がんばれよの受け取り先

*ああ、また落語の話を。方正さんの『蜆売り』がとんでもなく良かったんだよなぁ。あれから、ざこば師匠の蜆売りをずっと聴いている。ざこば師匠のは、もうほんっと根っからの上方でコテコテの関西弁。お年もあるでしょうし、ところどころ言葉に詰まるんだけど、その違和感がまったくない。むしろ巧さを感じさせなくって、やりとりが自然なんだよね。もう、ネタをやっているというよりは自分の身に染み付いているという感じ。

でねえ、蜆売りにはおっちょこちょいの番頭が、病気で伏せている親に代わって蜆を売りながらはたらいている子供を見送るシーンがあるのよ。蜆を入れた籠はもう空っぽになっているんだけど、いつものクセで持ち上げると「しじみ〜しじみ〜」と掛け声をする子供を見て、番頭が「がんばれよ──!!」と見えなくなるまで見送るんだよね。方正さんの『蜆売り』のそのシーンがたまらなくって、時間が止まったように思えた。「がんばれよー!」の一言が、ホールにも心の中にもこだました。あの番頭の応援は、子供の心にも届いたのだろうか。

・「がんばって」という言葉を受け取れるのは、「がんばっているから」なんだよな。がんばれていないときは、むしろ「自分なんかが」とチクチク胸に刺さったりする。でも、がんばっているときは同じ「自分なんか」でも、じわあっと暖かいお湯がやってきたような感覚になる。そうか、がんばってを受け取れるのは、がんばっている人の特権なんだな。「がんばって」に力をもらえるときは、自分ががんばっているときなんだな。そんなことを、落語から学ぶのであった。


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