AI To 集まる:小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク『セイ』評
・AIに面白い戯曲は書けない
ChatGPTに代表される生成(せいせい)系AIが普及した今日では、AIが産みだした作品をどのように評価するかがしばしば問題にされます。
AIを利用した作品が2022年の星新一賞を受賞したニュースは記憶に新しいところです。アメリカでは月刊誌クラークスワールド・マガジンの投稿募集がAIによる作品の急増でパンクして話題になりました。作家という仕事をAIが奪ってしまう時代が現実になりつつあるのかもしれません[*1]。
一方で、演劇にはAIの猛威がそれほど及んでいないようです。理由は簡単でしょう。AIには面白い戯曲がどうしても書けないからです。
「面白い戯曲」とは、上演したくなる戯曲のことです。演劇を上演するのには普通ものすごい手間がかかります。上演を行うことについて共同制作者と合意を取り、その時間を大いに奪い、さらに前もって劇場を押さえ、上演のための資金繰りや集客にも奔走し、多くの観客の足をそこに向けさせる。面白い戯曲とはふつう、これだけの労に値するもので、だからこそわざわざ上演がなされるわけです。
仮に生成系AIが出力する戯曲の完成度が今度どれだけ上がったとしても、AIには「読みたくなる文章」は書けても、「上演したくなる戯曲」はつくれないでしょう[*2]。そしてそういう直感が得られるのは、戯曲を上演することが結局コミュニケーションの一つのかたちだからではないでしょうか。手間暇をかけたコミュニケーションの先には人間がいてほしいという気持ちはごく自然なものです。戯曲の作者をAIが肩代わりしてしまったのでは、上演しても割に合わない感じがするのは、きっとそういうことなのです。
演劇は、実は作者やその意図がとりわけ要求されやすいジャンルなのだということが、ここで改めて確認されるでしょう。もちろん、舞台を観る経験は作者の意図を追うことに終始しません。それでもなお、作者という存在を意識することが上演や鑑賞のひとつの条件になっている、というのがわたしの主張です。
さて、「作者」に対応する単一の人格をAIが肩代わりすると夢想するのは間違っていますが、AIのことを人の手をまったく介さない技術的にごく中立な存在としてイメージすることもまた誤りです。AIが文章を産み落とすまでのプロセスには、学習するデータセットの作成・選定、その運用などで人為的な判断がつきものだからです。AIという一見中立な装いの裏で、この人為的なバイアスが差別や格差を再生産する恐れもあります[*3]。AIから自動的に出力される表現の奥に人間がいると想像するのは困難です。しかしそれでも、AIをある種の集団創作物として意識しておくべきなのです。
すると、面白い戯曲をAIが書く、というのが夢物語にすぎないとしても、ここまでの議論からはAIによる新たな演劇創作のかたち、その可能性が浮かび上がってきます。AIによる戯曲を、あくまでも徹頭徹尾コミュニケーションの所産として扱うのです[*4]。
たとえばこの方向性が現実志向になれば、AIが表現を産出するそのプロセスにおいて、どのような人為的媒介が加えられているかを明るみに出すような上演が模索されるでしょう。また、逆にそれがよりフィクショナルな方向に向かって、AIが書いたにもかかわらず、それがある人格的存在によって書かれたものであるかのように錯覚させることで、AI戯曲の上演を事後的に正当化するような、そういう道もあるはずです。このテキストは確かに人間が書いたように思える、だから上演されてしかるべきだったのだということを、戯曲ではなく上演の側で保証してやるということです。あるいはその逆の方向性も、ありえるかもしれません。
以上はほんの一案に過ぎませんが、AIとのコラボレーションによる演劇があり得るとすれば、それはこうした道筋においてのことのはずなのです。AIとの集団制作は、AIを中立的な普遍項、冷たい機械としてではなく、どこか私たちとフラットな地平に立つ者として、さまざまなアクターの共在が織りなす舞台の一員として扱うことで果たされるのではないでしょうか。
・Iとは誰か
スペースノットブランク『セイ』の上演は、AIと演劇がこのように交差しうる可能性の一端を示すものでした。
『セイ』は脚本家・劇作家・演出家・俳優・造形作家の池田亮さん(ゆうめい主宰)がスペースノットブランクに書き下ろし続けているメグハギサーガシリーズのスピンオフ作品にあたり、これまで2020年3月には『ウエア』、2022年1月には『ウエア』再演と『ハワワ』が上演されています。まず池田さんが独自に原作を書き、そこからスペースノットブランクの側で上演台本を立ち上げ、演出するため、上演のためのテキストがそれぞれ二つずつ設けられていることが、同シリーズの特徴のひとつです。
『ウエア』についてはすでに二度にわたり評を書いているので詳しくはそちらをご参考頂ければと存じますが、大体のこれまでのあらすじをまとめるなら、メグハギという名前のAIに人々が同化し、呑みこまれ、自他の区別がつかなくなっていく世界と、それへの抵抗を描く、といったところでしょうか。
メグハギサーガシリーズや同シリーズとのリンクを感じさせる池田さんの『キムユス氏』『ハートランド』といった一連の作品群における『セイ』のストーリーの位置づけやその解釈については、重要なこととはいえ、ここで踏み込んで論じるつもりはありません。
というのも、池田さんの書かれたストーリーラインを上演を通じて辿っていくことは難しく、「一般再出生AI事業許可申請書」が総務大臣に提出されて可決された世界で、AIによって死者が生まれ変わりを遂げるさまが描かれているらしいということは、話を懸命に追えばわかるのですが、上演はむしろそうしたストーリー以外の要素に目を向けさせるものだったからです。
上演は二部構成になっていました。第一部では数十分にわたり、瀧腰教寛さんの単独弾き語りライブが開催されます。その後休憩時間をはさみ、いよいよ本編の物語が始まるのかと思いきや、なんと、第二部もかなりの部分が音楽の演奏で構成されているのでした。
第一部では「アワワなコード」「元気の歌?」などオリジナル楽曲が歌われていましたが、第二部では「宝島」(サカナクション)や「Bad Romance」(レディー・ガガ)など既存楽曲が中心で、カラオケ大会みたいでもあります。
いずれにせよ、ところどころ独白によってストーリーが開示されはしますが、全体としては歌ばかりで、いわゆる演劇の上演という感じがあまりしないのです。
まず物語があってその後に歌というのではなくて、物語よりも歌が先に来て、しかも歌が具体的なストーリーラインを示すこともないので、ミュージカルとも違っています。
主要登場人物の名前とプロフィールが開示されるのは「2の3 証拠書類」のチャプターですが、事前に録音された幾つもの台詞がスピーカーから同時に発されるため、ほとんど聞き取れません。わたしは販売されていた上演台本を確認して初めてその名前を知りました。
もっとも、この演出が採用されたのはストーリーの伝達を避けるという意地悪のためではなかったかもしれません。メグハギサーガシリーズは名づけという行為の暴力性をめぐる物語で、登場人物たちが自分の名前から逃げ出そうとでもするかのように「メグハギ」という一つの名へと同化していくのもそのためでした。登場人物の名前を知らない状態での鑑賞を促す『セイ』の上演の在り方は、名前が問題にならない地点が目指される原作のシナリオに対応していたかもしれないのです[*5]。
原作の登場人物とは別に、上演の登場人物というか、役割として設定されているのは「I1」「I2」「I3」「I4」の4名で、アルファベットのIが4人分ナンバリングされています。I、すなわち4人のわたし、ということなら、やはりここでも具体的な固有名を扱うことは避けられていると言えそうです。
しかし話はそう単純でもありません。Iは『セイ』の原作者、池田さんのイニシャルでもあるからです。出演者たちは、4人の池田さんとして演技をしていた可能性もあるということです。すでに『ウエア(再演)』評註12で簡単に触れ、いずれ発表する『ハワワ』評でも詳述する予定でいますが、メグハギサーガシリーズは池田さんの人生を参照する要素が多分に織り込まれているため、「キャラクタらの照応関係がそこに最終的に収束してゆくある種絶対的な項として池田亮さんの名を意識せざるをえなくなる」のです。
物語の説明を大幅に省いているのもあり、論が急に抽象的になって恐縮ですが、つまりこういうことです。メグハギサーガシリーズでは、あらゆる登場人物がある単一存在へと溶解していくのでした。物語に準ずればこの単一存在とはAIのメグハギを指しますが、ふと物語の外に目をやれば、それは他でもない原作者の池田さんを指しており、真に拮抗関係にあるのはメグハギと池田さん、物語世界とその外部の現実世界だったわけです。
『セイ』がコンサートのフォーマットにおよそ準じて上演されていた理由もまずここに認められます。物語をストレートに伝達することを避けることで、観客は物語の内外に作品がめぐらしていたいくつもの緊張関係に目を向けられるようになるからです。その効果を最大化するためには、ストーリーを再現するという一般的な上演形態とは大きくかけ離れた、コンサートという異質なシチュエーションが便利だったということです[*6]。
・AIで書く AIを書く AIが書く
I=池田さん説を直接的に裏付ける台詞が作中にあります。
チャプター「2の8 遺書」では、マスターベーションに使用していた300体ものフィギュア[*7]をリサイクルショップの宝島に売りに行く人(Aとします)の話がI2によって長々と語られるのですが、その語りは突如中断されます。免許証の提示と名前の申告を求められるところから、どうやら警察に職務質問を受けていることがわかるのですが、Aはその直前まで宝島に居たのですから職務質問を受けるはずなどなく、物語の語り手とAが別人だったことが推察されます(I2が演じているとみられる役割は多岐にわたるため、語り手イコールI2と解釈してよいかさえわからないことが、話をさらに複雑にしています)。そして語り手は名乗るのです。
もっとも、語り手は警察が去ってすぐ、「池田」という名前を撤回します。
とはいえ、この人物は免許証を警察に渡したうえで名乗っていたわけですから偽名を使えるはずがありません。語り手はやはり「池田」という名前をもち、かつ、聞き手に本名がばれるのを警戒している人物として描かれていることになります。
この「池田」が池田亮さんと同一人物だとだめ押しで観客に信じさせるトリックに、AIが使われています。
『セイ』の上演中は出演者が発した台詞に対応するテキストがつねに字幕に映写されていました。先の引用箇所の括弧内の文章も字幕用のものです。出演者の台詞がそのまま書かれているようにも見えますが、これはAIによる音声認識によって出力された文章であることが、たとえば次のような台詞から推察できるようになっています。
この種の誤変換は音声認識によく見られるものです。加えて以下の台詞は、池田さんがこれらのテキストをいかに制作したかを窺わせます。
池田さんは音声認識アプリに語りかけることで、台詞用と字幕用の二つのテキストを同時に作成していたはずです。そして誤変換された字幕用のテキストにツッコミを入れていくことで、AIと(あるいは、AIに媒介された自分自身と)会話を繰り広げていったわけです。
ここから、先のRと「池田」の交代劇も説明できます。Rの物語をアプリに吹き込んでいた池田さんは、不審者と見なされて職質に遭い、その間の発話もアプリに聞き取られてしまっていたというわけです。
もちろん、この職質が池田さんに実際に起きたことかどうかは定かではありません。重要なのは、観客が作中の「池田」と池田さんを同一人物だと想像することがこの場合自然であり、しかもそのイメージは音声認識アプリにおけるAIのふるまいによって媒介されていたということです。
なお、後述するように、出演者など池田さん以外の人物が稽古場で発したとみられる言葉が台詞になっている場合もあるのですが、その場合、台詞と字幕は完全に対応を見せます。つまりAIの誤変換が牙をむく相手は池田さんに限られているのです。
さきほど、メグハギサーガシリーズとは池田さんとAIメグハギの抗争劇である、と整理したことをここで思い出してください。互いに類似しながらも誤変換によってその差をあらわにする池田さんとAIのテキストが並置されることで、この抗争はあっけらかんと可視化されます。
ここでAIと池田さんは、ある不確定なバイアスとして、同じ地平に並び立っているとも言えます。AIは誤変換を通じて池田さんという人間に特有のバイアスの存在を浮かび上がらせます(「なんで 俺こんなうまく変換できないんだろう」)。しかしそのエラーは同時に、AI自体に内在するある種の偏りを可視化してもいるのです。こうして立ち上がるのは人格未満でありながらそれでいて人の手を介したAIというイメージです。
AI(アイ)の存在によってI(アイ)=池田さんの存在が確証され、そのことで逆に話者としてのAIに奇妙なリアリティが付与されつつ、その同一化は周到に回避されるというこの仕掛けこそが、『セイ』の上演の核心をなすものでした。そしてAIとIは度重なる誤変換を通じて絶えず「再出生」し、再出生AIにまつわるストーリーをその外側でなぞるのです。
それにしても、このIとAIはそもそもなぜお互いに争わなければならないのでしょうか? その詳しい考察は別の機会に譲らなければなりませんが、ここでは説明に代えて、『ハワワ』で初めて歌われ、今回の『セイ』でも掉尾を飾った「染色体のうた」の一節を引用しておきたいと思います。
・To 新しい集まり
『セイ』がAIを通じた人間の再出生の可能性を描く作品であることは、ここまでも何度か確認してきました。
ダニエル・コーエンさんの『AI時代の感性』(林昌宏さん訳)という本は、AIが「死者の「歴史」を調べ上げて蘇らせるというアイデア」(p. 9)についての挿話から幕を開けます。しかしコーエンさんは、AIが死者の再出生を可能にするというシナリオにどうやら懐疑的なようです。そう思えるのは、コーエンさんが「人間は身体と精神であり、機械はそのどちらでもない」(p. 22)と書いているからです。そうであるにもかかわらず機械に人間を代理させようとする「デジタル資本主義の狙いは、身体的な相互作用コストの削減」(p. 10)でした。
第三章「ロボットを待ちながら」のはじめの節「王の死」ではウィリアム・ボーモルさんとウィリアム・ボーエンさんの『舞台芸術 芸術と経済のジレンマ』(池上惇さんたち訳)が引かれています。「演劇は生産性を向上させることができない舞台芸術だ。よって、新たな技術を利用して生産に必要な労働時間を削減する他の経済分野と比較すると、演劇は割高になる」(p. 59)。そして、今日では「ライブ・パフォーマンスもメディアに吸収されてしまったこと」(p. 60)が嘆かれるのです。
それなら、舞台が「身体的な相互作用コストの削減」に抗い続けて上演を堅実に重ねることにはそれ自体無視できない価値が宿ると主張したいところです。舞台がたとえAIを題材にするとしても、それはやはり新しい集まりに向けた模索であってほしいと願うのは、素朴にすぎるでしょうか。
ところで、『セイ』はスペースノットブランクにとってきわめて重要な転換を示す作品だったとわたしは考えています。同団体のコレクティヴとしてのふるまいが新たな段階に移行したとみられるからです。
クリエーションのプロセスにおける関係性の集積を作品として提示するという従来のスペースノットブランクのアプローチが、よりあからさまにフィクショナルに果たされるようになったのです。
「ここはフリースペースなんだ」
『セイ』あらすじの冒頭に置かれ、上演中もたびたび繰り返された台詞です。「フリースペース」という言葉が『セイ』原作のストーリーにおいて具体的に何を指すのかは、上演を追っていても、また上演台本を熱心に眺めても、それほど明らかではありません。AIが支配的にふるまえる空間なのだろうことが、話の脈絡上推察されるばかりです。
しかし『セイ』はまさにこの「フリースペース」という語を体現するかのようにして上演されたのでした。つまり、舞台に立つ人々がそれぞれ自分の自由を満喫する様が、それ自体ひとつの上演の内容であるかのように演じられていたということです。「フリースペース」は語られずして体現され、AIが生きる世界のリアリティはかくして舞台に実装されたのです。
「制作」としてクレジットされ、当日は受付を担当されていた花井瑠奈さんによるドラム演奏。演出の小野彩加さんによる、荒木知佳さんとデュエットでのダンス。ここでは出演者と非出演者の間の垣根がかるがると乗り越えられています。フリーというのとは少し外れるかもしれませんが、観客の目が届きやすい所に音響・照明卓が置かれ、櫻内憧海さんの仕事ぶりが確認できるようになっていたほか、演出の小野さん・中澤陽さんが舞台上に机を構え、舞台監督の河井朗さんや美術のカミイケタクヤさんも時折姿を見せたのも、印象的でした。
もっとも、『ウエア』再演評の注13でも指摘した通り、各種の論理階層を失調させることで作品世界にリアリティを与える手続きは、過去のメグハギサーガシリーズにも見られるものでした。たとえば『セイ』においても、関係団体の名前が作中でアニメのタイトルとして言及されていること(「スペースノットブランク」「ヌトミック」)、また蘇生や甦生、復活ではなく「再出生」という耳慣れない語がつかわれ、これがスペースノットブランクと松原俊太郎さんが2022年に上演した『再生数』という作品名と似た語感を称えていることなど、作品外の現実を言葉遊び的に取り込むしかけにその一端がうかがえます。
とはいえここで注目しておきたいのはやはり、自由で平等な活躍という関係者同士の関係性が、原作の物語を体現していると解釈可能な、フィクショナルなものとして提示されていることなのです。
上演要素のいくつかが、クリエーションのプロセスにおける出演者のふるまいから掬いとられたものだろうことは、たとえば第一部での瀧腰さんの台詞から推察できます。
以上の台詞を瀧腰さんは終始立ちながら発話していました。立ち続けているのに、「座ります」という。これがただの天邪鬼なクソギャグでないとしたら、どういうわけでこの言葉が発されたのでしょうか。
スペースノットブランクのこれまでの作品を観ていたり[*8]、第二部での池田さんのテキスト生成方法を思い出したりすれば、答えはかんたんに想像できます。瀧腰さんはきっと稽古場で、ほかのメンバーに向かってさきほどの言葉を発したのです。そしてきっと、その時は実際に座って演奏したのです。そしてその言葉が記録されたものが上演用の台本としてテキスト化され、舞台上で改めて発されたのです。
重要なのは、瀧腰さんがこの台詞を立ちながら発することによって、稽古場と上演のズレが観客に対して強調されていることです。しかもこのズレは、出演者の振る舞いが、フリースペースの再現というごくメタ的な仕方ではあれ[*9]、池田さんの作品世界の再現に奉仕するものとして、つまり、AIがその生を謳歌する空間を体現する一種のフィクションとして示されることで、いっそう強調されるのでした。
わたしは『セイ』の制作プロセスに直接立ち会っていないため、実際のところ、この舞台がどれだけ自由かつ平等に制作されたかは知らないですし、判断するすべも持っていません。そして実際、判断できると思うべきではないし、そのような錯覚を前提にした舞台の見方には反対すべきだと考えています[*10]。
スペースノットブランクは、制作プロセスにおける出演者の発話や身振り、関係性を集積させ、それを編みなおすようにして舞台を制作するところに、作品の特異性がありました。そうして舞台上の時空間と制作時の時空間にはある一定の対応関係が築かれます。そしてこの方法は、舞台芸術の制作過程におけるハラスメントや暴力が問題視され、制作の透明化が期待されるようになった今日の潮流と奇しくも符合していました。
しかし、たとえば自由や平等の再現、本人性の体現がそれ自体上演の内容となる時、出演者は逃げ道を失います。仮に制作において不自由や不平等を感じた場合、その気づきを絶えず抑圧することが、目指される演技への近道となりかねないからです。
制作における自由や平等、自分らしさの発露は、目指されるべき理想であっても、所与の内容とすることはできません。制作者たちにはそれをある意味でのフィクションとして、ある種のつくりものとして共同制作していくという倫理的な態度が求められます。ここでは、制作時の時空間と上演時の時空間のずれやねじれは絶えず緊張関係に置かれ、強調されなければなりません。
もちろん従来のスペースノットブランクの舞台でも、こうした時空間のねじれは意識的に強調され、提示されてきました。しかしその変換規則のあまりの複雑さのために、そのねじれがいかなるかたちをとるのか、観客に対して明らかではありませんでした。たびたび作品ステートメント等で表明され、そして作品自体によって体現されてきた出演者の「本人性」の呈示というフィクションをどれだけリアルに受け取るかは、それぞれの観客に一任されていたのです。対して、わざとらしいまでにメンバーの本人性や自由、平等を演出した『セイ』の舞台は、スペースノットブランクのコレクティヴ性をある共有可能なフィクションとして立ち上げました。繰り返しますが、制作環境の透明性・不透明性をどのレベルで設定して呈示するかは今日きわめて重要な問題で、観客からの見え方は無視できる問題ではありません。
集まりを上演にする仕方を絶えず発明し続けてきたスペースノットブランクのことですから、この方法は『セイ』に特有のもので、そのままに反復されることはないでしょう。しかしそれでも『セイ』の上演を、わたしはひとつの画期として記憶しておきたいと思います。折り重なる誤変換をはらんだ、集まりの再出生に向けて、です。
(記録写真:高良真剣さん)
・註
[*1]ここではAIが作家を代理する事例としてとりわけ象徴的な二つを取り上げました。前者では質的に、後者では量的に作家の仕事が奪われています。論旨から逸れるので深入りはしませんが、より深刻なのは後者の方でしょう。国内ではAAF戯曲賞、北海道戯曲賞、かながわ短編演劇アワードなどが公募を行っていますが、これらの戯曲賞は今後生成系AIとの距離感を慎重に探っていく必要があるのかもしれません。
[*2]現在の生成系AIは読み物として面白い戯曲でさえまだろくに書けないようです。わたしも試しにいくつか戯曲をつくってもらいましたが、アイデア・構成力・文章の魅力、そのいずれも物足りなかったです。しかし作劇術というものはそれなりにパターン化されていますから、それを学習すれば、こと構成力に関しては及第点をとれるようになるかもしれません。
文章についてもまだまだ改善が見込めるのではないでしょうか。丸谷才一さんは『文章読本』で文章の「秘訣とは何のことはない名文を読むことだ」と主張されていますが、生成系AIが学習する文章のサンプルデータを名文に限定すれば、産み出される文章の質は確実に変わってくるでしょう。たとえば平田オリザさんは「戯曲制作支援ソフトの夢」(『平田オリザの仕事1 現代口語演劇のために』所収)という文章で、井上ひさしさんや別役実さんの文章をコンピューターに学習させ、お二人のような戯曲を自動生成する未来を夢想しています(ここにみられる平田さんの戯曲観・演劇観は今こそ改めて論じられるべきです)。
そうなると、誰が誰の文章を名文と見なすのかが問題になるでしょう。
[*3]たとえば株式会社日本総合研究所先端技術ラボが作成したスライド「AI公平性・説明可能AI(XAI)の概説と動向」の10-11ページを参照のこと。https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/column/opinion/pdf/13846.pdf
[*4]もちろん、旧来的な作者概念を保存しつつも部分的・補助的にAIを用いて戯曲を作成すること、すなわち、ベタにAI「で」書くことは可能でしょうし、そうした上演の例もすでにいくつかあるわけですが、それらはここでのわたしの関心を満たすものではありません。
[*5]なお、「保存記録」という立場上わたしは『セイ』の原作をスペースノットブランクから提供されていますが、本稿はまだ原作に一度も目を通していない状態で書かれています。
[*6] 終盤には写真撮影の時間が設けられ、SNSへの投稿が促されていました。スペースノットブランクには珍しいこれらの措置がとられたのも、いわゆる音楽ライブあるあるのフォーマットに準ずることで、上演それ自体をネタ化し、その外部に目を向けさせるためだったでしょう。
[*7]本編にマスターベーションという言葉は出てきません。語られる内容や『ハートランド』とのリンクから言って、自慰に励みフィギュアに精子をかけていることはほとんど自明なのですが、直接的な言明は次のようにはぐらかされます。
ここで注目すべきは、誰がどう聞いても「精子」と話しているはずの箇所を伏字にする検閲を、誰がわざわざ働いたか、ということです。それが池田さんによるのであれ、スペースノットブランクによるのであれ、ここではAIの誤変換に加え、また別の変換がテキストに上書きされていることになります。変換のアクターを複数化するこの手続きは、メタレベルに立ってテキストを変換する編集者の座を人間がAIから奪い返すものとも解釈でき、見逃せません。
そもそも、池田さんの発話をテキスト化する操作自体はAIではなく作者本人の手で行われなければならなかったはずであり、二つのテキストを並置する上演台本の形式自体が、この節で論じるAIとIの抗争劇に対応するものとも言えます。
[*8]スペースノットブランクは、しばしば稽古場での出演者の発話を集めることで上演用テキストを制作します。たとえば『氷と冬』評、『本人たち』(2020)評を参照のこと。
[*9]出演者による自由の体現ということで言えば、第一部での瀧腰さんのワンマンライブはその最たるものだったでしょう。第一部で演奏された8曲のうち、瀧腰さんは7曲もの作曲を務め、さらにそのうち5曲にわたって作詞まで手掛けています。その歌詞中でどれだけ原作の再現が追及されたかは存じ上げませんが、オリジナルソングの制作がこれだけふんだんに一出演者に任されていたというのは特筆に値します。
なお、論理階層の失調という論点に関しては、瀧腰さんが公演前に新宿等でたびたび路上ライブを行い、『セイ』の作品世界を上演空間の外に延長させており、その様子がつど団体Instagramアカウントにて配信されていたことについてもここで指摘しておきます。
[*10]出演者の本人性の呈示という論点について、わたしは現在では保存記録としての仕事の初期に示してきた見解とは異なる立場から論ずる必要を感じています。ここでの記述はそれを示そうとしたものです。かつての見解は、たとえば『紙風船』評の「本人性」の節に顕著です。
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