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知識は携帯するものではなく、使うもの。

*いつだったろうか、ふらりと立ち寄った居酒屋の、今じゃ珍しい正方形に近いテレビを見ていた。箱の中の番組は、どうやらクイズ形式でマナーを教えているそうで、各年代の芸能人が揃い、うーんと頭を悩ませている。そのなかで、もう内容は忘れてしまったが、何かしらのマナーで「これはマナー違反か?」みたいな問題が出て、それに対して各年代の芸能人全員が「マナー違反じゃありません」と解答していた。ぼくも「どこがマナー違反なんだ」なんて思いながら、ビールを注いだグラスを傾けてたっけ。

実際のところ、それは「マナー違反」だったのだ。番組がどよめき、年増のマナー教師がエラそーに高説を垂れている。最初こそ「へー」と興味なさげに思ったものの、よくよく考えてみると、各年代の人々が誰一人知らない(そしてテレビの前のぼくも)マナーを、「マナー」だと呼べるのだろうか?

いや、もちろんマナーなんでしょうよ。でも、各年代の誰もが知らないのなら、それは形骸的なものでしかないじゃないか。80億人の人間がいて、たった五人しか知らないマナーは、マナーたり得るのか。ぼくはひねくれた頭でそんなことを考える。

その番組のおもしろいところは、反対もあった。こっちはバッチリ憶えている。「茶碗蒸しをスプーンでぐちゃぐちゃに混ぜて食べるのはマナー違反か?」という問題だ。お察しの通り、マナー違反ではないらしい。なんでも茶碗蒸しは「椀もの」になるので、ぐっちゃぐちゃにかき混ぜて食べても良いんですよ、とこれまた高説を垂れていた。

いやいや。形式的に、知識としては「マナー違反じゃない」のかもしれないが、実際に目の前で食事を共にしている人が、茶碗蒸しをぐちゃぐちゃにかき混ぜたら、どーよ。ほとんどの人が、「え…」と思っちゃうでしょうよ。そこで「マナー違反じゃないんだよ!」と知識を披露されても、それはなんのための知識なんだ?ってことになりそうだ。

知識をたくさん持っていることは悪いことじゃあない。知識がないことを偉ぶるわけにはいかない。しかし、その知識を盾にというか、知識で止まって思考を放棄してちゃあ、なんのための知識なんだい、ってことがたくさんあるよなぁ。規則とか常識とかマナーとか伝統とか綺麗事とか、そういうものは思考が止まりがちなものだ。疑ってかかれ、とは言わないが、やっぱり考えることをやめたくないよなぁ。考えた先の答えが同じであっても、自分で歩いた道のりは、おいらの道になるんだから。


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