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ゆっくり、言葉を選んで喋るひとたち

私が好きなひとたちの共通項は、やっぱり話す言葉の質感とスピード感、にあるかもしれない。

こんなに言葉言葉と言っておきながら自分は話し言葉に全く潔癖ではないのだけれど、だからこそ、言葉を吟味してしゃべるような人をいつも好きになる。比喩や組み合わせが「聞いたことある」ものではなく、その人の感覚によってでしかつくれない独特なリズムがあるものだと、尚のこと好きになってしまう。

ちなみに、私の話す言葉は嫌いだ。相手の話を受けて心に浮んだもの、伝えたい感情や感覚が常に先行しているので、ついつい最終形態としての言葉が雑になってしまうのだ。早口だし、あんまり口を開かず省エネで喋るし、もう最悪。

でも私が愛する彼らは、いつもゆっくりと喋る。
私に何かをたずねるときも、沈黙の後に口をひらくときも、メールの文面でさえも、そこに流れている言葉のスピードは常に穏やか。
せわしない日々の中で、私は波打つ心を彼らの言葉のやりとりを思い出して鎮めるようにしている。おまもりだ。

彼らの多くは言葉に物足りなさや頼りなさを感じていて、基本的には言葉のちからをあまり信じていないひとたちだ。だからなのか、そういう人の話す言葉の組み合わせはいつだって新鮮で、信じるに値するその人の「なまもの」が宿っているようにも感じられる。

最近加わったおまもりの言葉は言えない。ひみつだ。

なんてことない言葉だったし、私のことを言っている言葉でもない。それでも、思い出すたびに満たされてしまう。
極めて普通な単語をつなげただけなのに、なんであんなに美しい言いかたができるんだろう。私はその人の言葉の使い方や話し方が本当に大好きで、私だけの、「うっとり名言集」もある。上品ともちがう、字面にすると名言でもなんでもない言葉なんだけど。

例えば、感情を雑に「うれしい」「悲しい」という言葉に当てはめることは簡単なことなのだ。でもそこにはきっといろんな種類やグラデーションがあって、よくよく自分に聞いてみると、その感情は「うれしい」ではないことも往々にしてある。「うれしい」と思っていた感情が、実はそんなことないこともある。その意味では時間がかかってもいいから、自分とズレのない正確な言葉を口にしようと奮闘する人の方が、よほど信頼できる気がする。私の場合はおそらく、はなし言葉と自分自信がズレまくっている。どうしても、「はやく伝えたい」のほうが勝つ。

前に、とてもおしゃべりな人がいた。聞いてもないのに自分の仕事の話を延々と続ける人だった。でもよくよく聞いてみると、その人の言葉は何にも入ってない、空っぽな言葉の連なりだったことがある。それがその人にとっての会話であるらしいことがすごく怖かった。自分が思う「会話」とは全然ちがいすぎて。

言葉のない空間を満たすための会話はとても苦しい。聞くのもつらい。
その人の本性や本物が入っていない上滑りの言葉に、案外人は気づくものだと思う。

好きなひとたちのように、私も、感情や感覚を言い表すのに最適な言葉を選ぶ時間を持てるようになりたい。もしかすると、私に必要なのは「待つ」ことなのかもしれない。




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