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あたらしいことをはじめるとき

あたらしいことをはじめるとき、それが何であっても私はどうしようもない無能になる。
完璧主義の強い私にとって、この無能ぶりは時に、耐え難いほどの屈辱となる、こともあった。今はすこし違うけど。

言われてすぐにできるようなタイプではないし、見ただけで何となくできるようなセンスのいいタイプではない。身体的な反射神経も悪いので、言われてすぐに動くこともあんまり得意じゃない。気づけばぼーっとそこにつったっている「背の高いやつ」になっている。ああ、そう言えば私って小学生のときからこういう感じだったよな、とか思いながら。

最近あたらしい仕事をはじめた。ライターではなく、編集のお仕事だ。

部屋でひとり、真っ白なPCに向き合って「ううう」と唸りながら原稿に向かうライティングの仕事と編集の仕事はもちろん全く違う。編集の仕事は人が縦横無尽に関わる仕事であり、それら全てを束ねてオンスケジュールで動かし続けねばいけないらしい。いや、前々からそういうものだとは知っていたけれど、想像以上にライターとはまた別の脳の部分を使う仕事だ。

当然、編集者としての今の私は無能だ。ちいさな調整やアイデア出しだってままならない。あまりの無能さに、淡々と自分で自分を蔑んでいる。「うわー、こんなのもできない自分ってかなり無能だなあー」と。

しかしこの無能さ、私にとってはどこかなつかしい感覚でもあるのだ。

それは中学生のころ。上は高校2年生まで在籍していた体育会系のオーケストラ部で、今以上に無能だった時のポンコツな自分が思い出される。
当時の自分は、生まれながらの要領の悪さをそのまま携えてやってきてしまい、人の話を聞いても覚えてないとか、元にあった場所にものを片付けられないとか、伝言を伝え忘れるとか、そういうなんか、当たり前のことがなかなかできないタイプの人間だった。今でもその名残がうっすら滲み出ることもあるけれど、力づくで治してきたタイプ。

毎月1,2本は大きなコンサートに出場し、顧問が生徒に団体行動の指揮をとるように教育するタイプのザ・体育会系のオーケストラ部だったので、中学生の頃からそれはそれは「頭を使って」行動することをしきりに求められものだった。周りを見て行動をしなければコンサート終わりの反省会で演奏も団体行動もバリバリにできるかっこいい高校生のお姉さんからめちゃくちゃ怒られるし、泣かれるし、とにかく自分の嫌なところや、できていないことが残酷なほど気持ちよく洗い出される部活だったように思う。

当時の私はまだとても無邪気で、それを指摘されるたびに死ぬほど反省していた。かわいいこどもだ。ミスを犯したことへの申し訳なさというか、できない自分が誰よりも許せなかったのだ。できない自分がここに存在していることが恥ずかしかった。それに、自分以上に機転がきいてサバサバ動ける先輩たちに、並大抵じゃない憧れも抱いていた。はやくあんなかっこいいお姉さんみたいになりたかったし、そうならなければいけない、と勝手に思っていた。そのマインドが功を奏したのか、数年たって慣れてくるとだんだん動けるようになり、視野も広がって「もっとこうすればいいのに」とか「何でここをこうしないんだろう」とか「何でそんな指示を出すんだろ」みたいな思春期らしい反発心も芽生えるようになった。

でもそれは全て、無能な自分でも必死に食らいついて、克服して、自分の思う「ザ・有能」になりたかった自分のおかげなのだ。自分が許せる自分になりたかった自分が、そうさせたのだ。


それから10年ほどが経ち、私はまた新しい環境で、今度は仕事という責任がともなう環境でこれまた無能をかましている。
しかし10年前とは違うのはおそらく、良い意味での「視界の見えてなさ」だろう。なりふり構わず何かにのめり込み、上達を目指して我が身を忘れて何かに打ち込むこと。できない自分を絶対に許さない激しさ。それが、あの時と比べるとやはり劣ってしまっている。

大人になると、できないことにも「できた方が良いこと」「死んでも自分には合わないこと」「できないし、できればやりたくないこと」など様々なグラデーションがあることを知り、器用に軽やかにそこから逃れる術を知ってしまう。もちろん、それがこの途方もない人生を生きていく方法にもになるから一概に否定はできない。
けれど、今の自分は、どうしてもあのできないこと=すべて克服すべきもの、さもなければ死ぬ、とさえ思っていたあの激しい13,14歳と比べてびっくりするほど衰えているような気がしている。当時の激しさをまだ忘れていないからこそ、余計に。

もちろん、大人とはいえまだまだ若者(ばか者)今の自分には「できた方が良いし、苦手だしやりたくないけどできるようにならないといけない」できないことの方が圧倒的に多い。それに、大人になってもやはり「これをできない自分が許せない」と静かに燃えている自分もちゃんといる。
しかし、自分ができないことに対する圧倒的な激しさや悔しさはもう、あの頃の自分には勝てっこないものになってしまっている。もうあの時以上に自分を許さないことができなくなっているのだ。すべてが弱い。

唇を噛み締めることもなく、悔しくて涙もこぼさず、自分ができないことを真顔で認めることができるようになってしまっている自らの成長ぶりが、さみしい。なによりも勝る「激しさ」が無邪気な私を突き動かしていた頃が恋しい。

さて、大人になった私はここから、どうやって激しさを取り戻し、あるいは激しさ以外のどんな方法で、無能から有能へと変わっていくのだろう。

私は今無能でくやしい。もっとできるようになりたいし、できるようにならなくちゃいけないことばかりだ。そして今以上におもしろい仕事をしたい。しないといけない。さあ、どんなモチベーションで、なにがそうさせるのだろうか。義務感?羞恥心?対抗心?

大人になってから、何かあたらしいことをはじめるとき、くさいセリフで言うとやはり「やるか、やらないか」の話になっていくのだろう。大人が成長する時の理屈は、シンプルなゆえにいざやろうとすると厳しい。

その果てしなさと、途方もなさと、めんどうくささと、無限の可能性よ。
それに怖じけながら、ときに呆然としながらも、今度は「大人のやり方で」無能な自分に食らいついていく自分なりのすべを、今はまだ必死に模索している最中だ。








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