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持たざる者の苦しみ、持てる者の苦しみ。

世の中公平だが、平等ではない。

 公平と平等。同じ意味として捉えがちだが、橘玲さんは、公平とはスタートラインが同じで、平等とはゴールが同じことと再定義されている。

 公平というのは通常の徒競走で、スタートラインはみんな同じではあるが、足の速さという能力差によってゴール地点では優劣が発生する。これを平等にしようと思うと、ゆとり世代の体育でみんなで手をつないで一緒にゴールする事態になる。

 これでは足が速い徒競争における強者が不利な条件、足が遅い徒競争における弱者は有利な条件と、個々の条件に応じて重み付けがされるため不公平だが、結果は同じになるため平等と言える。

 日本国憲法第14条では「法の下の平等」が謳われているものの、先の定義では現実世界は公平ではあるものの、平等とは言い難い。

 親ガチャという言葉が流行したことが、これを如実に表している。人は何も持たずに生まれ、およそ30,000日前後の時間を人生で与えられる点で公平だが、成人するまでの間、親が人格者か否か、家庭の経済資本、文化資本、社会関係資本の差によって、受けられる教育や文化的活動の幅は大きく異なる。

 社会学にハビトゥスという言葉があり、上記の差から結局は社会階級を再生産しているに過ぎないと言った指摘がある。反論もあるため鵜呑みには出来ない。

 しかし、東大生の親の54.8%は世帯年収950万円超というデータがあり、同世代で世帯年収950万円超の割合は22%と偏りがあることからも、社会的に成功した人ほど、養育にあらゆるリソースを投下できる点で、優秀な子供が育ちやすい傾向にあり、結果として、高年収家庭の子供ほど高年収な職に就ける可能性が高く、社会階級の再生産という指摘は否定できない。

持たざる者はハズレガチャなのか。

 そんな平等ではないが公平ではある社会に生きる上で、公平ですらないと思うのが容姿だ。見た目で生涯収入の差は2,700万円とも言われている程で、美男美女に生まれるだけで生涯において2,700万円も得をすると考えると、容姿に恵まれなかった側から見れば凄まじい差である。

 確かに、野郎目線で、異性に対して同じことをするにしても、イケメンならときめかれるかも知れないが、ブサイクだと最悪の場合、警察に通報されるリスクを伴う。恋愛市場でどちらが有利で、どちらが不利か言うまでもないだろう。

 それにも関わらず、容姿は選べないし、多額の金銭を投じて整形でもしない限りは変えられない。容姿に限らず、金銭、人脈、社会的地位など、持たざる者はいつも苦しんでばかりである。

 しかし、持てる者には持てる者なりの苦しみが存在する。こう記すと私が容姿に恵まれて苦しんでいる感が出るかも知れないが、気を抜くとチー牛顔になり、陰キャ感を抑えるのに苦労している身のため、その点は安心して読んで頂きたい。

 確かに、持てるものはことある毎にチヤホヤされる。しかし、それにより持たざる者からは妬まれるだけでなく、好意を持って近付いてくる人は、自分の容姿を見ているだけで、本当の自分は見ていないと人間不信に陥るかもしれない。そして、容姿は加齢とともに劣化し、美貌はいつまでも保てない。

 持たざるものは、持っていない何かを比較して苦しむが、持てる者は、それを持っているが故に、失うことへの恐怖や、本当の自分を見て貰えない苦しみがある。

 他人と比較するとハズレガチャかも知れないが、捉え方によっては失うものがなく何に於いても自由であり、失うことへの恐怖から身動きが取れなくなってしまった持てる者よりも、幸せな人生を送れる可能性を秘めていると考えられる。

持てる者を目指すと、何かを失う。

 これは金融資産に関しても同様で、お金を持つようになると、お金がない時とは違う悩みが生じる。

 そのうちのひとつが人間関係で、近付いてくる人間がカネ目当てなのか、自分に好意を持っているのかを逐一疑うようになる。そうでもしなければ、せっかく築いた資産を守れないからだ。

 ひと財産築く過程で、大金がヒトを狂わす恐ろしさを知るからこそ、不用意なトラブルを誘発する事態をなるべく避けようと疑い深くなる。ましてや経済的に独立すると、他人に頼らなくても生きていける。金融資産こそ持っているものの、それを失うことへの恐怖から、なおさら他人に心を開かなくなり、天涯孤独な人生を送ることになりかねない。

 疫病禍となってから金融資産が指数関数的に増加したものの、現実世界で成金アピールをする機会もなければ、する気もないが、同級生と財テクの話になった際に、保有資産額をカミングアウトしたら過去一番の驚愕具合だった程度に、自分はお金持ちオーラを素で消せているらしい。

 怪しい人を引き寄せない点では都合が良いものの、恋愛面では今が旬の20代である。結婚という社会システムの枠に嵌りたくないと思っているため、結婚願望はないものの、我々に太古からプログラムされている生殖本能を、全盛期に押し殺すのは正直毒である。

 男は金、女は若さと揶揄される程度に残酷な恋愛市場において、成金の如く、金に物を言わせればチート同然のヌルゲーの筈だが、お金目当てで近寄ってきた人間は、金の切れ目が縁の切れ目となる。 

 しかし、例え何もかもを失っても寄り添ってくれるような人を、チートコードを封印し、お金持ちの気配を消して探そうとした途端、全くもって相手にされず、無理ゲーと化すジレンマは想像以上である。

 お金持ちがパートナーとして選ぶ人が、裕福になる前から支えてくれた人か、同じお金持ちかの何れかになりがちなのは、お金目当てで近寄っていないことを、上記以外で判断するのが難しいからではないかと思う。

 金融資本を持たざる、経済的弱者な家庭に生まれ育ち、倹約と運用を中心に配当所得で働かなくても生きていける程度の生活費は賄える、持てる者になったつもりでいる。

 しかし、その過程で疑い深くなり、無条件で人を信じる心を失ったことで、経済的に豊かになった後に出会った人たちの中に、信頼できる人がひとりも居ないことに気付いた。私は金融資本を持つようになった代償として、社会資本を失ったのである。

 金銭の多寡は、外見上で見て分かる性質ではないため、必要に応じて存在感を消すことも出来るが、容姿に関しては隠しようがなく、美男美女で有り続ける限り、誰も本当の自分を見てくれないと嘆き続ける分だけ、もっと残酷かも知れない。

 芸能には無関心な私ですら、最近になって俳優や芸能人の自殺などを耳にする機会が増えたように感じる。これも、持てる者にしか分からない苦しみによるものと思われ、持たざる者はないものを気にして嘆くより、それらがないことによる自由に目を向けると、新しい発見があるかも知れない。


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