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結婚して25年経った母が今、はじめて「自分のために」時間を過ごす5月を過ごしている

このタイトルを読んだだけで「オウ...」と気が重くなった人がいるかもしれない。大丈夫、私もその1人だ。

今日、ようやく母の日のプレゼントを広島の実家に送った。
ほんとうは当日に間に合うように送りたかったのだが、ゆっくり買い物に出かける時間をつくれずとうとう1週間が過ぎてしまった。
スピード優先で、家のまだ捨ててない薄い段ボールを引っ張り出して適当にそこに詰めた。ポストカードも貼って。

普段は...と言っても毎年東京にいるから、例年母の日はLINEでメッセージを入れるだけだった。
だが今年はなんと言っても社会人1年目。さすがにこれは何かブツを用意しないといけないだろうと思い、少し考えて水彩画の一式をプレゼントすることにした。

私が昨年コロナ後の「2度目の上京」をしてから、母は唐突に絵を描くことにハマり出した。生まれてこのかた、絵を描く母の姿など一回も見たことがなかっただけに、実家に帰省した時にみせてもらった彼女の絵はかなり衝撃的だった。今までひとつも絵を描いていなかった割に、かなり上手かったのだ。もちろん贔屓目に見ているところもあるだろうが、あそこには間違いなく、娘であるはずの私には絶対にできないだろうやわらかい発想の爆発の痕跡が残っていた。
材料は子どもが昔使っていた絵の具や、一時の用事で買って放置していたキラキラのペン。とにかく家にあるものを自由自在に使って心のままに描いた彼女の好きなヨーロッパの聖堂には、母の中で萌芽しつつある何かをしっかりと感じる作品になっていた。
小学生の頃の図工の成績が3とかの私からすると、何かのバグにしか思えない。なぜその才能を私に分けてくれなかったのだ...と言いそうになったが、自分には言葉が与えられていることを思い出して、グッと飲み込んだ。

「え、ママ、才能あるんじゃない?もっとちゃんと描いた方がいいよ」
と私は毎回言うのだが、必ず母は「ええ、そんなことないよ、全然下手よ」となぜか謙遜するのである。女友達同士によくある、あの本当か嘘か分からない微妙な謙遜だ。女のそういう謙遜はたいてい白々しく見つめるタイプの私なのだが、今回ばかりは心から惜しく感じられた。もっとデカくて白いキャンバスに、彼女が描きたいものを描きたいように描くべきだ、と本気で思った。

「母の日のプレゼントをあげるよ」とLINEで事前告知をしてから、すぐにこの謙遜のことを思い出した。今回は絶対に大人のための「お絵描きセット」をプレゼントしようと決めていたのだ。

やっとのことでプレゼントを用意した翌日、さていつ送ろうか...と考えていたときだった。母親からLINEがきた。
送られてきたのは綺麗に整備された実家の庭と、伐採されたツツジで作られた花束の写真。最近の母はガーデニングにもハマっているらしく、友達に花の苗木を集めてつくったお手製の「花束プランター」をプレゼントに送っているそうだ。次の仕事は花関係がいいとも言っていた。

そこでまた次のメッセージが来る。

「今朝はチャイコフスキーの5番を聴きながらお掃除したりして、結婚してから今がいちばん!ママがママの時間を満喫している5月って感じよー!4月までは何かと落ち着かなかったからね、幸せ感!毎日♪」

25、年......
何がなんでも今日すぐにあのプレゼントを贈らなければ、と思った。

両親は私が生まれる1年前に結婚しているから、今年で25年の夫婦になる。そんな母が今、25年経ってようやく自分の時間を持てているらしい。
25年ってもはや四半世紀じゃないか。一体どうなっているんだ、すごすぎでしょう、大変すぎでしょう。やばくないか?子育てって。

愛情を持ち続けて子供や家庭を育てることが普通じゃないとわかっているからこそ、ちりつもになっているであろう母の見えない苦労に、かける言葉を失う。
母は私以上にピュアで心優しい人間なので、きっと絵に描いたような母親でこれからもあり続けてくれるだろう。それは言い方を変えると、母親の世代で良しとされた母親像を、圧倒的な努力からの習慣で守り抜いてくれるということだ。

でも、今の世の中は少しちがう。少しずつだけど確実に、変わり始めている。

育児のために仕事を辞めた私の母。
やりたかったことをずっと我慢してきた母。
育児のために自分に必要なものすら買えず、ひたすらに子供に投資してきた母。

これからの時代、私が母親になるまでには、こういうひたすら自らの犠牲の上に成り立つ私のような母親像はどんどんアップデートされていくだろう。
今はまだ、みんなでその方法をあれやこれやと探している途中だ。

母の犠牲の上に一身の愛情を受けてここまで育った私が、自らの犠牲を最小限に抑えつつ、それでもなお母が私に注げてくれたような無条件の愛を誰かに注いでやれるだろうか?
母親のあまりに大きな犠牲の上に育った元気な私には、全く想像がつかない。受け取っているものが大きすぎて、偉大すぎて。そして私が知っている母はあの「母」しかいない。だから少し怖い。犠牲の上に成り立つ家族しか、私は知らない。
分からないのだ。

少し前に見たNetflixの『ヒヤマケンタロウの妊娠』の中で、男性妊娠をした檜山健太郎演じる斎藤工が「(子育てでは)誰も犠牲になっちゃいけないんだよ」と言って海外赴任のチャンスを諦めようとするパートナーの女性に諭すシーンがある。正直、かなりドキッとした。

誰も犠牲にならない家庭など、果たして存続するのだろうか。
成り立つのだろうか。子どもやパートナーはさみしくならないだろうか。将来何があっても腐らずやっていけるだけの一生分の愛情を、受け取り、与えることはできるのだろうか。だいいち、家族を持つことには、そんな努力が必要なのだろうか。努力しないといけないものなのだろうか。


母の多大な犠牲の上にノコノコ成長してきた私にはまだ検討もつかない。母が母のやりたいことを優先して、我慢もほどほどに自分の人生を自由に生きるような母だったら、おそらく今の私にはなっていなかっただろう。
自信があり、誰からも蔑まれてはいけないと無条件に思うことができ、どんな人間も自分を含めて愛されて当然だと思える精神的な安定性は、もしかすると母の絶望的な犠牲の上に成り立っているのかもしれない。
おおげさに聞こえるかもしれないけれど、私のアイデンティティに深く関わっていることなのだ、母があの母でいてくれたことは。

私の母親はすごかった。きっと旧世代の「母親」像を体現した最後の世代の母親だ。素直に、「おつかれさまでした。本当にご苦労様でした。ありがとう。」と言いたい。立派に「母親」という存在を死守してくれて、いつでもどこでも、今でさえ私の母親でいてくれる。

でも、私はおそらく、母と全く同じような母親にはなれない。
せっかく自ら生贄となって私を育ててくれたのに申し訳ない。でも私は彼女のようにはなれない。生贄にはなれない。したくても多分できない。
なのに正解も分からないまま、時代はどんどん流れていく。結婚が怖い。子どもや家庭を持つのが怖い。

水彩画セットを梱包した箱の中身は、そんな私の今までの感謝の気持ちと、ねぎらいの気持ちと、そして罪悪感のような気持ちでごちゃごちゃになって詰まっている。純粋で人の良い私の母は、そんな娘からのプレゼントもきっと純粋に喜んでくれるのだろう。笑ってくれるのだろう。それが嬉しくもあり、せつなくもある。

結婚後初めて自分のために使えるという、悲劇でも祝福でもある解放された時間に、彼女はどんな色を塗るだろうか。どんな絵を描くだろうか。
おそらく彼女から見れば豊かで何事にも代え難い25年、成熟した子から見れば甚だ災難に見える25年分のエネルギーを、とにかく全て出し切ってほしいと思う。それがたとえ真っ黒でも、真っ黄色でも、やさしい色をしていても、私は構わない。文句や嫌味など、子である私に言う権利はない。




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