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自分は自分にしかなれない

今日、外を歩いている時にふとそう思った。どんなに自分のことがちっぽけに見えても、どんなにスゴい人がスゴく見えても、わたしはわたしにしかなれないし、あの人はあの人にしかなれないよなあ、と。

わたしがあなたになれないように、あなたはあなたにしかなれない。すごく当たり前のことなはずなのに、私たちはこれでもかというくらい、何度も何度も同じ勘違いをして、この法則をわすれてしまう。

わたしの生にはわたしだけの調和があって、あなたにはあなただけが知っている/実現できる調和がある。調和の見た目や、調和になるべくやっていることは、人それぞれで全くちがう。朝型生活で調和が訪れる人もいれば、夜型生活で調和が保たれる人もいる。すごくすごく簡単に言えばそういうことだ。

考えてみればこれは至極当たり前なことのような気がする。だってだれひとり同じ人間はいないのだから。ひとそれぞれに実現できる・目指したい調和がちがって当たり前。

せっかく異なる人間同士が、同化しようとするから、ややこしくなる。人生が高カロリーになり、しまいには喧嘩や妬み嫉みがうまれる。
人は人と比べてあーだこーだと落ち込んだり、自分を卑下したり、他者を必要以上に「きらきら」と勝手に輝かせてしまうのだろう。わたしも、人とくらべて落ち込みそうになったり、SNSで見る「すごい」人たちを見て自分の足元の暗さにため息をつきそうになる瞬間もよくある。でも、その寸前ですぐにやめる。
私には私にしか追求できない調和があるはずだ。ダメだったら、また調和を探して歩けばいいだけのこと。せめて死ぬまでには見つけたいなあとは思うけど。あの人の調和と私の調和は、ちがっていて当然なのだ。

どんな自分でも、自分は永遠に自分という人間を突き詰めることしかできないということ。
それは、けっして嘆くことではないように思う。悲しいことでもない。根本的にはうれしくて、たのしいことなのだ。

自分にしかなれないと思えば、いろんなことに諦めがつく。余計なことをしなくなる気がする。「あなたとはちがうから」と言って怠慢になるのとはちょっと違うけれど、どう足掻いてもどう頑張ってもでいないことや無理なことはだれにも確実にある。
そういうことに対して、「まあ、どこまでいっても私は私にしかなれないしなあ」と思えることは、ときにかなり楽になるし、諦めもつく。

こんな考えをする私はよく「自尊心(自己肯定感)高いね」といわれるけれど、それはちょっと違うと思う。自分を愛しているというより、ただ単にいろんな「合わないこと」を早々に諦めていて、自分だけが持っているはずの調和を目指して脇目も触れずにまっすぐ歩いているだけなのだ。
すごくわかりやすい例で言えば、私はどうあがいてもどう頑張ってもおしゃれで小綺麗なインフルエンサーにはなれないし、極端な心配性になって計画性をともなう人間にはなれない、ということ。私はインフルエンサーの彼女ではないのだから、仕方ない。ただそれだけなのだ。

そう思うと、自分の生が途端にいとおしく思えてこないだろうか。
死ぬまでは一緒に仲良くやるしかないのだ。どんな自分であっても。
自分にしかなれないからこそ、自分が自分の調和を探して整えてあげるしかない。その意味で、自分を愛せるのは自分しかいないとは、おそらくこういうところなんだろうな、と思う。

一生をかけて、この体とこの生の調和を探す旅。それがきっと人生というものだ、ものすごく抽象的に言えば。であれば、私はなるべく早い段階に自分の調和に近づいて、死ぬまでの間なるべく長い時間をその調和の中で生きていきたいと思う。

人生は複雑でもなんでもない。いつだってシンプルだ。目先のことばかりに囚われて、本質的ではない悩みを持つのはやめたい。自分は自分にしかなれない。

そんな当たり前のことを、自戒のためにここに書いておきたい。


......肩と背中が凝りすぎて早く寝たいので、今日はものすごく抽象的なことを書いてしまいました。明日からまたちゃんと書きます。

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