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でも、書く。

そう言ったのはライターの師匠である古賀史健氏だったか。よく覚えていないが、そんなニュアンスのことをたしか講義の中で言っていたような気がする。

今、ライターの授業ノートをさらっと見返しても見当たらなかった。多分どこかで言っていたと思う。

数日前にふと頭に思い浮かんできたこの「でも、書く。」という言葉が、今も私の中で力強く、なんども響いている。そして助けられている。
とくに冒頭部分の「でも」という否定から入っているところが、非常に人間らしくて好きだ。「だから、書く」という肯定的で前向きなメッセージではなく、「でも、書く」という、マイナスを出発点としている言葉。
人間誰しも、細かい事情や環境やコンディションで波があるのは当たり前のことだ。それでも私たちライターは、あらゆる言い訳を事情を差し置いて、今日も平然と書いて生きてゆかねばならない。

今日はもう眠たい、疲れた。でも、書く。

書くことがない。イスに座って白いページを開いても、何も湧いてこねえや。でも、書く。

今日は最悪なきぶん。目の前に海があったら大声でさけんで、でかい石をドボンと上から投げこみたい。でも、書く。

今晩は予定があって夜に書けそうにないなあ。こんな昼間から書くなんて気分になれない。でも、書く。


「でも、書く。」

言葉が持ってくる意味の強さに、背筋が伸びる。
ライターとして人生を賭ける自分の覚悟が定まってくるような気がする。

今日もそうだった。依頼された写真集のレビューの執筆をしていた。
1月初旬に依頼を受け、そこからずーーーっとこの作品のことを考えながら過ごしてきた2ヶ月間。ようやく、そのレビュー原稿を提出した。
赤の他人のレビューなんて人生初めてのことで、しかもその写真集は趣味とはいえすべて本気の作品。本気で体当たりしてくるような作品だったから、こちらも本気でぶつからないと、釣り合いが取れないような骨太の写真集だった。その執筆がようやく終わり、無事提出することはできたものの、「これでよかったのか?」という永遠の自問自答はつづく。

未熟だと思われたらどうしよう?本気で嘘のない言葉を書いているけれど、それが全くの的ハズレだったら?意図せず本人を不快な気持ちにさせたら?この言葉は嫌だろうか?間違ってるだろうか?いやいや、作品に対して何かを考えたりイメージする自由は、こちらにあるよね?

本気の言葉を書いているからこそ、提出したあとも悩みや不安がつきない。
レビューの原稿の中では、ぼんやりとしたイメージの全体から、ひたすらに自分の気持ちや作品を語るにふさわしい言葉を探しあてる作業がつづいた。書いては消し、書いては消しを繰り返し、どんどんイメージがブラッシュアップされて、やっとの思いで道筋が見えてくる。
書こうとしたけど書かなかったもの、書くつもりはなかったけど本当にそう思ったから書いたもの。白い原稿の中で右往左往をしながら、ときに自信を無くしそうになりながら向かうとき、やはりこの言葉が自分の中で鐘のように響いてくるのだった。

「でも、書く。」

未熟だなあ、と思われるかもしれない。
でも、書く。
見当違いだと思われるかもしれない。
でも、書く。
見る目ないなあこいつ、と思われるかもしれない。
でも、書く。
ちがった風に解釈されるかもしれない。
でも、書く。
こんな自分が本当にレビューなんぞしても良いのか、だんだんわからなくなってきた。
でも、書く。

この「でも、書く。」という言葉は、私にとってのお守りに近い言葉なのかもしれない。眠気で船を漕いでいる人を起こすときのように、止まりそうになった手元を奮い立たせる、私のおまじないの言葉。荒野をバリバリと進んでいくためのマーチ。逃げそうになっても、自信がなくなっても、疲れてしんどくなっても、正解がわからなくなっても、私をまた書く道へと戻してくれる大事な言葉。

もがきながら「でも、書く」というストイックで誠実な取り組みを続けていった先に、原稿のゴールらしきもの、一瞬の明るい光は見えてくる。逆にいえばそこにしか道はない。その光が見えてきた瞬間の感慨は書いている人の内側でしかわからないものだが、何もわからない、書けなかったかったはずの混沌状態からのその光の道筋が見えてきたときに、私はやっぱり書くことが好きだと毎回思う。言葉で掴めるものなんてたかが知れているが、それでも、なにかを言葉で捉えられたと思う瞬間に、私は何よりも興奮やよろこびを感じる。

どんな原稿であれ、執筆中はいつも先が見えなくて、どう落ちていくかわからない、しんどいもの。まるで暗いトンネルの中をひとりで歩いているような気持ちになる。でも、こうして何もなかったところからじょじょに自分の手触りを言葉に落とし、言葉のつらなりの中に姿かたちをもった何かが立ちあらわれてくる過程や、読者に対して誠意を持ってゴールまで導く行為の根本的な楽しさは、ひとりトンネルの辛さを毎回上回るものがある。だからやめられない。

このnoteだってそうだ。今日だって誰も読んでくれないかもしれない。
書きはじめはとことん疲れていて、もう書かずに今すぐ眠たい気持ちでスタートしたこの回。
「今日は全然だめだ、何言ってるか自分でもよくわからなくなってきた」という日もあるし、「この気持ちは多分、あんまり理解されないかもなあ」と思いながらnoteに向かう日もある。

でも、私は書く。
それが書くことに虜になった者として感じる義務であり、責任であり、執着であり、何物にも代えがたい、結局はよろこびなのだ。




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