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入れかわり、立ちかわり

あなたは運命というものを信じるだろうか。

私は信じる。
運命というとなんだか胡散くさいけれど、カジュアルにいえば「縁」。

言葉はなんでもいい。
どんな人生でも、出会うべき人は道の途中でそれぞれに用意されている。人は然るべき時に人と出会い、然るべき時、つまりその人との用事が済んだ時にきちんと別れる。そうなっていると思う。

どんなに求めても、逆にどんなに拒んでも、私たちにその流れを止めることはできない。無力だ。

気づいた時にはいつも、大きな流れのまっただなかにいる。あまりにも大きすぎて、渦中にいる時は気づかない。人生のステージを上がっていくに連れて昔の友人たちと疎遠になっていくのも、立派な「流れ」だ。
人生は基本的に、その全体をふんわりと自由の空気が漂っているように見えて(いや実際そうなんだけど)、実はある程度、生まれる前から用意されている部分も結構ある。それは人によってちがうし、比較なんてできないほどそれぞれの人生の中で及ぼす意味が偉大で、容赦ない。どうにも太刀打ちできない運命に出くわしたとき、いかに人間のエゴがちっぽけであるかに気付かされる。
私たちはそういう「よくわからないけど大きなもの」に流されて生きるしかないようだ。

私はなるべくその大きな流れを見るようにしている。人生にどんなタイミングでどんな人がやってきて去っていっても、態度を変えない。個々の出来事をみていちいち一喜一憂するのではなく、それを取り巻くもっと大きな流れを見る。すると、案外そこにきちんとしたシンプルな理由があったりする。理由がわかれば、納得がいくからだ。
というか、人生で納得の行かないことは起きないようになっていると思う。どんなに言い訳をしても、どんなに自分を哀れんでも。人生で不可解に思えたことはいくつもあったけど、実際に本当に本当に不可解だったことはひとつもない。後付けかもしれないけれど、全てに理由があり、後から振り返ってみれば然るべき理由があった。

人が人と会うべきだった理由、離れるべきだった理由。その事実だけはもうどうしようもないくらいに明白だ。人間のエゴではどうにもできない。
だから、いつでもどんなことも受け入れるようにする。過剰に騒いでも、悲しんでも、どうにもならないことだからだ。寄せてはかえす海の波に怒鳴る人はいない。

こんな考えを持つから、たまに冷酷だと思われることがある。たしかに、離れてゆく人の手をけっして引っ張ったりはしないし、離れていったとて過剰に落ち込むこともない。人生に突然やってきた人にもあっさり歓迎してしまう。私の人生は出入り自由だ。

でもこっちだって、何も無傷でいられるわけではない。新しい人との出会いや、人生でいまだ出会ったことのない新しいタイプの人間への対応や調整には相当な気を遣うし、人との別れはそれが然るべきタイミングであったとはいえ、しばらくは心のリハビリを必要とする。
死や失恋、転居などで親しい人ともう一生出会えなくなるのであれば尚更だ。それがいくら必要なこととはいえ、人との別れよりこの世で苦しいものはないんじゃないかと思うくらに苦しい。しばらくは気持ちも海底の底を這うような気持ちだ。だから私は血も涙もない人間ではない。しっかり喜んでいるし、しっかり悲しんでもいる。

もうひとつ。
人生で出会うべき人は、かならず「向こう」から不意打ちでやってくる。
「向こう」とは、必ずしも相手からのアクションがくるという意味ではない。自分の中で突然湧いて出てくる直感かもしれないし、会った瞬間に会話がスムーズにできるとか、連絡しようと思った時に連絡がくるとか、そういう小さなサインにやってきているかもしれない。
いずれにせよ、自分が、用意に用意を重ねてこねくりまわしてつかんだ縁は大抵「運命ではない」ということだ。ガチガチに整形した縁は、うまく行かないようにできている。まるで「そっちじゃない」と運命の神様に補導されているかのように。私の場合、過去何回か試したことのあるマッチングアプリがそうだった。アプリで本当に「運命の人」を見つけている人が身近にも割といるから、一概には言えないけれど、私の場合のマッチングアプリはガチガチの整形的な縁しかつくれなかった。だからすぐに崩れた。
最高記録は1,2ヶ月連絡が続いて2回デートに行った人。最後のデートで東京タワーの周りを謎に20,000歩くらい歩いた結果、お互いヘトヘトになってしまった。くたびれたのだ。それ以来、彼とは二度と連絡をすることはなかった。まあ、そんな感じで、出会うべき人と、言ってみれば人生に必要のなかった人の差はあまりにも顕著だ。
そして本当に必要な人であれば、捨てても捨ててもまたついてくるものだ。


今観ている韓ドラ『その年、私たちは』がそうだ。
詳細は省くが、とにかく主人公の2人がお互いを避けようとすればするほど、街中でバッタリ鉢合わせになったり、仕事で一緒になったりする。こっちの場合はどうやら、運命の神様がこの人だよと指図しているみたいだ。
離れようと思ってもまた必ず戻ってくる。離れることができない。
韓ドラとはいえ、私はこういう魂の強い結びつきが嘘だとは思えない。あると思う。

人生の縁の流れは本当におもしろい。愉快なフォークダンスをしているみたいだ。
高校3年生の時のフォークダンスを思い出す。大きな円を作り、音楽のリズムに合わせて向かってくる人たちとハイタッチをしながら流れていく。その流れを進んでいくのはこの体を持つ自分自身なのに、その流れの良さを客観的に眺めている自分もいる。

さて、この取り止めのない抽象的な内容をどう収めようか。
すこし考えて、人との出会いで思い出した、これまた別の韓国ドラに出てきた美しい韓国の詩を紹介して終わりにしたい。
イ・ミンギ主演の『この恋は初めてだから 〜Because This is My First Life』に出てくる、キム・ミンスの「訪問客」という詩だ。
以下は実際のドラマの字幕の引用。

人が訪れることは
一大事なのだ
その人の 過去も 現在も
そして 未来も 
共にやってくるからだ
人生丸ごと訪れるのだから
心はもろく
壊れたことがあるかもしれない
その心が
やってくる
『この恋は初めてだから 11話』

人生の登場人物は入れかわり、立ちかわり。その采配を決めることはできないけれど、どんな人を人生に招きたいかはある程度コントロールできると思う。だからこそ自分の芯を磨いて、内側を高める余地はある。類は友を呼ぶからだ。

変わっていくことを恐れず、常に大きな流れに身を任せて生きていきたい。それが1番ストレスなく、この生をいちばん有意義にまっとうできる方法だと思うからだ。

……という、人との縁についての話を誰かにそっと言いたくて。今日はこんな内容を書きました。





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