見出し画像

大正時代のアイヌの生活はどんなものだったのか!?【衝撃の伝統儀式】

こんにちは。
近現代の歴史について解説している女学生VTuberの春日陽です。
日本の民族で有名なのは、沖縄の琉球民族と北海道のアイヌ民族なのではないでしょうか。
これらの民族は、伝統的な方言や言語を使って会話をしたり独自の生活スタイルを確立したりしています。
一方で、かつて日本人に居場所を奪われるなどして日本人と同化した民族も多く存在しているのです。
ということで今回は、そんな民族のひとつであるアイヌ民族が大正時代にどんな生活をしていたのかを解説していきます。

https://youtu.be/G6azSDpkhOc


アイヌとは

まずはアイヌ民族について紹介します。
アイヌ民族は、日本列島北部に古くから暮らしている先住民族です。
北海道の先住民族として有名ですが、樺太や千島列島、カムチャツカ半島などにも分布しています。

アイヌの一家 (1904年) 

アイヌ民族は日本語と異なる「アイヌ語」を話し、独自の文化を持っているのが特徴です。
彼らは主に狩猟や海産物の採取などを行って生活をしており、周辺の民族との交易なども行っていたといいます。
毛皮や魚の皮、樹皮、植物を用いて衣服を作るなど、自然に密着した生活スタイルで知られています。

また、アイヌ民族は戦闘に強い民族としても有名です。
彼らは弓矢や槍、またエムシと呼ばれるアイヌ刀を用いて戦います。
元々武力を用いた戦いが行われることはあまりありませんでしたが、氏族同士の争いではこれらの武器が用いられることもあったようです。
ヒグマやシカなど大型動物の狩猟も行うことから、必然的に戦いに強くなったのかもしれませんね。

1904年に撮影されたアイヌ。左端の男性が刀をエムㇱ・アッで提げている。

古代に本州では農耕が始まりましたが、寒さが厳しい北海道の地では農耕が難しかったため、狩猟や採取が盛んになったと言われています。

また、アイヌは「コタン」と呼ばれる集落を作って生活しており、それぞれの村落に村長が存在していました。
アイヌ同士のもめごとは議論で解決し、仮にコタンで犯罪が起こった場合は村長が刑罰を決めていたそうです。

そんなアイヌ民族の特徴として有名なのが「アイヌ文化」と呼ばれる独自の文化です。
アイヌ文様と呼ばれるアイヌ独自の文様や、ユーカラと呼ばれる口承文芸などが北海道遺産となっていることは有名ですね。

またアイヌには独特の信仰が存在します。
アイヌ民族は動植物、火、水、風、山や湖、家や生活道具などの全てに魂が宿るという独自の考えを持っており、その魂のことを「カムイ」と呼んでいました。
カムイはこれらの人間の周りに存在するもののうち、人間の生活に影響が強いものに宿るとされています。

このように古来から独自の社会を築いてきたアイヌですが、実はかつて不当な支配を受けてきた歴史が存在することはご存じでしょうか。

アイヌと日本人の歴史

次は、アイヌと日本人の歴史について紹介します。
アイヌは古くから、周辺国である日本やロシアと関係を持っていました。
日本では古くからアイヌを「蝦夷」と呼び、幕末からは「地元の人」という意味合いを持つ「土人」と呼んでいたそうです。
アイヌと和人(=日本人)は交易をしており、アイヌは鳥類の羽根やアザラシ・クマ・シカなどの毛皮、サケ、昆布などを和人に渡していました。
一方の和人は米や酒、漆塗りの器やガラス玉、鏡、木綿の布などをアイヌと交換していたそうです。
お互いの居住地で手に入れることができないものを交換していたということですね!
特に蝦夷地ではあまり稲作ができなかったため、米は貴重だったと思われます。
また、和人もサケや昆布などを加工して本土で高く売っていたといいます。
交易によって手に入るものは、お互いにとって珍しく貴重なものだったのです。

一見良好な関係を築いているように見えるアイヌと和人ですが、実はそうではありません。
和人は次第に、アイヌを支配しようとするようになります。
時は江戸時代、アイヌ文化を和人に同化させる同化政策が始まりました。
その時に、武家の松前氏が徳川家康から黒印状を受けてアイヌの支配権を得たのです。

徳川家康黒印状

つまり、松前氏がアイヌとの交易を独占することになったということですね。
提示された交易条件は不公平で、アイヌにとって不利なものばかりだったといいます。
これまで和人と自由に交易できていたのに制限され、さらに不当な価格での交易を強いられたというのですから、当時のアイヌはかなり不満に思ったことでしょう。

そして、アイヌに本土と同じように村単位で年貢を納めさせる「村請制度」も導入されました。
この制度によってアイヌの有力者は村役人とされ、他のアイヌは百姓の身分となったのです。
本来年貢は米を納めるものですが、農地に乏しい寒冷地である北海道では米がとれなかったため、松前藩はアイヌの交易を独占することができたのです。
不公平な交易を強制的に行わされていたアイヌは、松前藩への不満を募らせていきました。

また、当時のアイヌは氏族間での戦いが絶えませんでした。
そんな中で、ある氏族が首長シャクシャイン率いる氏族と反発しており、その戦いに勝つために松前藩に武器を借りようとしたことがありました。
結果、交渉は失敗。

さらに交渉へ赴いた使者がその帰りに亡くなるという出来事が起こってしまいます。
アイヌはこの出来事を「松前藩が使者を毒殺した」と勘違いし、アイヌ軍を結成しました。
首長シャクシャインが指導者となったことから、この戦いは「シャクシャインの戦い」と呼ばれています。
しかしこの戦いにアイヌは敗れ、松前藩に絶対の忠誠を誓わされる結果となってしまいました。
こうして江戸時代から、アイヌは和人からの支配を強められてしまったのです。

蜂起の指導者シャクシャイン像

そして明治時代には、明治新政府によって蝦夷地の開拓が行われました。
これは、当時の明治新政府が掲げていた富国強兵のスローガンによるものです。
開拓によって、蝦夷地とされていた場所は「北海道」と改められ、日本国家の領土として扱われることになりました。
つまりアイヌ民族は、国家に直接支配されることとなったのです。
政府からの支配を受けたアイヌは、日本人と強制的に同化させられるようになりました。

さらに明治32年には「北海道旧土人保護法」が制定されました。
この法律は法律の名前からするとアイヌにとって良いものに思えますが、実はアイヌを苦しめるものでした。
まず、自然保護によって鮭やシカを獲ることが禁止になりました。
狩猟や漁労を制限する代わりに、政府は農業を推奨したのです。
アイヌは昔から雑穀を中心に農業を行ってきた民族としても知られていますが、主な生活の糧だった狩猟や漁労を制限されるのはとても辛いことですよね。
そのため、生活に困ったアイヌの人々も多く存在しました。

また、政府の取り組みによってアイヌの学校教育に和風の教育が導入されました。
政府によって学校教育で日本語学習が取り入れられるなどしたため、この時期からアイヌ語の話者が減り始めたとも言われています。

また、近代化を目指す当時の日本人からしてアイヌ民族の文化は野蛮であると認識され、アイヌ民族は蔑視されることもあったようです。
アイヌの間で伝統的に行われていた文化の中には、悪い慣習とされて禁止された文化も存在したといいます。

↓後半に続く


※この続きや日々更新される記事の全文は、個別購入以外にnoteにて月額880円の『春日陽のYouTubeでは言えない話』への加入でも読むことができます。
★note版『春日陽のYouTubeでは言えない話』

ここから先は

4,388字 / 7画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?