茨木のり子の 『六月』が探しているもの
どこかに美しい村はないか
一日の終りには一杯の黒麦酒
鍬(くわ)を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける
(略)
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
昨日、寝る前にふとこの詩が頭をよぎった。理由はよくわからない。
茨木のり子の頭の中にあった「美しい村」は、どんな光景だっただろう。
私には、紫色のグラデーションがかかった映像が思い浮かばれる。
おそらくはこの(略)のパートで「すみれいろした夕暮れ」というフレーズが出てくるからだ。あまりにも美しいこの言い回しに、この『六月』という詩で思い浮かばれる情景はいつもむらさき色のもやがかかっている。
むらさきの煙と花の香り漂う美しい村。引きで村を映していたカメラがズームしていき、次第に豊かでにぎやかな村人たちの集まりが見えてくる。村人たちの腕や手は女も男もどれもたくましく、浅黒く日焼けしている。裾をめくり太い腕を突き出し、大きなジョッキを傾け大きな声で今日一日の出来事を喋る。かなり大きな声で喋っているのに、その会話は決してうるさくはなく、それは彼らの口にする言葉には見栄や意地や偽りがみられないからだ。
例え彼らが誰にも言えない心の暗さを内側に抱えていようと、その時ばかりは、そこにいる皆が純粋に嘘のない光を放てる。そんな空間。
実に豊かだ。そして実にセンチメンタルである。
詩集から顔をあげて街を見渡しても、そんな豊かな人々の集まりはもはやどこにも存在しないからだ。それがコロナのせいなのかは、よくわからない。
うまく言えないけれど、今の世界には、色彩豊かで、みずみずしくて、なんとなく明るい気持ちになれるような、人と人とのさわやかな関係性が本当にない。(少なくとも私はほぼ知らない。)人と人との前向きで精神的な繋がり、程よい距離感。そして程よく働き程よく疲れる生活が欠落している。
なぜこうも人は人と心の底から楽しみ、分かち合い、認め合うことができにくくなったのだろう。なぜ細部ではなく存在をふわっと愛せないのだろう。そういう時代のはざまにいるのだろうか。
今人と繋がる多くの方法は、さみしさや虚無や利害によるものだ。
別に悪いとは思わないが、私にはどれもグレーもしくは真っ黒に見える。とてつもなく退屈だし、憂鬱だ。でも困ったことにどこに行っても皆そうらしく、八方塞がりになっている。ここから真剣に明るい繋がりを潔癖に求めるのはもはや無理だと思う。
もっと軽くて、シンプルで、明るくて、光っていて、程よい距離があるのに、じんわりとあたたかくなってくるもの。
そこには妬みもマウンティングも嫉妬もない。
この『六月』という詩のしめくくりに茨木のり子が探し集めようとしていたのは、まさにこういう人との人との間に生まれる光のようなものではないだろうか。私は少なくとも、この光のような人と人との純粋な関係性を、地元の公民館に集まって自分の趣味で活動をしている高齢者の集まりでしか見たことがない。「手芸をしたい」とか「絵を描きたい」とか「歌を歌いたい」とか、ただそういう純粋な思いだけで集まって、たわいもない話をしている、おじいちゃんとおばあちゃんたち。
老い先の短い彼らの方がよっぽど純粋で、光的だ。
でもそんなのつまらない。
私だって探している。美しく、単純で純粋な人と人との力を。彼らが集う村のような場所を。
もっと広い世界を見てみたい。いろんな場所に行って、本当に美しい村がこの世に存在しないのか、この目で確かめてみたい。
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