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開運堂のウェストンビスケット

こんにちは!レトロスイーツです。明治、大正、そして昭和と、時を超えて人びとに幸福なひとときを届けてきた素朴でなつかしい洋菓子天国へみなさんを誘います。

さて、今回ご紹介するのは開運堂の「ウェストンビスケット」です。とはいえ、レトロスイーツと謳っておきながらいきなり「平成生まれ」のお菓子を紹介するのは反則かもしれません。というのも、このウェストンビスケットが誕生してからまだ5年足らずなのですから。

けれども、ウェストンビスケット誕生にまつわるこんなエピソードを知ったなら、あえてここで紹介したかった理由もきっとわかっていただけるはず。そんな淡い期待を抱きつつ、まずは発売元である御菓子司 開運堂についてから始めることにしましょう。

長野県松本市に店を構える開運堂は、明治17(1884)年、それまでの呉服商から菓子業に転じ「御菓子司開運堂」の屋号を名乗るようになります。商売替えの理由は定かではありませんが、仮にライフスタイルの西欧化をいち早く感じ取ってのものだとすれば当時の主人には先見の明があったということになるでしょう。

くわえて、公式サイトの次のような説明からは、松本の人びとの暮らしとお菓子との切っても切れない関係を窺い知ることができます。ここに挙げられた「松本菓子」ということばに、開運堂が大切にしているお菓子づくりのモットーが集約されているように感じるのですが、さて、いかがでしょう。

乾燥する大陸的な気候の信州・松本は、何かにつけ茶菓を口にする習慣があり、永年厳しい批判の元、必然的に安くて美味しい菓子創りに努め、全国に知られた松本菓子を創り上げてきました。

開運堂公式ウェブサイト

そこで、いよいよ「ウェストンビスケット」の登場です。外箱に印刷された説明書きによれば、この「ウェストンビスケット」が誕生したのは2017年のこと。英国人の宣教師にして、「登山」の愉しみを日本に広めたウォルター・ウェストン(1861~1940)にあやかって発売されました。

3回にわたる長期滞在をとおして日本全国の名だたる山々を歩いたウェストンでしたが、なかでもとりわけ魅了されたのが長野県を縦走する「日本アルプス」の峰々でした。その魅力を広く伝えようと、母国で『日本アルプスの登山と探検』なる本を書いてしまったほど。

そうした縁もあり、松本市に位置する上高地では毎年6月の最初の日曜日、彼の功績を讃え「ウェストン祭」が開催されているそうです。もしウェストンがいなかったら、ハイキングや登山が趣味として語られるようになるまでもっと多くの時間を要したことでしょう。

ウェストンさんの功績を広く知ってほしいと、氏の胸像を刻印したサクサク素朴なウェストンビスケットを創作、山の日制定後初めての2017年6月4日ウェストン祭当日から発売しました

外箱に印刷された説明文より

ウェストンのではなく、ウェストン「さん」のというあたり、松本の人びとの「ウェストンさん」に対する敬慕の念が伝わってきて思わず頬が緩みます。じっさい、松本には、ある時期までなんらかのかたちでウェストンと接した人も少なからずいたのかもしれませんね。

さて、袋から取り出したウェストンビスケットは、写真のように縦長の楕円形をしています。縦の長さは9センチほど。表面には、眼鏡をかけ温和な表情を浮かべるウェストンそのひとのポートレイトが刻まれています。レリーフのような、あるいは鏡に映った姿のような、そんなイメージです。

粉とバターの香りが際立つシンプルなビスケットは、サクッというより歯をあてるとポキッと音を立てて割れる感じがどこかなつかしく、まさにレトロな焼き菓子らしい楽しさがあります。まさにそれは、ウェストンさんの故郷イギリスのアフタヌーンティーで供されるようなビスケットといえます。紅茶やコーヒーはもちろん、熱い緑茶にもよく似合う日常のおやつ。これぞまさに「松本菓子」の神髄といえるのではないでしょうか。

さらに、外箱にあしらわれたノスタルジックなイラストが、この平成生まれのウェストンビスケットにレトロな雰囲気をあたえています。学帽を被り、ピッケルを手にした旧制高校の学生が、はるか遠く日本アルプスの峰々を見渡すこのイラストの作者は、大正11(1922)年生まれで旧制松本高等学校出身の柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)

民藝運動の担い手としていまなお旺盛な創作活動をつづける柚木が、旧制松本学校に入学したのはくしくもウェストンが亡くなった1940年のこと。このイラストが、仮に自身の学生時代を回顧したものであるとしたら、すでにこの頃には学生たちの間で娯楽としての山登りがすっかり定着していたということになりますね。

ところで、日本におけるビスケットの歴史を辿ると、多くの人たちが想像するよりずっと長いものであることがわかります。文献によれば、早くも16世紀後半にはかすていら(カステラ)やコンペイト(金平糖)と並んでビスカウト(ビスケット)の名が南蛮由来のたべものとして登場します。そればかりか、慶長から元和にかけては日本で製造したビスケットを呂宋(ルソン)、現在のフィリピン島に輸出までしていたというから驚きです。

その一方で、国内で本格的なビスケットが普及するには明治時代まで待たねばなりませんでした。一説によると、独特の「バタ臭さ」が日本人の舌に合わなかったのではと云われています。たしかに、肉も乳製品もほぼ口にしなかった当時の日本人にとって、バターの風味を「いい匂い」と感じるにはまだまだハードルが高かったのでしょう。

ようやくビスケットの製造が本格化するのは明治8(1875)年。両国若松町(現在の東日本橋)に店を構えていた米津凮月堂の主人・米津松造とされています。松造がビスケットの製造に乗り出した背景には、じつはこんなちょっとイイ話があったそうです。

頂き物のビスケットを、そのバタ臭さから手をつけず仏壇に上げてそのままにしていた松造。ところが、彼の幼い子どもたちが気づけばそれをぺろりとたいらげてしまった。それを見た松造は「大人がなじめぬものでも、何の先入観もない子供たちはおいしいという。その上、滋養にあふれ身体にいいとなればなおさらのことと、思い直してビスケットを追求する気になった」(吉田菊次郎『西洋菓子 日本のあゆみ』朝文社)とのこと。

その後、明治10(1877)年には、松造はこのビスケットを「乾煎餅」と称して第1回内国勧業博覧会に出品、見事「鳳紋賞」を受賞します。いや、たいがいの煎餅は乾燥しているのでは? と思わなくもないですが、ポキッと音を立てて割れるウェストンビスケットには、たしかに明治の人びとが目を白黒させながら口にした「ハイカラな煎餅」の面影が感じられなくもありません。

平成生まれのウェストンビスケットを、ここにレトロスイーツとして取り上げる理由はじつはそんなところにあるのです。

◎DATA
店舗名/御菓子司 開運堂(長野県松本市)
創業年/明治17(1884)年
商品名/ウェストンビスケット
発売年/2017年6月4日
価 格/一枚90円(税抜き)
WEB/
https://www.kaiundo.co.jp
※2022年2月現在

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