英語力をつけるということについて

アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、インド人、パキスタン人、シンガポール人、ドイツ人、香港(中国)人と、それぞれ話す英語には独特の違いがあります。

ネイティブの国以外も混じっているので、一概には比較しがたいのですが、とにかく、発音だけでなく、「インシャラー」を語尾につけるだけでニュアンスだけでなく、「コミット」のレベルまで変わってしまうことに戸惑ったことも数多く。

ただ、確からしいのは、日本人としての私自身が単語をそれなりに揃えるだけで、一定程度の「意思の疎通」が出来てきた過去を鑑みるに、これからの私自身だけではなく、教育の現場自体が変わる日本の英語力の在り方について、色々考えることがあります。

日本の英語教育は間違っている、との論法は聞き飽きるほど聞いてきましたが、「それなり」の英語力で「意思の疎通」を図ろうとする「気合」があれば、「それなり」の「意思の疎通」ができる事実がある、ということと、「ビジネスでの交渉を成立させる」レベルや、「恋人たちが深く理解しあう」レベルになることにはやはり「大きな開き」があるのは事実だと思います。

ただ、「それなり」の英語力があれば、後は「慣れる」ことで「英語力」のレベルはどんどん向上していく事実もあります。

日本の教育現場で、「それなり」を超えたレベルを要求していく、ということと、教育現場が追い付かない、「国語力は落ちないのか」という心配事を鑑みるに、及び、「翻訳機器の圧倒的向上」を考慮すると、「国語力を鍛える」条件を満たしたうえで、「それなり」の英語力でよいのではないか、と子供達を見ていて思います。

これは、私自身が、今後、英語力を鍛えるよりも、他に自己啓発したい分野が強いこともあって、「翻訳機器に頼りたい」という怠けた気持ちがそうさせている、という事実とは関係なく、日本語の「国語力」の「奥行きの深さ」については、この年齢になっても、まだまだ向上の余地を感じることにあります。

例えば、「エヴァンジェリスト」の方たちの巧みな「表現力」と「国語力」に感じ入ることが多いこと、今もって小林秀雄を読み返すと、読みなれた書籍であっても未だに「新しい」こと、「単語」を極力減らした方がよい「なれ合いのコミュニケーション」で意思の疎通を図る場面も多いこと、等々です。

日本語の造詣の深さや使い分けの複雑さ、「意味」の世界で「創造」していく困難さなども、未だにネイティブとしての「日本語」に「フェチズム」を感じ入るのは、私だけではないのかもしません。

日本語としての「国語力」を磨き上げる教育に注力して、そして、同時進行で英語の「文法・英作文・スピーキング・リスニング」を鍛え、更に、数学や理科や社会やプログラミング等々となってくると、子供達の「遊ぶ時間」がなくなってしまうことが正直気になってきます。

しかし、上述を覆す大事なポイントとして、「それなり」レベルとは「大きな開き」があるネイティブレベルの英語力があれば、ネイティブの方たちとの「深い理解」をしやすいのは言うに留まらず、「声色」や「言い回し」などで、ネイティブの方たちの「個性」をしっかり理解しやすくなることも事実だと思います。

ネイティブの方たちを理解するのは、何も「言葉」だけではないのは事実ですが、「意思の疎通」のために、「社会」や「コミュニティ」を広げるために、「英語力」を高めていくことに異論はありません。

「翻訳機器」は、より一層「便利」に向上していくことでしょう。

ただ、「翻訳機器」を介在させた両者の間の「絆」の構築は簡単ではないように思うのは私だけでしょうか?

「英語脳」は早期教育が必要、という話もありますし、移民が増えていく日本においても、「郷に入れば郷に従え」という「日本語の強要」からは一旦距離を置いて、「英語」を「第2言語」と位置付けてしまえばよいのではないか、と考えます。

「国語力を鍛えた」上で、「第2言語」としての「英語力」があれば、子供達もグローバルに羽ばたいていくことだろう、と考えています。



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