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普通の日記を書きたい

普通の日記が書けない。わたしの中で普通の日記といえば、例えば「◯月×日に〜〜駅に集合して、友人Aとお茶をする。久しぶりに会った友人は前髪をどうやら切りすぎたらしく、右上の方だけピコンと寝癖をつけたたままやってきた。時刻はもう夕方、15時というのに。」という感じ。
自分でも、そんな単純なことがなぜ書けないのだ、と思う。
その日起こったことを淡々と挙げて、それに対する視点や感性が外側を向いているもの。外の世界とぶつかった時の、自分の中の化学反応を書いているもの。それがわたしにとっての普通の日記だ。わたしは日記を書けない。

日記を書くのがべらぼうにうまいnoteのクリエイターさんはごろごろいる。
有名でもなんでもない、自分と同じような普通の人間の、ちょっと書くことが好きな人たちの日記を読むのがわたしは本当に好きだ。その人の生活圏で、その人だけが持ちうる外の世界との化学反応にほんのすこし羨ましく感じてしまう。その化学反応の(いい意味での)「平和さ」「とるに足らなさ」が。

化学反応はシンプルで些細なものであればあるだけ、読んでいる「普通」の人たちの日常の見方を変えたり、見知らぬ他者の決して見ることのできない生活にそっと想いをはせたりすることができるようになる。

そう、日記は日常生活の化学反応を、大事に掬い取る行為なのだ。

これを書いていると、やっぱりわたしはnoteが大好きで大好きでたまらなくなってくる。
どこまでも平凡で、特に目立った珍事件も起こらないが実は人間にとっていちばん幸せな生活をしている人たちの生活の営み。自分と似ているが明確にちがう人たちが織りなす営み。それが集まっているこのプラットフォーム。note村。

蟹座特有の人類愛をかましてしまいそうになる。ここに集まってきた皆さんに、私は、何気ない生活の小さな瞬間、好きな人たちと近所のカフェで語らうこと、カバンもヘッドホンも持たずに近所を散歩することの尊さを、教えてもらいました。あなたたちの、なんてことない、しかしいちばん尊い生活を守るためだったら、私は心から祈りを捧げることができます。

おだやかに、すこやかに、今日もあなたが1日を過ごせますように。

ここで日記を書いてくれる人、わたしがあなたの日記を読んでいると知らない人たちが、わたしは大好きだ。

で、わたしもそんな普通の日記を書いてみたいと思う。生活の営みを公開して、何にもなかったけどまあ、誰かが読んでくれるかもしれないし?noteの村に投げておくか〜みたいなことをしたい。

でも、わたしはなかなか化学反応が書けない。というより、たぶんわたしは、日常の化学反応をほぼ全てこぼしている。目の前で起きている化学反応掬えてない。
矢印がどんどん自分の中に潜り込んでしまって、そこからさらに深く深く沈んでいってしまう癖があるのだ。意外と世界を見る目がザルだったりする。
だから1日を振り返ってみて、どんな場所に行ってどんな人とあっても空っぽのような気持ちになることもよくある。

目の前で起きている変化、友達の些細な感情の揺れとか表情、そういうのを今までにとれほど見落として来てしまったんだろう。
友人の言葉や表情で、きちんと心に留めているシーンがわたしの中にどれだけあるんだろう。散歩の途中で見たものの中で覚えているもの、感じたことをどれくらいわたしは覚えているんだろう。よくよく外の世界を観察しているつもりだし、毎日何もしてなかったわけでもないのに、日記になった途端に何も書けなくなってしまう。
きっと目の前の化学反応を掬う前に自分の世界に入り込み、永遠に思考のドリルで対象物に穴を掘っているのだろう。

わたしのnoteの大半が、下へ下へと潜って暑苦しい主張にあふれていたり、頭でっかちな内容であるのはそのためだ。こんなことまで分析でいている自分すら鬱陶しいが、それが特徴なのかもしれないなとも思う。

普通の日記を書けるということは、外の世界をしっかり見て、感じているという証拠だ。日記を書くために、ではないけれど、化学反応が欲しい。そしてそれをきちんと掬えるような細やかさで世界と向き合いたい。noteの村人たちがこの世を感じる細やかさで。
その第一歩として、最近はヘッドホンをはずして歩くようにしてみた。もしわたしが日記を書き始めたら、そういうことなんだと思ってもらえたら嬉しい。



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