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死への恐怖

たまに、身近な人の死がふっと頭をよぎることがある。

「今はこうして普通にメッセージしているけど、明日死んだら?」
「今はこうして笑っているけど、この人が死んだら私はどんな顔をして泣くだろう?世界がどんなふうに見えるだろう?」
例えば母親がなんの前触れもなく死んでしまったら、私はもう今の人格には戻ってこれないと思う。立ち直ったとしても、その時の私はおそらく今とは全然違う性格になっているはずだ。そんな日を想像しただけでも涙ぐんでしまう。
しかし死はこの世の誰にもに訪れるものだ。そして自分にその日が訪れる瞬間まで、この世の人間は常に先立たれるという仕組みになっている。

自分が死ぬことなんてぜんぜんこわくない。本当に怖いのは自分が好きな人の死だ。彼らの死を妄想しただけで、夜も不安になる。今日がそんな夜だ。

もし明日朝、いとおしい人の訃報が入ったら。
今日の私は、あの人やあの人に精一杯の態度で接せられていただろうか。
自分は自分を最大限発揮できただろうか。
人や言葉を、ないがしろにしなかっただろうか。その人の話をよく聞いてあげられただろうか。その人と、やり残したことはないだろうか。

怖い。そんなの怖すぎる。

情けないけど、というかこれが人間の性なのかもしれないけど、普段は見えにくくなっている当たり前の「死」に対しては、たまにこうして恐れることによってはじめて「当たり前の日常」を愛おしく、惜しく感じることができる。死をシミュレーションによってはじめて、足りなかったコミュニケーションに気づく。

だからといって毎日毎日「今日が人生最後の日」と思って過ごすことはできないけれど、毎日毎日、今はまだ当たり前のようにやってきてくれている日々の一瞬一瞬を誠実に生きることならできる気がしている。
食べたいものを食べること。行きたい場所に行くこと。会いたい人に会うこと。話したい話を話すこと。聞いてみたいことを聞くこと。相手が何かを言って欲しそうな時に一声かけること。誘ってほしそうな時に誘うこと。聞いてほしい時に聞いてあげること。そういう小さなセンサーに、常に正直でありたい。そして震えるセンサーに機敏に動いていきたい。それが唯一、身体と時をもつ生きた人間の特権だと思うから。

そして死には抗えないと思いながらも毎日祈っている。
「お願いだからまだ死なないで」と。
愛おしい人たちよ、お願いだからまだ死なないでね。




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