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カレーぎらい

小さい頃から、カレーという食べ物が好きになれない。

理由はもう明確で、昔からカレーが出てくる日は母親が究極に疲れているというサインになっていたからだ。我が家でのカレーは「最高の手抜きメニュー」。母が限界を迎えている時のメニューなので当然具もすくなく、いっしょに食べる母の疲労感もすごく、母が暗いので家全体も暗い。とにかくカレーの日には良い思い出がない。

家庭以外でも良い思い出がない。小学校の頃に野外で作らされたカレーは食えるものじゃなかったし、東京に出てきてスープカレーという概念を知らずに友達と食べた時にはものすごく騙されたような気分にもなった。味がきらいというよりとにかくカレーにしみこんでしまった思い出や感覚そのものがきらいで、今も拭えないでいる。

なぜ母の手抜きが嫌かというとそれがマズイからとかではなく、自分の母親にはいつも元気で笑顔でいてほしかったからなのだ。今思えば無茶な幻想だったと思うけれど、母親にはいつだってその胸に飛び込めるくらいニコニコ、ふわふわ、ぽかぽかしていてほしかった。できれば疲れているところや寝ているところは見たくなかったし、料理はせめて「疲労感」が滲み出ていないでほしかった。私は母親に完璧な神であることを求めていた。

今も過去も私の母は「母親」として完璧で神的存在でいてくれているのだけど、子育てがマックスに忙しかった当時の母親は、子どもながらに見ていてつらいものがあった。土日は大体カレーだった。

だから今でも、カレーを見るとあの時「見たくなかった」母親の極度の疲労を思い出して憂鬱な気分になってしまう。東京のおしゃれな若い人たちがみんなこぞってスパイスカレーを食べに行く気持ちが全然わからない。母親の疲れた顔、怒られた記憶を思い出さないのだろうか?

今は当時の母親にものすごく同情するし、カレーに逃げた母親は何も間違っていないし、たぶん私も、神的母親を求めてしまうのは本能的にしょうがなかったことだとは思う。でも母と子、双方にどうすることもできない溝みたいなものの中に、私はとてつもなく深い育児の闇を感じる。血のつながった親子である以前に、私たちはひとりの人と人でしかない。
もちろん私のカレーぎらいになる経緯なんて、この大変な世間から見たらかわいいでしかないだろう。でも大なり小なり、どんなに素晴らしい母親とよくできた子どもの間でも、歪みは存在している。外からは見えていないだけで。本人たちが気づいていないだけで。

母と子の関係が人と人との関係になる瞬間の気まずさ、気持ち悪さ。まるで両親のセックスを見ているような気持ちになるのは私だけだろうか。(実際に見たことはないけど。)

話がそれた。ともかく、私はカレーがきらいだ。そして残酷にも、気の毒にも、私のカレーぎらいは母親のせいだと言えてしまう。
しかしそれが「親子」でありながら同時に「人と人」との関係性でもあることのゆがみだということも、大人になった今、とうとうわかるようになってしまっている。


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