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お祝い好きの才能


クリスマスやハロウィンみたいなイベントはさ、「キリスト教徒じゃないくせに!」とかいろいろ言われたりするけどさ。街は人でごった返して、それは大迷惑だったりするけどさ。一歩だけ後ろに引いて見たときに、人間の持つ「祝い好き」のような側面っておもしろいと思うんだよなぁ。なんでもかんでも理由を付けて、お祝いしたり集まったりしたりするでしょ、ボクら。

もちろん祝われるのがニガテという人はいるでしょう。かくいうぼくもニガテです。でも、祝うのは好きだったりするから不思議なんだよなー。もう少し分解して考えてみると、人がごった返したり、サプライズとかそーゆーのがめんどうなだけで、「お祝い」そのものは嫌いじゃないんだ。むしろ、好きだったりする。なにかにつけて「よろこぶ」ことは、うれしいことだと思っている。よろこばれたりすることが、うれしいこととおんなじように。

クリスマスもハロウィンも、お正月もそうでしょ。誕生日なんて言わずもがなだし、大きく捉えてしまえば葬式なんてのも、ある種の理由をつけた「お祝い」のようにも思える。お祭りだって元はといえば、その年の豊作や来年の豊穣をねがっての集まりだったりするじゃない。先によろこぶことで、来年もよろこべるようにという、一風変わった「祝い」の流儀のようなものとも解釈できるわけで。

そうだ、「よろこばしいこと」ってのは、本来は自分のみならず誰かにとっても「よろこばしいこと」なのだ。もちろんそこに嫉妬や羨望といった負の感情がついて回るのも、人間の愛おしいところではあるんだけれど、一旦そーゆーのを抜きにして考えたら、よろこばしいことだよね。友人が試験に受かった。誕生日を迎えた。今年は豊作だった、とかさ。

クリスマスやハロウィンなんてのは、本来日本にはまったく関係ないことでさ。さらに言えば、キリストさん家のイエスくんを知らない人からすれば、どーでもいいただの1日なわけでさ。そーゆーのに理由をつけて、みんなで喜んじゃえよってのは、めんどうだけれどおもしろいことのような気がしている。「土用の丑の日」なんてキャッチコピーは、僕は最大の発明だと思っているしね。あれを聞いただけで現代の人も「今日は鰻にすっか」なんて思っちゃうわけだから。

何かにつけてよろこびたがる人間の習性、ぼかぁきらいじゃないなぁ。めんどうなこともあるけれど、けっこう愛らしいと思うのよ。動物は、きっとそんなことなかろーからね。

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