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生来のガサツ

生来のガサツ度合いをどう直したら良いのかわからないまま、とうとう24年が経とうとしている。そろそろまずい気がしてきてきた。

小さい頃から、それはそれはもう......親に「ガサツすぎる!もっと丁寧にしなさい!!!」と言われる人間だった。周りの几帳面な友人たちが当たり前のようにプリントの端と端をピッタリあわせて折ったり、体操服をきれいに畳んでしまうのを横目に見、惚れ惚れとしながら自分はわしゃわしゃと「詰めていた」記憶がある。
しかも、なぜか男子だけはそんなガサツさが許されていて、女子はみんななんでも几帳面にこなすことを求められていたように思う。ガサツな女子はいなかったのだ。わしゃわしゃとプリントがしまえる男子が羨ましかったし、今思えば私も勇気を持ってそっちに振り切ればよかったかな、とすら思う。

どこで丁寧にするべきか、いまだによくわからない。上品な人たちに指摘されてはじめて気づく。「え、そこ気にするポイントなの?」と。
コインの裏表で考えれば、ガサツの裏にあるのは面倒くさがりな性質だ。丁寧にすることが面倒くさいし、ガサツを直すことすら面倒くさい。結果、放っておいたままここまでやってきてしまった感がある。今もあらゆることが面倒くさいし、雑だ。

四角い部屋はもちろん丸く掃くし、図書館の本の角にひとつもシワをつけることなくちゃんと期限内に返却できたことは......ないかもしれない。もちろん、ページや角を折ったり原型を止めないほど汚くして戻すことはない。たぶんカバンという洗濯機の中でぐるぐる回っているんだと思う。
正月に帰省した時には、うっかり書類の入った封筒を手で開けたことがあった。いちいちハサミを持ってきて綺麗に封を切ることが本当に面倒なので、封筒はビリビリと手でちぎる癖がある。実家でそれをやった時には母親に注意されたし、中身の書類も少し破れたような気がする。
その他にもここに書けないレベルで諸々。

......なんだ、この恥さらしな回。ネガキャンにも程があるので、これ以上は保身のために控えておくとしたいっ!!!

さて、このガサツさは日常の小さな所作だけで済むお話かと思いきや、厄介なことに、どうやら自分が大好きな文章を書く時にも影響を及ぼしてくるらしいのだ。今、それが本当に本当に本当に困っている。書類はちぎれても構わない(構わなくない)が、文章が雑で読みにくいのは我ながら本当に許せない。はじめて雑な自分が心底いやだと思うようになった。

先週の土曜日、バトンズの学校を卒業した。ライティングを学ぶスクールで、プロのライターさんからみっちりと取材・執筆・推敲を学んだ半年間だった。講義後は毎回課題を出され、自分が書いた原稿にびっしりと添削とフィードバックがついて戻ってくる。
その記念すべき最終課題のフィードバックにはとうとう、「熱い想いが先にきてて、筆が追いついてないですね」といったことを書かれてしまった。もちろん、もっとやさしい言い回しで。そして「細かいお作法も雑になってますね」といったことも書かれていた。

あ〜〜〜〜〜。出た、体操服。小学生の体操服がフラッシュバックした。「体操服ってちゃんと畳むものなんだ」とはじめて気づいた時の、あの目から鱗な感覚。フィードバックには、体操服の畳み方よりももっと細かいことが相変わらず書かれていた。「あ、そこって気にするべきポイントだったんだ!」という感じの。

もうすぐ社会に出ようかというところ、「わたし、生来のガサツなんで」という免罪符はもはや使えなくなっている。自分が好きで続けようとしているものであればなおさらだ。書くことが好きであればこそ、自分がほったからしにしてきた雑な性格に腹立たしい気分になってくる。

言葉はほんらい、とってもとってもデリケートな生き物だ。「愛」「平和」などデカい意味を持つ言葉であればあるほど、人によって理解や認識が全く異なる。それに言葉はどうしても、並んだ時に浮かびあがってくる意味で勝負が決まってしまう。読める、の先に「わかる」が来なければ言葉が介入する意味がなくなるのだ。私たちが言葉に賭ける意味がなくなってしまう。
たまに「こんなガサツな自分が、言葉を好きだなんて堂々と言って良いんだろうか?」とさえ思う。
でも、他の方法ではもっと無理だろう。絵は細かいところを塗り外すし、音楽は楽器の扱いがマズいし、ダンスで表現するのもちょっとどころか全然違う。ガサツな自分が、その場にあるものをパッと手に取ったのがたまたま言葉だったのだろう。


しかし執筆のいいところは、世に出すまで何度も書き直せるところにある。(と、古賀さんも言っていた)
どんだけガサツで致命的なミスをしていても、記事を公開するまでなら何度でも良い方向に書き直せる。これが雑な人間にとってどんだけありがたいことか。原稿に即興性は求められないから、ミスをミスのまま出す可能性がひくくなるのだ。

そう考えると、大雑把な私だってできる気がしてくる。いや、というより原稿の中だけはせめて几帳面であれよ、と思う。
逃げてきた生来のガサツさを直したい。原稿の中では己の弱さに打ち勝ちたいし、立ち向かいたい。それくらいに、私は書くことがどうしても好きだ。

そんなことを思った最終講義なのでした。
あ、noteは別です。トレーニングスペースなので......


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