズムだから。


後半に続く

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