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なおし屋のしごと❻ 三味線修理


京都には一部の京都人しか馴染みのないディープな世界が存在する。今回はかなりディープな京都でその世界ならではの直し屋、かなり希少な分野だが日本の伝統芸能には欠かす事の出来ない存在、三味線修理の野中さん

工房は東山区であじき路地と呼ばれる路地の奥。

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京都でハンドメイドや作家物のプロダクトに興味ある人ならご存知の方が多いのでは無いでしょうか
ここは築100年以上の長屋路地、一見京都人には見慣れた路地の風景だが各扉の向こうは様々なジャンルの作家がアトリエとして製作活動を行なっている。

伝統産業としても認定されている三味線の製作、修理は棹(サオ、ギターでいうネック部分)と皮貼り、 2種の分業によって行われる。
全体の製作工程は棹を作って 仕入れた胴を仕込んでそこから 皮張りの職人が皮張りして また棹の職人が小物を付けて糸を張る。
ちなみに胴の木部は問屋さんが自社の工場で作っているのだとか。
昔は更に多くの分業となっていたそうだが今はこの2種分業となっている。

野中さんは棹の部分を担っておられる。
表札も無く、昔ながらのおばあちゃん家のような雰囲気の工房内作業台の上には三味線の棹がまな板の上の棹といった面持ちで野中さんの手によって磨かれている。
まず初めに驚いたのは三味線の棹部分が三本のパーツに分かれているという事
分解して持ち運びやすい携帯性だけの問題ではなく、分割している方が木の反りや捻れの影響が出にくいからなのだとか。
確かに木工をする者からすればその理由は良くわかるのだが完全手加工でこの精度のホゾ作り大変じゃね!?

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この写真は分解して持ち運ぶときにキャップとして棹のホゾをカバーするために作られたもの、本体にも同じ加工を施し互いがピタリと収まる。

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主に使われる木材は紅木、花凛、紫檀、など唐木と呼ばれる種類で通常家具に使われる木材よりもはるかに硬い、家具木工屋に唐木で製作を依頼すれば大方嫌がられる代物である。
もう一度言うがこの材でこのホゾ加工大変じゃね!?
糸巻には更に硬い黒檀が使われていたり、古い物は象牙なども見られる。

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もう一つ家具作りと大きく違うのは完全乾燥した材は使わないということ。
適度に湿気を含んでいる方が良い音がするそうで、三味線自体あまり古い物は文化的な価値がある物を除いては楽器としての価値は無いとされている。
そうした物も野中さんの修理で実用品として価値ある三味線に生まれ変わるのだ。

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棹修理はこの継手の加工調整や糸巻の修理、漆塗りなど多岐に渡るが三味線自体がさほど大きな物ではないのでその作業は実に繊細な技術を要する。
これまで木材を扱う多種の職人の道具を見てきたがノミの研ぎ角度は通常の木工屋のそれよりもかなり大きい。
刃物の研ぎ角度は小さいほど良く切れるが切れ味が落ちるのも早い、
大きくするほど切れにくくなるが切れ味は長続きする。
主に唐木を扱うのだから小さな研ぎ角度では直ぐに切れなくなる。


木工仕事はまず道具を作ることから始まる。
柄を使いやすい長さに継ぎ足し、長年使い込まれ鈍く光るノミはほれぼれするほど美しい。
やはり職人同士の道具、材料、特に刃物談議は話が尽きない。

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野中さんは京都の宮川町で生まれ、小学校の低学年までそこで育つ。宮川町といえば京都五花街の1つと言われる花街である。
おばあさんが元々この街でお茶屋をされており、生活範囲に当たり前のように舞妓、芸妓が行き交う伝統芸能真只中の環境で必然的に三味線に触れて育つ、その後お父さんの転勤で九州に移ってから自分がかなり特殊な環境で生まれ育っていた事に気付く。
たしかに京都人から見ても特殊なエリアなのだからそう感じるのも当然である。


宮川町を離れても三味線から離れる事はなく稽古を続け
高校卒業後には 京都に戻り三味線を作りたいという思いで専門学校の木工科に入る。
しかし上記にも述べたように三味線づくりは木工の中でもかなり特殊な分野で他の学生達とは刃物の扱い方も違うし先生も専門的な知識は持ち合わせていない、
これではダメだと思い専門の三味線職人の門を叩く事となる、しかし当然の門前払い、それでも諦めず門を叩き続けること4度目にしてようやく 棹作りから皮貼り仕上げまで1人でこなす三絃師と呼ばれる師匠に受け入れてもらえる事となる。


職人として弾き手として日々研鑽を積む毎日を過ごし、その間少しずつ弾き手としてお座敷に読んでもらえるようにもなり、落語の出囃子などの舞台の演奏も増えてきて、本人も知らぬ間に京都では知る人ぞ知る存在となっている。
しかしそんな存在である事は今も本人は つゆ知らずである。

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その後、職人として独立し あじき路地に工房を構える。
三味線教室や花街の芸妓、舞妓、などが主だったお客さんで
現在この界隈では三味線職人は3件を残すのみとなった、やはり自身がこの世界に足を踏み入れた頃よりも伝統芸能の世界は縮小していると感じているそうだ。

自身の仕事の為だけでは無く伝統芸能の発展には常に尽力されているがなにぶんこのコロナ禍の影響で歌舞伎や演芸に限らず京都では宮川町の京おどり、祇園の都おどり、など大規模なイベントから小さな発表会まで三味線を披露するイベントが完全ストップ状態だ。
そうなると修理 メンテナンスの依頼も当然減るわけである。
今後いつ収束するかも分からない不安な日々が続いているがこんな時こそ これまでいかに技術や人望を積み上げてきたかが分かる。
しかし1年後はどうなっているか分からないというのも本音である。


そんな苦難が続く中でも今後について聞くともっと工房の環境を整えて更に職人として良い仕事が出来るようになりたい。
今は自分にとって趣味として楽しみにもなっている弾き手としてのお稽古も続けて行きたい。
ここまで話を聞いてある程度予想はしていたが ある意味京都一浮かれた街のど真ん中でどこまでも強く地に足の着いた人だと感じた。
しかしそれを感じさせない軽さも持ち合わせているのが野中さんの魅力でもある。


華やかな伝統芸能の裏で直し屋は表には出てこない日陰の存在ではあるがその存在無しに今後の発展は望めない、三味線を用いた舞台の面白さを含め技術と伝統を普及する存在として今後の動向が益々気になる職人さんである。

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三味線職人
野中智史
〒605-0831
京都市東山区山城町284