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「世界」のデッサン

5月18日、昨日は「ことば」の日だったらしい。

それにちなみ、毎週聞いているラジオから好きなバンド「MONO NO AWARE」の名曲『言葉がなかったら』が流れてきた。

言葉になったら
嘘になってしまうとしても
ギリギリのところまで表してたいんだ

私がMONO NO AWAREを好きなのは、サウンドはもちろん歌詞がすばらしいと思うからだ。普段私たちがスルーしてしまうような、言葉にすらなっていない感情や気持ちを丁寧に、丁寧に取り出してきているような気がする。まるで石を少しずつ削って形にするような、彫刻的言葉。ただの大きな岩でも、作詞作曲を担当しているボーカル、玉置周啓さんの手に掛かれば岩に形と名前が与えられる。その形、その着眼点を私は美しいと思う。

一方の私は、そこら辺の道に落ちている石や岩を拾って形に削っていくのがとても苦手だ。掴めないのだ。それを克服するべく、最近は原因を「ありのままの外の世界を見ていないから」にひとまず置いている。世界を見る目が雑だからこそ、掬えていない。

そのために何をし始めたかというと、デッサンだ。絵。

先週から、ワインの瓶と空き缶のデッサンを始めた。

こちらは先週、day1の進捗。



「ワインはこんな形だろう」「缶の蓋は丸いよな」という道理や常識を一切捨てて、ただ見たままの形を描く。よく見ると間の形はまん丸な円ではなく薄い楕円になっているし、ワインの底の角はカクカクとしておらず緩やかに丸みを帯びている。

頭で理解している、「〇〇とはこうあって当然だ」を一度脇におき、ただ見たものを見えるように描くというのは、やってみてわかったことだが非常に難しい。特に、光からくる陰影。ザルな目で見れば影も光も全く見えてこず、全ては均一に描きたくなるのだが、デッサンの世界ではそれは御法度らしい。光がどこからどの面にあたっているのか、それによってどこが一番明るくなっているのか、影はどこが一番濃いかまで、この目で見なければいけない。

デッサンをしていると、いかに自分が世界を雑に、目ではなく頭だけで見ていたかがわかる。頭だけで描こうとすると、そのデッサンは恐ろしく「それではない」形になる。下手になる。

非常に良いトレーニングだ、特に頭でっかちになっていた私にとって。
世界をありのまま見つめて、ただありのまま描写する。この筋肉を鍛えることによって、さきの玉置さんのような彫刻的言葉の取り出し方に近づける気がするのだ。感情や感覚、風景や人を、ただありのまま見つめ、正確に言葉にする。その手始めに、まずは嘘が全くつけない、「絵」で鍛錬を重ねる。
これから毎週デッサンをしようと思っている。

こちらは昨日、day2の進捗。早くもコツ、モノの見方がわかってきたかもしれない。正直、かなり楽しい。



缶がうまく描けたので、ワインの粗が目立つようになった。
もちろんこんな上達はひとりだけでできるわけではなく、デッサンがべらぼうに上手い藝大出の超強力な師匠に教えてもらいながら描いている。その師匠の教え方、タイミングがあまりにも素晴らしいので、どちらかというと美術の時間は苦手だった私でも大躍進できそうだ。美術の入り口に立ち、人生で初めて芸術のおもしろさに触れ始めているようにも思う。純粋な動機で何かを勉強するのはこんなにも面白いのか。

進捗はまた随時書き残していきたい。
それによって言葉にどのような変化があったかも見ていこう。

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