悪夢 4/5 僕らは互いに憎しみ合うように出来ている。

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 僕らは互いに憎しみ合うように出来ている。
 望もうとも、望まざろうとも、生き延びようとする限りはそうしなければならない。身を守るためにしても、愉快のためにしても、正義のためにしても、自分のためにしても、どうにかしてそこに在ろうとする限り、熱した鉄のような熱狂を振りかざすことを止めることはできないし、そのようにして誰かが振りかざした焼きごてで付けられた火傷は、そいつらの流す血以外で冷ますことはできない。耐えがたい痛みから自らを庇うためには、血で贖わせる以外に方法がないのだ。身を守るためにしろ、愉快のためにしろ、正義のためにしろ、自分のためにしろ。
 最初からそれは分かっていた。思えば僕もまたそういう人間のうちの一人だったのだ。


 素晴らしいほどに汚れきった土曜の夜だった。雑踏、喧噪、人いきれ、排気、曇天、低気圧、通行人の頭を照らす白熱電灯、大通りの石畳にこびりついた吐瀉物、嬌声、嗚咽、罵詈雑言、混沌は長雨の後にマンホールから溢れ出した水のように膝丈まで通りに満ち満ちていた。

 今、僕は決断的な足取りで、半地下のディスコ・バーへ向かう階段を降りている。小さな少年を抱えて。洞穴のような薄暗い踊り場に靴音が響く。それでも彼は目覚めなかった。ずっと寝息を立てていた。

 重苦しいバーの扉の前で、女が壁に背中を預けて煙草を蒸かしている。
 派手と言うにはあまりにもくすんだ表情で、下品と言うには少し腰つきの硬派すぎる、革のジャケットを肩に羽織った女が吐いた紫煙が薄ら溶けて消えると、煙幕の向こうから現れた顔には見覚えがあった。それはあの病院で、僕に母を亡くしたばかりの少年を手渡した、あの看護師だった。しかし今の彼女には、あの職種の人間特有の誇り高い笑みはなく、目の回りに濃い隈を彫り込んだ殺風景な表情は水で擦ったカラー印刷のように滲んでいた。彼女は誰かの顔色を伺うかのような目つきで何もない天井付近の暗闇を見つめていたが、不意に諦めたようにそこから視線を外した。
 目が合った。

「……ああ、御免なさい」

 僕が会釈という行動を思い起こす前に、彼女は僕の後生大事に抱きかかえている少年を見て、煙草を壁に押しつけて消した。幾重にも貼り付けられ年代の地層のようになったバンドのポスターが焼け焦げた。

 背後からは"彼"が階段を降りてくる時計の針の刻むような音が背中を逆撫でいる。蛾を噛む音のする蛍光灯の下、僕は沈黙を持て余した。覚悟は決まっていたが、その時は少し揺らいだ。だから、口をついて出たのはそんな言葉だった。

「すみません、少し、この子を持っていて戴けませんか」

 非日常と日常に横たわる深い溝の間で貧乏ゆすりをしていた彼女が、何と答えるか、僕には見当が付かなかった。それどころか、自分がなぜそんなことを言い出したのかさえも分からなかった――時計の針が残酷な速さで回っていたせいかもしれない。あるいは、僕の生涯においてこれほどまでにはないという愚行の渦中に、僕の小さな少年を投げ出したくはないと思ったのかもしれない。それさえ後からであれば何とでも言える動機だ。事実はただ、そう言って、抱えていた少年を、今は何者でもない虚ろげな目の消え入りそうな影をした女に手渡したというだけだ。
 彼女の真っ赤な唇が開きかかる前に、僕はディスコへ続く扉を開き、その中へ滑り込んだ。

「本当はとうにお分かりだったでしょう」

 すぐ背後に立っていた"彼"はもはや影とは言えなかった。どんな光でももう"彼"を誤魔化すことはできない。

「何をだ?」

 歓声と呼ぶにはあまりにお粗末な野次が僕たちを出迎えた。ディスコフロアには人がごった返していたが、音楽は一時的に低迷していた。演奏者が入れ替わる一瞬の隙間に滑り込んだのだ。混雑していたが単なる雑踏ではない。ここにいるのは飢えた魚のように音楽が降り注ぐのを待っている人々だ。乾いた大地が雨を待つように、孔を埋めるための何かを探すように。

 僕は"彼"が言葉を続けるのを待ったが、"彼"はついに何も言わなかった。"彼"のここまでに満ち足りた表情を見るのは初めてだった。その目は真っ直ぐに僕を見つめている。
 もはや何も言う必要はないのだ。おそらく。

 僕はカウンターに向かって歩いていき、ウイスキーをストレートで注文するふりをしながら、海中を漂う草のように揺れ回る人々の背中から、嗅ぎ覚えのある匂い、見覚えのある肩、味わい覚えのある臭味、聞き覚えのある濁み声、触り覚えのあるぴりぴりした雰囲気を探した。ほどなくしてその一団が見つかった。年若い青年たちがそこに集まっていた。彼らは壁にもたれかかり、ある者は狂ったように笑い、ある者は死んだように黙り込み、ある者は肩を剥き出しにした女と唇を舐め合っていた。

 想像通りだったが、僕は死体になった。気が付いた瞬間には既に瓦礫の下敷きになっていた。消えるわけがない炎に犯された瓦礫、崩れ去った後に残った残骸たち、元からそこにあったはずのそれに押しつぶされ、僕は死んだ。幽霊になった僕は死体になった自分自身を見つめている。息絶えたその身体から流れ出してくる、耐えがたい油の臭いがする重油を見ている。永遠に黒煙を上げてくすぶり続ける瓦礫にひとたび触れれば即座に燃え上がり、僕を、彼らを、この最悪に息苦しい場所を、薄汚い排気の臭いが立ち込めるストリートを、神経をちくちくと刺激するあらゆる人々を、握っただけで手の皮が張り付くほど白熱している彼女が居たころの記憶を、舐めるように焼き尽くして後には何も残さないだろうと思える真っ黒な沼が広がっていくのを、ただ黙って見ていた。
 火を着ければそれで終わりだ。僕はおおかたの予想通り、殺人鬼になるだろう。

 照明が静かに息を潜め、青い光が回り出した。音楽が始まる。鈍痛を模したような波が、引き潮の後にやってくる巨大な大津波が、グルーヴを待っている。今このフロアに立つ全ての人々がそれに気が付いている。気が付いて立ち上がり、踊り出そうとしている。

 現実で握りしめた覚悟のグリップは悲しくなるほど冷たかった。僕は引き金に指をかけたまま、それを懐から引き抜いた。何の躊躇もなく。それはもう今まで充分にしてきた。これまで僕はずっと躊躇ってきたんだ。だから今、ここで迷うことは何もない。僕は何一つためらうことなく、引き金を引いた。


 "彼"に向かって。


5/5へ続く)

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