見出し画像

スペースノットブランク『ストリート』(2022)評

この文章は、小野彩加 中澤陽 スペースノットブランクが2022年10月に大阪各地の路上で上演した歩行の身振りを基軸とするダンス作品『ストリート』について書かれたものです。独立した記事として書かれてはいますが、以前の『ストリート』について書かれた評の続編となっていて、論点の重複はなるべく控えていますので、まずはそちらに目を通していただくことをおすすめいたします。

・ストリート④ 別の空間性

 『ストリート』は奇妙な経緯をたどっています。スペースノットブランクはその名の通りストリート、すなわち路上での上演を見越して制作を行っていました。2021年9月には富士見市民文化会館キラリ☆ふじみアトリエ、そして大阪市内各地での上演が予定されていたのです。
 しかし、当時はCOVID-19への感染対策の観点から大阪の路上での上演が見送られました。結果として、どちらが本来的ということはおそらくないでしょうけれども、ストレートなストリートではなくまずは劇場施設での『ストリート』のみが上演されるに至ったのです。延期公演は2022年3月に予定されていましたがそちらも見送られ[*1]、それがついに念願かなって上演に至ったのが2022年10月に上演された『ストリート』だったわけです。出演者はキラリ☆ふじみに引き続き小野さん、花井さん、山口さんの3名でした。

[*]こちらの情報は公式には示されていませんが、原則的にスペースノットブランクの全作品を鑑賞する「保存記録」の職務の性格上、わたしには延期の事実は知らされていました。上演を重ねるたびにより新しいクリエーションを志向し、表現を進展させていくことを目指すスペースノットブランクの足跡をたどるうえでは重要な情報と思い、ここに記しておきます。

 しかし、この空白期間のうちにスペースノットブランクは新たな「ストリート」のかたちを生み出し、上演していました。2022年7月にカフェムリウイで上演された『ストリート リプレイ ミュージック バランス』(『ストンス』)において、「ストリート」は上演の主要な構成要素として再生していたのです。カフェムリウイは客席とアクティングエリアが明瞭に分離された空間ですから、路上のように観客と連れ立ってどこまでも前進していくわけにはいかず、踊りの構造は変形されざるを得ませんでした。
 結果として、わたしは上記のキラリ☆ふじみでの上演について論じた際には出演者と観客と通行人の境界線の引き直しに注目していましたが、『ストンス』評ではむしろ劇場空間を街路空間として再定義する踊りの働きにフォーカスすることになりました。
 そして、今回の大阪での上演では逆に、街路空間のなかにそれとは別の空間が立ち上げられていたと考えられます。とはいえそれは、路上で踊ることで街を舞台にする、とかいった単純な話ではないです。

 上演が行われた日付と場所は以下の通りです。上演はいずれも午後三時から25分程度の上演時間で実施されました。上演箇所は、500円でチケットを事前購入した観客にのみメールで通達されました。ほかの道ゆく人々にとっては、実質的なゲリラ上演として見えたはずです。このうちわたしが実際に鑑賞しているのは関東での仕事の都合上、10/7までの三回の上演のみ。北加賀谷公園とコスモスクエア海浜緑地は場所の下見をするにとどまりました。

10/5 淀川河川公園西中島地区
10/6 中之島公園
10/7 金塚ふれあい西公園
10/8 北加賀谷公園
10/9 コスモスクエア海浜緑地

 淀川河川公園西中島地区は、ビジネス街を向かいに臨んで、いくつもの道が川に沿って並走する見晴らしのよい土手。中之島公園は都心部の河川の中州につくられた全長約1.5キロの緑に囲まれた公園で、道は複雑です。これら二地点は河川に沿った舞台でしたが、金塚ふれあい西公園は飛田新地近くの住宅街のあたりに位置する公園です(上演の途中で、道路を渡って、金塚ふれあい中央公園へ移動していました)。北加賀谷はかつては造船の町として栄え、近年アートスポットとしての再開発が進む場所で、出演者はおそらく公園を飛び出してアートの街を巡り歩いたことと思われます。コスモスクエア海浜緑地は海沿いの公園ですが、ポール・アンドリューさんのデザインした海洋博物館の廃墟がそびえ、人気のないどこか寂しい空気が漂っていました。
 このようにそれぞれの上演場所は地理的・社会的なコンテクストを様々に喚起するものでした。


10/8 北加賀谷公園

 とはいえ、場所について言えば、問題にしたいのはその立地と複数性から帰結する制作時間の短さです。というのも、スペースノットブランクは『ストリート』上演直前の10/1,2時点ではKYOTO EXPERIMENTで『再生数』を発表しているのです。京都と大阪はそれほど遠くないとはいえ、『再生数』本番までの関西滞在期間に、それぞれの現地で十分な時間を割いての稽古が行われていたとは考え難いのです。
 また、そもそも『ストリート』は通りすがりの歩行者がただちに鑑賞者に変じてしまう作品の性格上、上演場所での稽古を何度も反復することは作品の意味を大きく変えてしまいます。
 つまり、今回の『ストリート』は稽古場で事前に用意された動きをそれぞれの場に持ち込み、出演者自身がその場に出会うようにして、場に対しての一回性の強い身振りとして踊られたに違いないのです。このように、『ストリート』にサイト・スペシフィックな意味合いは希薄です。あるいは、その場所との即興的な交感によって事後的なサイト・スペシフィシティを生み出すことができるかどうかが賭けられていたのだともいえるかもしれません。「この場所で披露するように振り付けられたダンサーのムーブメントはこの場所のために作られたものではないのではないか」と語る中間アヤカさんの批評が伝えているのも、おそらくはこのような感触だったでしょう。

 この場合、踊りは、上演環境の予期せぬ変化に対応しうる、フレキシブルなものでなくてはなりません。状況に応じてかんたんに操作できることが必要だったのです。
 歩行はしばしば散文にたとえられます[*2]が、道の中に置かれた句点のように踊りはたびたび中断されました。この中断を始点あるいは終点として、踊りはいくつかのシークエンスに分割されていたらしく、序盤は3名のユニゾンで同じ動きが繰り出されていましたが、全員がいっせいに駆け出すだけのシンプルなシークエンスを経て、やがてばらばらに一見関連性のない動きが踊られていきました。しかしここではそれぞれのシークエンスでの踊りを特徴づけ、その関係性を考察する、実りがあるのかどうかも定かでない作業は控えます。それよりも、踊りの全体が一定の流れを持つ複数の異質なシークエンスに分節されていたこと自体に目を向けたいと思います。それは、各シークエンスの始点をみちゆきの各地点にプロットしていくことで、事前に用意された身振りを素早くその場にインストールするための、踊りの管理術でもあったとみられるからです。

[*2]ポール・ヴァレリーの「散文は歩行であり、詩は舞踏である」。あるいは、レベッカ・ソルニット『ウォークス』など。

 『ストンス』評では、脈絡のない大量の身振りを暗記するために、それらを一定のまとまり(チャンク)にする数列的な処理が行われていただろうことを指摘しました。しかし、ここでは数列化の処理は単なる暗記術であることを超えて、身体と土地の関係を変容させています。各シークエンスに即して風景が同時にチャンク化され、分節されるわけですから、ふたたびお決まりの喩を用いれば、それは運動を通じた風景の散文化でもあったでしょう。
 さて、散文は紙面あるいはスクリーンに書かれることが通例です。『ストンス』評では踊りの数列化の意義についても言及しました。踊りを一定のまとまりとして操作しやすくすることで、身振りのシークエンスの並び替えや並置による構成を可能にしていること。そしてそのような複雑な情報処理の条件として、目の前の踊りがそれをコントロールする別の操作平面、別の時空間につながっている印象があることを指摘したわけですが、それは今回の『ストリート』についても言えるでしょう。
 ただし、ここでいう別の時空間をかいま見るような印象は、ここまで論じてきたような上演構造の認識から発する思考によって導き出されるだけではなく、あくまでも踊りの生み出すエフェクトとして現象するものです。そうでなければ、それは単なる作家の論理的な手続きとして了解されるだけです。なんらかの目に見えない法則によって目の前の身体が周囲から自律しているという印象を与えることが、観客の目に移る風景の中に別の時空間性を立ち上げるのです。

 ここにおいて『ストリート』の身振りの特異性が際立ちます。『ストリート』の身体の自律性は徹底的な接地によって与えられるのです。
 ストリートの前進運動が重心を安定させ、確かな足取りで遂行されていることは「ストリート③」のチャプターに記述した通りですが、ここでは場所を問わず何の苦も無く淡々ときびきびと着実に上演が遂行されているという、地に足の着いた印象が、それを可能にする環境から独立な、それでいて環境の変化に周到に目配りした複雑な、ある固有の法則の存在を喚起するのです。そして、こうして発現する身体の着実なしなやかさこそが、出演者と土地のその場限りの交感を可能にする条件でもあります。
 ところで、たとえばクラシックバレエの身振りは接地面積を少なくし、身体が周囲の環境から浮遊しているかのような視覚的印象をつくり出す身振りの宝庫ですが、これが女性の身体を客体化して注視し消費する男性の視線を安全圏に確保し続けてきたことはしばしば指摘されます[*3]。対して、『ストリート』の接地する素早い身体は注視することが困難で、視線はむしろこの身体を通じて、ある法や風景へと促されていきます。さらに、次節で述べる観客論的な性格が、鑑賞者のポジションを安全圏に留め置かないことは、言うまでもありません。
 ちなみに、残念ながらわたしは目撃できませんでしたが、コスモスクエア海浜緑地での上演は大雨に見舞われました。地面はすべりやすくなり、あるいはぬかるみ、出演者の身体を大きく制約したはずですが、この悪条件はかえって環境の変化をものともしない『ストリート』の身体の自律性を証拠立てたのではないでしょうか。
 シークエンスの継ぎ目に現れる静止時間には「サイクル④」で言及した自然体の身体があらわれ、その平然と直立したたたずまいが踊りの中に矛盾なく組み込まれてあることが、またも独特の時空間性を喚起していたことも、申し添えておきます。

[*3]同時期にKYOTO EXPERIMENTで上演されたフロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ』はまさにバレエのこうした側面を問題化するものでした。


10/6 中之島公園

・ストリート⑤ 観客を振り付ける

 さて、今回の「ストリート」でも、みちゆく歩行者は足を止めてそれに付き合いさえすれば、難なく踊りを観ることができました。ここで観客と歩行者を区別するのは以下の条件でした。歩行者と違って観客は①支払いが発生しており②踊りに対し上演の実施をあらかじめ知ったうえで③最初から最後まで付き合うのです。しかし、この③の条件が、キラリ☆ふじみ版より際立って観客と歩行者を区別していました。
 キラリ☆ふじみは劇場施設の外周部分や通路など、通り道を舞台にしたものではありましたが、全体としてはカスケードを囲む四角形の閉じた構造をしていました。その上、建物の内外はガラス壁で視線が届くようになっていたので、距離にこだわりさえしなければ、一つの場所に留まり続けてもおおよそは踊りを追うことができたのです。また、キラリ☆ふじみの歩行者は劇場に足を運んでいるわけですから、たとえば公演の待ち時間を持て余している場合などには、そこで行われる踊りを鑑賞し続けることは自然です。
 対して大阪版『ストリート』では、踊りは基本的に一方通行で、それを鑑賞し続けるためには出演者と一緒になって移動せざるを得ません。一方、歩行者は暇でないかぎり、そのパフォーマンスより自分の目的地を優先するでしょう。したがって、最初から出演者に連れ立って歩みをともにする観客と、通りすがりの歩行者の間には、明快な距離が生まれます。観客のパフォーマー的性格がより強まっているのです。

 こうして、大阪版『ストリート』の行列的な性格が露わになります。行列というのは、歩行者と観客との区別が明瞭になる分、出演者と観客の一体感はより強調されるからです。そして事実、今回の『ストリート』は観客に対する振付の側面を強めていました。
 たとえば、出演者たちは集合場所に集まった観客にきまって背を向けて前に進み始めます。このささやかな方向決定は、それだけで、これは観客に見せるためだけの踊りではないのだという姿勢を雄弁に表明します。そして、観客は観ることと追うことを同時に遂行する必要に駆られるのです。
 相手の顔が見える正面の位置からゆうゆうと踊りを観たければ、出演者たちよりも前の方にわざわざ進み出て、それもくりかえし距離を取りつづけざるを得ません。距離を取っておかなければ、出演者もそれなりの速度で進んでいくので、結局また後を追うような格好になります。このように、上演が進行していくのにつれて、観客はつど自分の身体をどこに運んでいくかを意識しながら踊りを観て、風景を経験することになります。
 さらに、スペースノットブランクが選んだ道にはいずれも分岐点があり、三人の出演者は途中でそれぞれ違う道を進んでゆくので、観客は誰を追うのかを選ばされます。さらに前進するペース感も一定ではなく、出演者を追う観客の足並みはペースの上下に即して乱されてゆきます。先述した走行のみのシークエンスは、出演者を追う観客の速度をばらつかせる振付だったともいえるでしょう。写真や動画の撮影が許容されていたのも個々の観客の振る舞いを意識化させる仕掛けになっていたかもしれません[*4]。
 いずれにせよ、このように出演者の前進する身体を取り巻くように振り付けられる観客の身体もが、今回の『ストリート』では強く焦点化されていたのは確かです。小松菜々子さんのレビューにも次のように書かれています。「あの時、観客の身体は作品の一部だったと言える。あの瞬間を目の当たりにした人は、きっと観客も含めてパフォーマーだと思ったに違いない。そのくらい観客の目線がパフォーマンスの強度に結びつく。「見る」身体も見られていたのだ」。

[*4]もっとも、わたしが参考のために終始映像を撮影した10/7の回は、演出の中澤さんから撮影の際は他の観客の方の姿が写らないよう配慮すべき旨が事前にアナウンスされたためか、映像に移らないようわたし以外のほとんどの観客がわたしの後方の位置をキープし、わたしの方でも他の観客を撮影しないよう配慮をしたため、出演者←わたし←ほかの観客、という固定的な進行順序が維持され、作品経験が硬直してしまった感が否めませんでした。これについては反省しています。

 ところで、『ストリート』が上演された2022年秋は歩行の季節でした。コロナ禍に強まった移動の統制が弱まって、ひさびさのお散歩日和が訪れたことを受けてなのか、歩行を題材にした企画が散見されたのです。
 スペースノットブランクが『再生数』を上演した例のKYOTO EXPERIMENTは「ニューてくてく」をキーワードに据え、プログラムにもいくつか歩行を題材にした作品を選んでいました。そしてその公式マガジンでは細馬宏通さん、山崎健太さん、外山紀久子さんが、歩くことについての文章をそれぞれ寄稿しています。
 また、セゾン文化財団が発行するviewpointの99号(2022年9月28日発行)でも「《歩行》とパフォーミングアーツ」という特集が組まれ、humunus、川崎陽子さん、越智雄磨さんがそれぞれ寄稿しています。
 このうち、越智さんの「歩行がもたらすイリュージョン――「観客」から「歩行者」へ」で、「歩行は、観客という芸術の観察者を芸術の実践者へと変換する可能性を秘めている」(p. 9)と書かれていることは、注目に値します。歩行は「自分自身も平生から行う行為であるが故に、それが舞台上の身体によって行われた時、舞台と客席という境界線を越えて、私自身の運動感覚に転写されているように感じられる」(同)という指摘もまた、『ストリート』にあてはまるのではないでしょうか。ダンサーの身体を目で追い身体で追う観客には、ダンサーの運動感覚がうつされているように思えるからです。
 さらに、次の文章は、『ストリート』が現在上演されることの意味を明らかにする点で注目に値するので、長く引用します。

観客の身体性の喚起と強化にその機能を特化していくならば、実行の場所を劇場や舞台の上に限定する必然性も無くなるのだろう。冒頭に挙げた歩行が見られる舞台芸術作品のうち、20世紀に発表されたものは観客が見ることを想定した、いわばイメージとしての歩行であるのに対し、近年のドゥ・ケースマイケルやRimini Protokoll、高山明のプロジェクトは観客が自分自身の身体をもって参加し、実際に歩行することを想定したものになっていることも偶然だとは思えない。舞台芸術における焦点が、作家の「自己表現(self-expression)」を観客が受容することから、観客ないし参加者自身の「自己変容(self-alteration)」の経験へとシフトしているようにも思われるのだ。むしろ現代の舞台芸術においては、観客の身体そのものに焦点を当て、その身体の配置や移動をデザインすることも試行されるべきなのだろう。(p. 10、強調は引用者による)

 さて、「観客の身体そのものに焦点を当て、その身体の配置や移動をデザインすること」を試行する「現代の舞台芸術」の一ケースとして『ストリート』のことを考えられるとして、その特異性についてもう少し考えてみましょう。
 外山さんの「上演芸術と歩行:「自然さ」のパラドックス」はスティーヴ・パクストン《サティスファイン・ラヴァ―》(1967)に注目しつつ、そこでの身体の「自然な」ありようについて論じたものです。いまさらですが、歩行はあまりにもありふれた動きなので、踊りとは考えないのがふつうです。《サティスファイン・ラヴァ―》は、このただの歩行を踊りとして呈示するもので、まともに歩ければプロの身体を要請しないので、踊りをそれなりに民主化しました。ですが、「素のまま、未加工の身体の「ありきたりの動き」をダンスとして提示する時、「見られている」というだけでたちまち自然さが失われる」(p. 73)という問題があります。こうして失われた自然さに代えて、「おのずから成る流れの中にある「気の身体」の優美、それを回復するための脱力身体」(p. 75)が要請されたのだというのが外山さんの論点です。
 ここから、『ストリート』のダンサーたちが時折見せる脱力は、劇場外の街中で観客に見つめられるという不自然な事態において、再度ある種の<自然体>を回復するための工夫だったのだと、再解釈することができるかもしれません。
 また、ここまでわたしは、『ストリート』においては観客の方も踊らされているということを述べてきたわけですが、「素のまま、未加工の身体の「ありきたりの動き」」に他ならない観客の歩行は、脱力のモメントを欠いていたにもかかわらず、それほど不自然に緊張を強いるものではありませんでした。観客は振り付けられるばかりでなく、周囲の視線の矛先になってもいたはずなのですが、それでも緊張感は希薄だったように思うのです。その理由としては、歩行と鑑賞という二つの様態を往還させる『ストリート』のしつらえのために、純粋な観客というポジションに留まり続ける人がいなかったこと、視線がダンサーの身体に誘導されていくので、注視されづらいことなど、さまざま考えられます。いずれにしても、パクストンが果たした踊りの民主化を、より直接的に観客の身体を振り付けながら、しかし自然なかたちで遂行したのは、『ストリート』の意義のひとつだったでしょう。

 歩行を通じた参加者の「自己変容」ということについても、最後に述べておきます。
 明確な目的を持たない『ストリート』の歩行は、それ自体として充足した行為です。それはどこか陶酔的な経験だとさえいえるかもしれません。しかし、どこへ連れてゆかれるかは不明瞭なままに、その都度自らのポジションを確定させては変更させる、不断の作業が観客には求められます。盲目ではいられないのです。これが、その歩行をある種の表現と見なせることの根拠でもあります。
 そして、そのように絶えず不確定な場所に繰り返し位置づけられるわたしは、<観るわたし>という安定的なポジションを確保することができず、踊りと風景と歩行者との相互的な関係のなかだちとして再定義され続けます。この、なかだちするわたしを経験し、それを自己変容のきっかけとすることこそが、単に踊りを民主化するにとどまらない、観客への振付の意義だったのではないでしょうか。そしてこの安定的なポジションの不在は、上演のいま・ここを疑い、別の時空間に意識を伸ばしていくきっかけをも、観客の身体に惹起していたでしょう


10/5 淀川河川公園西中島地区

記録写真 :小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
トップ画像:10/9 コスモスクエア海浜緑地


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?