『落語の国からのぞいてみれば』

*いま読んでいる「落語の国からのぞいてみれば」という本が、これまたおもしろい!落語についてあれこれ語っているというより、あの時代の背景や文化について、落語に興味がある人たちに色々と教えてくれている本なのだけど、目次がもう面白いのだ。「なぜ数え年なのか」「左利きのサムライはいない」「ゼニとカネはどうちがう?」・・・などなど。目次がおもしろい本は、それだけでアタリだという個人的な感覚がある。

ちょっとだけ、ご紹介しておこう。本書にもある、「なぜ数え年なのか」という疑問。たしかに、今は誕生日によって、同じ学年の人でも歳が違う人はいるが、昔はちがった。数え年なので、年を明けるとみんな一斉に歳を取る。そして「0歳」がない。生まれた年で、1歳。極端に言えば、大晦日に生まれた子は、大晦日で1歳。次の日には年が明けるので、生まれて二日で2歳になる。今の感覚からいえば、まったく馴染みもなければ納得もできない仕組みである。ちなみに、今の満年齢の仕組みに変わったのは、戦後くらいからだったそう。

ではどうして、この「数え年」というシステムが採用されていたのか。著者の考えでは、「個人よりも社会が優先される時代」だったからだそうだ。満年齢の場合、個人の「誕生日」で年齢が変わるので、より個人に重きを置いた考え方である。しかし、数え年は「去年生まれたから2歳」と、その個人のことを深く知らなくても、すぐに分かるようになっている。つまり、社会に重きを置いた考え方なのである。そしてこの考えの根本は「死が近かった時代」というものに繋がっていく。詳しくここでは書けないが、ぼくは相当に納得してしまった。

何より面白いなと思ったのが、著者は本の中でしきりに「今の感覚でいうと、をしなくてもよい」と言うのだ。いわゆる銭金のことでも、「一両が今でいう何円」だとか、そういうのは要らない。そもそも、時代背景も感覚も違うのだから、数字だけ帳尻を合わせてもできないのだ、と。つまり、まったく別物として、ある意味では理解せず、楽しめばいいと。その感覚がイイなと思ったんだよなぁ。

なぜ数え年なのか、左利きのサムライはどうしていなかったのか、ゼニと金は何が違うのか、落語の国での価値観はいったいどんなものなのか。落語をより楽しみたいって方にぜひお勧めしたい1冊が、この「落語の国からのぞいてみれば」です。落語の国をのぞくのではなく、あっちからこっちをのぞくんだ。


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