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労働は美徳か罰か。

何のために働くのか。

 そのように問われれば、多くの人が生活のためと答えることだろう。生活のために仕方なく働いているのでは仕事の報酬=我慢料という認識が生じやすく、せっかく稼いだ小銭の大半をストレスの発散という名目で散財に走り、結果として浪費してしまう。これでは蓄財が進むはずがない。

 だからと言って、仕事を自己実現の手段と捉えるのも個人的には違うと感じる。仕事を自己実現の手段と混同することは、やりがい搾取に陥る可能性があるからである。

 私が勤めている鉄道業界は、運転士を志すやる気のある若い人材が集まりやすい環境であるが故、ニンジンをぶら下げて、時給単価が最低賃金スレスレの待遇で募集しても集まってしまったり、正社員に登用する気もないのに、契約社員として採用して3年で切り捨てるような、所謂やりがい搾取が発生しやすいのである。

 これは鉄道業界に限った話ではなく、美容師やアニメーターなどでも同じような傾向が見られる。若くして花形職種に勤められる職種は人気であるがゆえに、代わりがいくらでも居る状態で、人材の使い潰しが社会的に許されるか否かは別にしても、できるできないで言えば出来てしまう環境であることが労働者の立場の弱さにつながっている側面が否めない。だからこそ、私みたく反骨心の塊みたいな人間は組合に重宝されている。

 余談ではあるが、同じキリスト教でも、プロテスタントは労働を美徳としている反面、カトリックは労働を罪を償うための罰と正反対のスタンスである。日本人の国民性はドイツ人と似ているから、プロテスタント寄りの考え方で、労働を美徳化している人は多いように思える。

 しかし、私は労働は貧乏人に課された罰ゲームであり、税金や社会保障という名の罰金を追加で払わされている理不尽と不条理の塊だと捉えている。社会不適合者が大規模な日系企業に勤めていれば、ソリが合わないのは当然なのである。

沈没船ジョーク。

 これは、沈没船の船長が乗り合わせた、それぞれの民族を海に飛び込ませるために誘導する言葉の違いを表している。国民性を表すエスニックジョークの一種で、社会的なタブーに抵触するブラックジョークに当たるので、性格の悪い私の大好物でもある。

アメリカ人に 「飛び込めばあなたはヒーローになれます。」
イギリス人に 「飛び込めばあなたはジェントルマン(紳士)になれます。」
ドイツ人に 「飛び込むのはルールです。」
イタリア人に 「先程物凄い美人が飛び込みました。」
フランス人に 「飛び込まないでください。」
ロシア人に 「海にウォッカのビンが流れています。」
日本人に 「皆さん飛び込んでます。」

 日本人以外の説明であまり抵抗なく従えそうなのは、ドイツ人に対しての「ルールです」ではないだろうか。私も駅員時代に「規則ですから」で対応を終えた経験があることから、決められた物事が絶対であるという固定観念は根強いと感じる。

 だからこそ義務教育で理不尽なローカルルールに違和感を感じても従ってしまう弊害があるように感じる。第二次世界大戦で同盟を結んだ国柄だけあって、日本とドイツは似ているのである。

 個人的には偏見でしかないが、イタリア人の陽気さや適度に手を抜く風習を見習った方が、KAROSHIなんて不名誉な世界で通用する日本語が広まらなくて済むのではないかと思う。

未だに8時間労働な理由。

 イギリスでは産業革命によって工業化が進んだ当時、囲い込みによって農民が都市部で労働者として酷使されなければならなかった歴史がある。その時は今より激務で、一日14〜18時間労働だったとも言われている。

 現代はそれよりも文明が発達したおかげで1947年から8時間労働が始まり、1993年には週休二日制となり、週48時間労働から週40時間労働まで削減されたが、その時から30年近く経過している現在も、週40時間労働のままである。

 IT技術が1993年の時とはまるで違い、良い方向に発達しているにも関わらず、一切の労働時間が削減されていないどころか、一人当たりの業務量は数倍に膨れ上がっているのである。変な話ではないだろうか。

 この違和感は超訳資本論に出てくる剰余価値論が大変参考になった。今まで8時間かけて生み出していた成果が、業務効率化によって6時間で得られるようになれば、経営者目線では余剰分の2時間は従業員を合法的にタダ働きさせているに等しいのである。

 つまり、現代人は高い労働生産性によって、人件費の数倍もの利益を生み出していることが多いにも関わらず、その半分以上が会社の利益としてピンハネされ、その利益は最終的に出資者である株主の元に還元されているのである。これでは現代の奴隷制度と揶揄されても仕方がない状況であり、ピケティさんが証明した不等式のr<gにもつながってくる。

 つまり、労働者として働くこと自体は時間を切り売りした結果、ピンハネされて資本家と公共団体の懐が潤うだけの罰ゲームであり、それが嫌であれば自営業者や経営者となるか、投資家として立ち振る舞うしかないのである。

 とはいえ、多くの人が自分のビジネスを立ち上げる勇気や度胸もなければ、経営者になる技量やコネもない。投資家として生計を立てられるだけの種銭も持ち合わせていない。

 だから、重要なのは生活のために仕方なく労働するにしても、スキルの貯まる仕事を行うことで勉強し続け、自分を磨き、人材価値を高めて他所の組織でも通用する人材になっておくことではないかと、高卒で単純作業以外のキャリアがなく、転職市場で同業他社以外には見向きもされない、哀れな鉄道員の立場から主張させていただく。


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