悪夢 5/5 おわり

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 光は影を虐げる。
 この場合、何を光と呼ぶのかは議論が必要になるはずだ。それは胡椒のきいた目玉焼きと焼きたてのトーストであることもあるし、文字通りのスポットライトであることもあるし、人間の形をしていることもあるだろう。重要なのは何が光と呼ばれているかではなく、彼らがどれほど残酷な存在かということだ。

 僕はまさに影だったのだ。ありとあらゆる光が僕を虐げ、もう二度と触れたくないと心の底から信じていた、それだけは誰に裏切られ何に謗られようとも絶対に揺るがないだろうというぐらいに本当に本当の真実として封じておきたかったものを掘り起し、その瓦礫の下に僕を埋葬した。

「だからお前はカーテンを閉めたんだ」

 生まれて初めて、僕はそれと真剣に向かい合っていた。
 あの時は誰かが覆い隠してくれた。あの時は彼女が追い払った。今、僕を守れるものは誰もいない。僕以外には。

 ディスコ・サウンドは驚くほど都合よく作用した。群衆は既に揺蕩うだけの海藻ではない、個々が自らの身体を支える足と、それに足る質量を持っていた。心臓のように鳴り響く。心拍数を模すように徐々に速くなっていく。鼓動が重なり、無数の輪郭がぶつかりあった。"彼"も例外ではなかった。誰も逃れることはできない。僕もまた不可抗力的にグルーヴの大争乱の中ではっきりと自らの輪郭を意識させられているように、"彼"は既に誰も触れることのできない存在ではなくなっていた。ここには全てがある。何もかもが存在せざるを得ない、そういう洪水だった。

 僕は嫌いだった。人と会うのも、触るのも嫌だった。煩いのも当然。自分自身を意識することは、その醜さを直視することだから。ここでは誰もそうなることに抗えない。それでも彼女は僕を連れ出して言った。踊りましょう、全部忘れて踊るのよ……どうしてだ? そんなことをして何の意味がある? 忘れたところで事実が消えてなくなるわけじゃない。必ず、ふとしたことで思い出すことになるだろう。その時また苦しむことになるならば、忘却なんかはただ痛みを先送りにするだけで、何の意味も成さないじゃないか?

「意味はあるのです。彼女もそう言ったでしょう?」

 だが彼女はもう居ない。あれが気休めでなかったと証明できる人間なんかもう誰もいないんだ。

 僕はさらに撃った。"彼"の身体は被弾と同時に衝撃で後ろに倒れ込もうとしたが、ありとあらゆる輪郭がそれを阻み、誰も僕がリロードするのを中断できなかった。音楽は止まらない。純粋に頂点へ向かって登り詰めていく。

"彼"の胴体には明確に弾痕が残された。"彼"は血を流していた。

「それ以上あなたの覚悟を無駄にしてはいけません。あなたが地獄の海ですら生暖かいと感じられる深海で寒さに震えていた時分、羽毛のようなローブを纏って踊り続けていた人間のことを忘れてしまうおつもりで?」

「忘れることなんてできないだろう。忘れても、きっと思い出すさ」

「では、その銃口を向けるべきは――」

「お前だ」

 僕は自分の喉から出てきた声の諭すような調子に驚いた。自分が冷静であることがまったく信じられなかった。

「初めから――いや、どこかの時点で、こうしなきゃならなかった……何もかもが悪夢だ。彼女がもうここにはいないことも、僕が今ここにいることも。だが、君が何者であろうとも、僕の憎しみを理解することはできない。僕の怒りは僕だけのものだ。誰にも渡さない。……僕らは憎しみ合うように出来ている。そうだろう。だから君はやってきた、彼らが彼女を奪って行ったのと同じように、僕から僕自身を奪い去っていくために。それでもいいと思ったよ、ずっと思っていたさ、ナイフで切り分けてステーキのように口に運んだらいい。でも、これだけは渡せない。これは僕が影として生きていくための覚悟であって、僕が小さな少年にとってある種の光でいられるかどうかの賭けにベットするための唯一の通貨だから。これは彼女が僕に遺した最後の弾丸だ。僕はどんな意味においても、生きていかなきゃならない……それがどれほど困難だとしても」

「そう、しかし、正しい意味で、私はあなたが苦しみ抜いて死んだのを知っていますとも。その瓦礫の下でどれほどまでにもがき苦しみ、熱地獄に焦がされていったのかも。破裂した心臓から何リットルの憎悪が流れ出していったのかも。あなたがそれに手を浸すときが必ず来るということも。あなたがいかに影を虐げようとも、光のようになることはできないと諦観していることも。それはおそらく、あなたにとっては事実なのでしょう。であるならば、ここでそのわずかな魔弾を使い尽くしてしまうことは、あなたを永遠に脱出できない独房へ取り残していくのと同義になるでしょう」

「それが何だ?」

 そう答えながら、僕は泣いていた。"彼"の言うことが事実だと、"彼"こそが正しいと知っていたから。"彼"ばかりが僕にとっては真実の光だった。拒絶と孤独だけが、生まれた瞬間から今に至るまで、ひたすらに僕を守り続けてきた。僕は"彼"を裏切り、罠にかけて殺そうとしている。愚かな選択だと分かっていた。それでも引き金を引かなければならない。僕は生きていかなければならないのだ。

「僕は愚かだが、間違えようとしているわけじゃない。膝を尽いて屈したわけでもない。僕は……」

 僕は自分自身と、僕の小さな少年を天秤にかけ、後者を選んだのだ。

「では、愛の勝利だ」

 それは違う。愛は勝利などしない。敗北することもない。愛は勝負ではないから。

 彼らは影から生まれ、重油のように黒い。無遠慮な光によって切り裂かれ、ばらばらになったもののうち、最も憎むべき光にとって輪郭となったものならば愛と呼べる。それはなにものと闘うことも、争うことも、呪うことも、怒ることもない。その代わり、僕らが闘い、争い、呪い、怒ることを必要としたとき、自らを救うために、誰かを護るために、何かを叫ぶためにそれを欲したとき、原動機の燃料にくべることができる。真っ黒な煤を吐き出しながら、あらゆる真実を捻じ曲げ、世界を踏み潰す力を与えてくれるのだろう。
 クソ喰らえだ。

 僕は最後の一発を"彼"の眉間にブチ込むべく、真正面から引き金を引いた。銀の弾丸は彼の頭蓋骨を完膚なきまでに打ち砕き、命を燃やして踊り狂っている人々に脳漿をぶちまけた。後には何も残らなかった。死体すらも。


 *


 茫然と立ち尽くしていると、急に肩を叩かれた。振り向くと先程カウンターで僕の注文を聞いたボーイが、盆を持って立っていた。

「外のお客様からです。あなたに、『あなたの小さな少年の生まれた日を祝して』、と」

 それは、飽きるほど見つめたように思っていた僕の小さな少年の瞳と、記憶の細胞に染み渡るほど溶け込んでいた彼女の瞳と同じ、スカイブルーに染まったカクテルだった。
 僕は自分の目が同じ色に染まってしまうかと思うほどまじまじと、その瞳と見つめ合った。

 そいつは言った。
 人生は夢のようなものだ。
 真に迫るべきではないし、真に受けてもいけない。

 僕は――僕は何も答えず、一息にカクテルを流し込むと、アルコールが喉を焼くのを感じながら、出口で待つ息子のもとへと向かった。
 振り返ることもなく。



 おわり

 

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