悪夢 1/5 それはまるで悪い夢のようだった。

これは「やってられっかこんな人生(もの)」に収録した作品です。
全部売れてしまったので公開します。


 それはまるで悪い夢のようだった。
 彼女は掃除機に吸い込まれていくごみのように車体の腹に呑みこまれ、消え去り、音も立てずにいなくなった。後には、彼女のブロンドの一房が地面に少しだけへばり付いていて、それ以外はまるで奇術師の手にかかったみたいに何もなかった。僕は茫然とそっちを見ていたので、スピンした自動車を降りた過剰積載の少年たちが酩酊した様子で橋のアベックに突っ込んでいくのも、そのうちの一人がブリッジから落下し、ポップスを歌いながら溺死したのも気が付かなかった。地面に染み付いたようなタイヤ痕の黒だけが僕に寄り添い、それ以外は僕を救急車に無理やり捻じ込んだ警察でさえ止まりそうな時間を踏みにじった悪徳だった。引き摺られていく風景、生温い風、サイレン、全てが僕ひとりを隔てて銀幕の向こうから出てこないもののようであり、まるで悪い夢のようだった。


 心の健やかさは、その全てとは言わないまでも、身体の健やかさと共生関係にあるものだ。僕がそう思うのは、僕が生涯を通して憎み続けてきた自分自身の矮小、憎悪、不意の激昂、卑屈、そういったものが、実は恨むべき心の脆弱さではなく、たんに幼少期に患って以来の喘息と、免疫の虚弱さにあると気付かされてしまった為だった。全ては彼女の献身が原因だ。当時の僕は彼女が何を狙って僕の発作を看取り、てきぱきと吸入器を取り出そうとするのか見当もつかなかったし、気色が悪いからやめてくれとさえ面と向かって言った。彼女があの時点で自分を曲げていたならば、僕は自分自身がそういう振る舞いによって自ら傷ついていることにさえ永遠に気付かなかったことだろう。ただあなたのためではなく、自分自身の思想と性根でもってあなたを助けるのだよと言った彼女が、僕の卑屈の根底にある信仰とねじ曲がった祈りに光を当てなければ、僕は自分の何がそれに値したのか、愛情というものが何だったのかを思い出すことさえできなかったかもしれない。
 ともかく彼女のよくしなる針金のような性根、鈍く銀に輝く意思は類稀なるものだった。奇跡とはこの出会いをこそ呼ぶのだと僕に信じ込ませてきた。指輪を送って以来九年、僕はおそらく一般的な夫よりも鈍く、しかし重たく、それも頻繁に、狂おしいほど彼女に恋をしていた日々のことを想い出していたはずだった。それが僕自身を永遠に苛む予定だったあらゆる悲哀から目を覚まさせるための珈琲の一杯の役割を果たしてきたはずだった。この美しい記憶がいつか、牙を剥くなどと誰が思い得るだろう。だがそれはいつか必ず、時には予期できぬ姿を纏って現れるのだ。それを忘れるな。
 彼女は頭皮を剥がれ、四肢をねじ折られ、半身をコンクリートと時速130kmオーバーの自動車の腹との摩擦に焼き焦がされて死んだ。保育器に入れられたまま暫くの息子を抱くことはなかった。


 ――そうして、その男が現れたのは、次の週の金曜日のことだった。


2/5へ続く

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