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苦労信仰が蔓延る社会。

その苦労、意味ある?

 分からないことを聞いて許されるのは新人の時だけだから、気にせずバンバン聞いてね。社会に出て初めの頃に言われた言葉ランキングがあれば間違いなく上位に君臨するワードだろう。

 そもそも論、分からないことが分からない。全体像が把握できていないのだから、どう質問すれば自分が欲しい答えを引き出せるのか。ネットで言うところの検索ワードが分からない状態である。

 だから、AND、OR、−、””…などの方法論を教えられたところで、検索ワードが分からない以上、説明を聞いたところで使い所が分かる訳もなく、新人ではなくなった頃に聞いて、昔説明したと詰められるまでがセットである。

 年の近い先輩に聞いても「みんな通った道だから今は耐えるしかない」の一点張り。新人がつまずくポイントなんて大体同じなのだから、外部の人間が読みながら実行できるレベルまで噛み砕いた現場の手順書を作成して、毎年それを使い回せば、みんな通った道という名の苦労をせずに済む。

 その方がどう考えても合理的であるが、誰もやろうとは思っていない。根底には自分が散々苦労したのだから、次の世代も苦労すべきであると言う日本人の苦労信仰が根強いのだろう。

 典型だったのが、動力車操縦者と言う鉄道車両の運転免許を取得する際に、学科→技能試験の順でパスするのは自動車免許と同様だが、自動車と異なるのは、技能講習中に管理職から口頭で、業務に必要な知識を有しているかを質問される事業者が多いことである。

 鉄道運転ゲームと異なり、担当線区の線形や勾配、曲線半径や制限速度などを運転中に画面で教えて貰えない性質上、必要な情報を覚えているかの確認は致し方ないが、質問の難易度が人によって極端に変わるのは解せなかった。

 要点が抑えられていればそれ以上要求しない人も居れば、条文を丸暗記しているか試す下劣な輩も居た。学校教育と同じで丸暗記することに、合理的なメリットはない。

 苦労信仰の囚われに他ならず、憐れみを通り越して心の底から軽蔑しながら全文答えた後に「これに何の意味があるのか?」と詰め寄り、翌年から基準が設けられた。

後世に同じ苦労をさせないのが優しさ。

 私は後から来た人に同じ苦労をさせたら負けだと思っているから、刺し違えてでも合理性のない苦労は取り払えるよう尽力する傾向にある。その方が長期目線でメリットが大きいと考えているからで、あくまでも投資家的な思考で感情論抜きに行動しているに過ぎないが、マジョリティには理解されない。

 それ故に、分からないことが分からない新人時代に、自分が要点整理をするために、現場運用に特化した自分専用手順書を作成する癖がある。

 その時はそれで終わるのだが、後々右も左も分からない人が来た時に、非公式マニュアルとして内密に渡すことで、未経験者と経験者のギャップを把握できるため、新しい発見が得られるため学びがある。

 組織を変えようとすると、労力の割に合わないことが多いため、あくまでも自己満足的な用途でしか活用していないが、私が部外者となって忘れた頃に、ものすごく重宝したと連絡が来たのは冥利に尽きる。

 自分たちが苦労したのだから、同じ苦労をして然るべきと、苦労信仰に囚われて何もしない人が、恨まれることはあっても、感謝されることはない。自分が苦労しないと、誰かが代わりにやって貰うことに対しての、有り難みが分からないのではないかと言う意見は多いかも知れない。

 確かに自分で経験したことがなく、扱えもしないものを他人に任せるのは良くない。しかし、経験して概況が分かっていれば良い訳であり、非合理的な苦労を伴う必要性はなく、感情論で片付けてはいけない。

比較することの不毛さ。時代が違う。

 大学はその典型例なのかも知れない。前時代的な根性論を押し付けてくるおっさんの昔話を要約すると、親から金など貰わず、自分のバイト代で学費を払って生活費も娯楽費も工面していた。親の金や貸与型奨学金で学費を賄っているのに、ろくにバイトもせず若者の〇〇離れとはけしからん。

 そんなおっさん達が、人口分布でマジョリティな日本社会は何とも言い難い世紀末感が漂っている。学費ひとつ取っても、比較的安価な部類である国立大学の授業料ですら、2023年時点で53.6万円。1986年以前は25.2万円と半額以下で、1975年なら3.6万円。物価の差を現在価値に反映させても10万円に満たない。

 そんな前時代的なおっさんの学費感覚で行ける大学など、放送大学などの通信制か国立の夜間など、歴とした大卒なのに、学歴として認めたくないが故の、いわゆる「学歴にならない」と言われがちな不名誉な大学以外の選択肢は、給付型奨学金を受け取れるだけの学力を有していなければ無いに等しい。

 お金がなくとも苦学の末に国公立大学、給付型奨学金なんて美談は持て囃される。しかし実態は富裕層ほど、子供の教育にお金を掛けられるが故に、よく勉強し、成績も良く、結果として学費の安い国公立大学に進学できる。

 反対に子供の教育資金に余裕のない家庭ほど、学習環境が十分に整っておらず受験競争に敗れ、学費の高い私立大学しか選択肢がない傾向にある。

 東大の子は東大で、貧困は連鎖する。根性論でどうにかなるほどの生優しさなどない、自己責任論が蔓延る残酷な社会であることは、東大生を持つ家庭の過半数の世帯年収が950万円超であることからも伺える。これは感情論ではなく、統計データに基づく事実で、受け入れる他ない。

 一言で言うなら「時代が違う」。若い人であればあるほど、これを良く理解しており、説教を垂らすおっさんは時代に取り残されている。

 偶然、人口ピラミッドのマジョリティに位置し、偶然、日本経済が右肩上がりの時代に、例え高卒でも有名企業のサラリーマンになれただけの、おっさん達の方が遥かに甘く生きている癖に。と内心思いながら、時代錯誤な説教を聞き流されていると思うと実に滑稽である。

 せめて自分ひとり位は、時代の変化に取り残された、残念なおっさんにならないために、私よりも後に生まれた、更に負担の重い世代の置かれている状況や価値観を理解し、私たちの世代でどれだけ後世の苦労信仰を取り除けるかが重要である。

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