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小田尚稔の演劇『罪と愛』イントロダクション

以下は、2020年こまばアゴラ劇場上演の、小田尚稔の演劇『罪と愛』で配布されたイントロダクションを掲載したものです。

・「独り語り」の普遍化

 小田尚稔さんの作品の特徴は、その独特の独白形式にあったと思います。舞台と客席との間の壁が取り払われ、ひとしく場が共有されることで醸成されてくる親密な空間において、ある種の私小説的な語りを展開すること。小田さんの物語の人びとは、みな具体的な地名を口にし、きわめて個人的な出来事や雑感を綴ります。それに、そのしゃべり方もとつとつとしていて、普段人が頭の中にとどめる言葉、他者に語りかけるためではない小説の地の文のような言葉がそのまま放たれるのです。もちろんそれだけでは、その孤独なモノローグは誰かに聞き入れられることはないでしょう。けれども、自らの弱さを剥き出しにするような、俳優の本人性の強い演技をある種の<文体>とするその即物的な語りに、わたしたちはついつい耳を傾けてしまいます。そして、そのような空間の親密さにあって、独り語りする<個>は他者と結ばれたある種の普遍へと媒介されてゆくのです。ポップスや哲学書の引用も、描かれる孤在を大きな開けへと架橋するものでした。こうした普遍性への昇華は、小田さんが一貫して善や悪、罪といった道徳的な事柄を主題として創作を続けていらっしゃることとも無関係ではないでしょう。

・流動する語り

 けれども、こうした作風は徐々に変化の兆候を帯びつつあります。まずは、ダイアローグの増加です。とはいえ、これは単なる独り語りの減少として片づけられるべきではありません。ダイアローグの増加に伴って、発話主体の不明瞭な、個の曖昧な語りまでもが物語に加わり出したからです。個としての俳優よりも俳優間の関係性に焦点を当てることで、普遍化の論理に根本的な刷新が生じているのですが、モノローグにあった孤在の印象はしかし消え失せてしまうことはありません。それまでは普遍につながれながらも明確な形を保っていた個人の姿が、ここでは不安定でよるべのない位置に置かれてしまっているからです。他者と向き合うダイアローグへの移行は、個としてのソリッドな実感の喪失に並行してもいるのです。
 さきほど、小田さんの舞台は私小説的であると述べました。私小説とは作家の生活を素材として構成された物語のことですが、そこに時に虚構をも含んだなんらかの語りが生起するのでなければ、それはただの日記です。作家の輪郭がおぼろげながらに浮かび上がってくるのは、一足踏み出すごとにその跡をかき消すようなその「物語り」を追う、わたしたちの足取りのよろめきやつまずきにおいてこそであるかもしれません。

・劇場へ

 これまでは新宿眼科画廊や三鷹のSCOOLといった、手狭で劇場らしさの希薄な空間で創作をなさることの多かった小田さんですが、『罪と愛』の舞台はこまばアゴラ劇場。客席と舞台の「距離」や、上演内容の虚構性が強く意識される劇場という空間です。これまでのようなやり方で観客との親密さを前提するわけにはいきません。キャストは10名と大勢で、映像や音響もふんだんに使用されます。また出演者にはミュージシャンの冷牟田敬さんもクレジットされており、これまでとは音楽の用いられ方がまったく異なってくるだろう点も特筆に値します。こまばアゴラ劇場というこの場所で、「小田尚稔の演劇」は、どのような物語りを紡ぐのでしょうか。

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