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「年度」という社会人特有の謎システム


定年間際…でも有休消化できない業界

 3月下旬某日、旅行の帰りに空港でバスを待っていた際に、別の乗り場に停まっていたバスの乗務員と乗客が会話をしていた。

 最初は行き先案内程度に思っていたが、運転手さんから「私、今日で最後なんですよ」と言っているのを聞いて、乗り物こそ違うものの、元運転従事者として、心の中で「定年までお疲れ様でした」と思いながら、そのバスを横目に、目的地までのバスに乗り込んだ。

 バス車内で、「定年退職なのに、3月下旬が最終日ということは、そもそも消化するだけの年次有給休暇がなかったか、人手が足りなすぎて取れるような状況ではなく、退職時に精算する形になってしまったか…まぁ後者だろうな。」と考えを巡らせていた。

 大学全入時代、新卒は猫も杓子もホワイトカラーを望むようになり、エッセンシャルワーカーを中心とした現業職は、就職情報サイトで底辺の仕事と揶揄される体たらく。

 そうして、誰かがやらなければ社会が成り立たないような仕事を、誰もやりたがらなくなった結果、現場を支える労働者が圧倒的に不足する事態となり、その報いがバスや鉄道の減便や廃止の形で表面化しているのが現状である。

 元業界人からすれば、残業ありきの勤務シフトで、年次有給休暇が思うように取得できない状況が常態化しており、それも限界を迎えてようやく減便に踏み切り始めた現状は、労働者軽視にも程があり、人員不足に拍車をかける一方だろう。

劣悪な環境だと、近視眼的になる

 というのも、私が高卒で社会に出たばかりの頃は、まだ年度末に年次有給休暇の繰越不能な前年分を消化する、若手残業地獄イベントが残っていたが、年々休暇が取りづらくなり、優秀な若手から見切りをつけて辞めていく、負のループだったため、私が倒れて現場を離れる最後の方は、年次有給休暇を捨てて貰う形で、ベテラン勢が泣きを見る光景に変化していた印象がある。

 勘の良い人は、いざという時のために年次有給休暇を温存したところで、未来になればなるほど要因不足が悪化して、取りづらくなる未来が目に見えているのだから、今この瞬間が最も取りやすく、使えるうちに使えるだけ使うのが最も合理的となり、温存する概念がなくなる。

 子どもの将来を左右するのは、自制心ではなく家庭環境と再実験で覆されることとなった「マシュマロ実験」でも、似たような状況を彷彿とさせる。

 家庭環境が良ければ、我慢して2つのマシュマロを貰うのが合理的だが、家庭環境が悪いと、我慢したところで約束のマシュマロが反故にされるどころか、後出しで1つ目を取り上げられる可能性すら考えられるため、今、目の前にある1つを確実に食べるのが、取りっぱぐれがなく合理的となる。

 「家庭」→「労働」、「マシュマロ」→「年次有給休暇」と読み替えれば、面白いくらい同じ構図だろう。何事も劣悪な環境に居ると近視眼的になるのは、不変の真理なのかもしれない。

暦年で区切る方が良いのでは?

 さて、そんなことを考えながら3月末を過ごした私だが、底辺の仕事ランキング(例外)に挙げられた株トレーダーに転身した今となっては、そもそも「新年度」という概念がない。

 独立しているのだから、当たり前ではあるが、別に4月から新しい社員が来るわけでもなければ、定期昇給がある訳でもない。淡々と同じ日々を繰り返すだけだ。

 強いて1年を意識するのであれば年初来リターンだろうが、区切るとしても暦年であり、わざわざ一般社会の4月〜3月で一巡するサイクルにする必要性を感じない。

 4月始まりは明治時代の名残で、秋に収穫した米を換金して、納税するタイムラグを勘案すると、会計年度が12月末で終わるのはシビアだったため、余裕を持って3月末に設定された説が有力である。

 しかし、文明が発達した今となっては暦年が1月スタート、会計年度は4月スタートとわざわざ分けたままでは、却ってオペレーションコストが上がるだけのような気がしてならない。

 というのも、早生まれあるあるだが、年号早見表が1年ズレていてアテにならなかったり(ワクチン接種会場で年齢が早見表と違うと止められ説明を求められたり…)、社会に出てから同じ学年でも同い年ではないことから下に見られたり、同い年でも学年が違い距離を感じたり、暦年と年度のギャップによって、高校で自動車免許を取ろうにも、18歳まで仮免許が取れない、成人の日(引き下げ前の20歳)に成人していないため、酒が飲めず蚊帳の外感を味わう弊害があった。

 大人になると同世代よりも1歳若い期間が長いため、羨ましがられるが、
学校教育が年度で区切るシステム上、たまたま早生まれであったが故に、幼少期にハンディキャップを背負い、初期段階で成功経験が積めずにつまづくと、その後の学習意欲などに影響を与え、学力差や最終学歴の差に帰着してしまっている現実を、一橋大学の教授が「誕生日と学業成績・最終学歴」で指摘している。

 先述のあるあるを含めて、成人するまで不遇な扱いを受け続ける運命を背負って来た当事者からすれば、そのハンデを背負ってまで、20歳以降に若く見られたい覚悟が、果たして遅生まれにあるのか?と内心思う。

 「年度」ではなく「暦年」で区切っていれば、私は一つ下の学年の4月〜12月生まれと比較されるため、ハンディキャップを背負って苦しむ必要などなかったと思うと、余計に「年度」という社会人特有の謎システムは不要だと考えてしまう。

 無論、線引きの問題で今度は10〜12月生まれが、ハンディキャップを背負うことになるため、米国社会のように、就業年度を任意で1年遅らせることができる社会が理想だろう。そうなってくると、3ヶ月のズレが生じる年度区切りは、ますますややこしくなるため、やはり暦年に統一するのが合理的ではないだろうか。現にドイツは暦年=年度である。

 いずれにしても、現行の年度区切りシステムが変えられない以上、不遇な扱いを受けた当事者として、その社会システムに抗った生き方を選ぶのは、必然だったのかも知れない。


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