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虚無のサーカス

人生の虚無具合にゾッとするときがある。小さな壁にぶつかりながら、時に喜び楽しみながら懸命に生きていくことが、壮大なサーカスのように見えるのだ。
サーカスは幕が降りるまで永遠に芸を披露し続ける。日常とは遮断されたテントの中で、サーカスを見ている間だけは、せめて日々の苦しいことや悩み事を全て忘れて悦に入り浸る。動きが止まればたのしいサーカスは終わってしまうから、なるべく動きを止めないように、なるべくサーカスを長引かせるようにする。テントの外の現実世界には何が待っているかわからないから、なるべくテントの中にいようとする。テントの中は永遠に非日常空間であるのに、そこを日常空間だと思い込むようにする。

それとおんなじように、私たちの日々が時折、サーカスのようにみえることがあるのだ。同じルーティンを何度も繰り返し、そこになんの意味があるのかはわからないけれど、それを続けているうちに何か大そうな意味を見出しはじめ、勝手に満足する。お金も仕事も家もおしゃれな服も、全部人間がつくった後付けのものでしかないのだけど、今やそれがないと生きていけないようなガチガチな環境にいて、仕方なくそこに順応するよう生きていく。それに漏れた先は何が待っているかわからない。本当はその環境の外側にこそ人生の真実があるのかもしれないけれど、外側に出るためのリスクや生きづらさを考えると、誰も進んで外側には出ようとしない。

......ということを、なるべく気づかないように、見て見ぬふりをするように、私たちは生きている気がする。誰かが作りつづけるこの世界の壮大な虚構に気づかないようにするには、もうひたすらに虚構のためだけに生きる、つまり、ずっと動き続けるしかない。生き続けるために手を止めてはダメなのだ。

自分を含め、街を歩いている人はみな「ほんとうのこと」を知らないふりをして生きている。この仕事や人生や生活になんの意味があり、自分の感じるちっぽけな葛藤や苦労はなんのためにあり、なぜ私は彼女・彼と出会ったのか。ほんとうのことは誰もわからない。死んでもわからない。
だから多くの人は「そんな事考えるな、それより目の前のことに集中しろ」という。それに従い、仕方なく見なかったふりをしてとりあえず体を動かしていると、たしかにどうでもよくなってくる。そして、ついには知らないふりをしていることすら忘れる。明日も朝起きて、仕事に出かける。学校へ通う。そのルーティンの中に、人はじょじょに意味を見出していく。

意味のないことをすることは、ちゃんとした拷問となるらしい。ナチス・ドイツの有名な拷問に、左右2つのバケツに水を永遠に交互に移し替えるというものがあったそうだ。そのあまりの虚無具合に人は自白か死を選ぶ。
正気に戻ると漂ってくるあらゆる虚無の匂いに、人間は耐えられない。虚無に対抗するべく、いま手元にあるものだけに集中していろんなものをつくってきた。その果てがこの大きな社会なのだと思う。

この巨大な虚無に気付いても尚わたしが人間らしく生きることを捨てきれないのは、「生まれてきたからにはなんかしらの意味があるからに決まっている」となんの疑いもなく思えているからだ。小さくても、人には役割がそれぞれにちゃんとある。それが「社会」にとっていいことかは、おそらくまた別だけど。
誰かをハッと気づかせるための役割かもしれないし、誰かを愛するためなのかもしれないし、誰かを教え導く役割かもしれない。それは誰にもわからない。
けれど、わたしにもこの世に生まれた何かしらの意味がある。きっとあなたにも。その「生まれた意味」がなかなかわからなくて、人は悩んだりゆううつになったりするけれど、生まれた理由は1人ずつきっとある。

他の人がどう思うかはわからないけれど、その確証もされてない「生まれた意味」を死ぬまでに知りたくて、わたしは虚無のサーカスの中をあえて生きている。真実はこのテントの中ではないところにある、と常に思いながら、それでもあえてサーカスの中を生きる。テントの中では虚無を忘れることもあるだろうし、こうしてまた虚無を思い出すこともあるだろう。

壮大な虚構の虚無に負けないように、ほどほどに手と体を動かしながら、瞳はいつも「ほんとうのこと」の方を向いている。


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