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国際女性デー

いまから100年以上前の今日、ニューヨークで女性労働者による参政権獲得のためのデモ活動が起こった。その日をのちに、国際女性デーと言うようになったのだそうだ。

桃の節句に引き続き、さいきんはよく女性という生き物のことを考える。
ついこの前も書いたが、私は女のことが大好きだ。性的指向はなぜか異性なのだが、好きな人間性のタイプや生物学的なつよさのことを加味して、総合的にどちらが好きかと聞かれれば、私はまちがいなく女と答えるだろう。
もし自分以外男しかいない世界と、女しかいない世界のどちらに住むか選べと言われたら、私は間髪入れずに女と答える。色々とめんどうなことも起こりそうだが、自分だったら適当に逃げ道をつくって生きていける気がする。

性的な感情につながることなく、こんなに素敵な生物と仲良くできることを純粋に嬉しく思う。性的欲求は、多少なりとも人間を見る真実の目を曇らせるからだ。それが悪いとは思わないが。

今回の人生ゲームに、自分が女という設定を選んだ意味を考える。

...という、暇人の極みのような考え事をたまにする。

よくわからない。

メイクはめんどくさくて興味がない。
ファッションは好きだけど、もし男になってもお洒落には多少の関心を持っているような気がする。だからスカートを履けることは決定打にはならない。
ネイルもめんどくさい。
媚とか「かわいい」というのもよくわからない。

女として女を生きれることを心底喜んでいるくせに、自分がなぜ女として生まれた意味はよくわかってない。これでもし私が愛嬌を振り撒くのが上手い人間だったら、愛嬌を存分に発揮するために女性になったのかも、と思えるだろう。でもそうではない。これといって、私は日本で歓迎されやすい何かをもっている女ではない。
もしかして、女性として女性を知るために、私は女として生まれてきたのかもしれない。

こんなに女大好きと叫んでいる私だけど、つい最近までは女で生まれてよかったことがよくわからずにいた。
日本の若い女性は割と結構な頻度で無条件になめられるし、なぜか社会は私たちに過保護だし、何かと矯正を強いてくるし、男の方が金を稼いでいるし、少し上のママ世代はみんなこの国で子供を産み育てることの絶望を口にしているのをみる。表面だけを見れば、今も未来も、女として生きていくにはあまり希望が持てない。社会的にみた時の「女性」は、まだまだ苦しい状況にいる。

そんな女の生に対する負い目が180度変わったのが、これまた私の師匠、吉本ばなな姉貴なのだ。
イルカという小説を、この前読んだ。

あらすじはこう書かれている。

恋人と初めて結ばれたあと、東京を離れ、傷ついた女性たちが集う海辺の寺へ向かった小説家キミコ。外の世界から切り離された、忙しくも静かな生活。その後訪れた別荘で、キミコは自分が妊娠していることを思いがけない人物から告げられる。まだこの世にやってきていないある魂との出会いを、やさしく、繊細に描いた長編小説。

吉本ばななの作品の中で、妊娠前〜出産にドストライクに焦点を当てたものはひょっとこの『イルカ』だけかもしれない。
主人公の女性が、言ってしまえば入籍することなく子供を授かり育てていくというお話なのだが、(相手との男性とは良好で、良い人だ。なんせ吉本ばなな師匠なので、ここで泥沼にはならないのだが、男の方の女性関係はややこしい。)
妊娠がはじまる直前〜直後の女性の、もはや神秘としか言いようのない身体の変貌、そしてそれを本能的に、ときにスピリチュアルに「わかって」しまう女性の感覚を、これほどまでに丁寧に繊細に描いた小説はないんじゃないかと思う。吉本ばなな姉貴のことだし、なんせ腹の中に小さな生死を抱えている状態の物語だから、やっぱり世界観はちょっと第六感的になってはいる。でも、逆にそれが、私のような鈍感でまだ女のおの字もわかっていないような少女にとっても目の覚めるような表現になっているのだ。

私は確かに少女で、子供を持ったことはない。でもそんなことをゆうに超えて、この小説には、同じ子宮をもつ生物すべてが共有しているらしい何かを、確実に感じることができた。それにひどく感動してしまった。

書いてあることが、まるで手にとるようにわかった。
妊娠初期にストレスな環境にいて、夢の中で必死に「危ない」と体が教えて声をあげてきてくれること、普段はなんとも思わなかった「死」の存在に異様に敏感になること、普通であれば事後的にどのセックスで子供ができたのかなんとなくわかることも、ぜんぶ「ああ、そうなんだろうな。」と自然に納得できた。それくらい、女の身体にとって、自分の体で別の生命を宿すことは計り知れないほど繊細で、パワフルで、感覚的にわかってしまうものなのだと思う。

この『イルカ』を読んではじめて、私は自分が子宮を持った女であることを心から誇りに思った。女でよかった。いざとなれば子供を自分の身体から産める体を持っていてよかった。妊娠から出産という、プリミティブな経験ができる可能性が0ではなくてよかった。
もちろん、途中で病気をしたり子供に恵まれなかったりで子供を産めない可能性は大いにある。でも少なくとも今の段階では、自分が自分の体の中で子供を育て、産める体にある。可能性が閉ざされていない。
その神秘的で根源的な特権性が、私にはとてもうれさい。

よくよく考えてみると、私もあなたも街を歩いている人も、みんな女の体から生まれた人間だ。母親のお腹の中で育てられ、母親の股を通って外に出てくることは、全ての人類に共通する数少ない共通項のひとつと言える。海という漢字には「母」が入っているが、これほど示唆的なことはない。生命の根源としての海、それはつまり母であり、人みな女から生まれてきているかからだ。私には、運が良ければその生命の源の一員になれる可能性がある。海の一員になれる可能性がある。
そういえば中学生のころ、命を考える時間に、とれたての(産後まもない)本物の胎盤を触るという不思議な授業があった。あの時、はじめて見て触ったグロテスクな胎盤から、強い潮の匂いがしたことをよく覚えている。あれは海の、磯の香りだった。

社会的な「女性」の観点で見れば現状は甚だ絶望に等しいけれど、私は吉本ばななの『イルカ』を読んで、自分が女であることを誇りに思ったことには間違いない。

そのどこがいいかって、今巷に溢れている「自立した女性」「経済的余裕がある」「バリキャリ」「お洒落やカワイイをたのしむ」という資本主義的、社会的なラベリングの話ではないことにつきる。

そういうラベルで「女性のよさ・魅力」を語ろうとすると、大体、苦しくなってくる。ラベルは所詮時間の経過によって変わるもの、トレンドだからだ。今はバリキャリが女性のロールモデルや良いとされる像として描かれているかもしれないけど、一周回って今度はそういう資本主義に迎合しない新しい女性の歩き方がもてはやされるようになるかもしれない。

私が個人的に惹かれるのは、そういう時代とともに消費されていく女性のイメージ像ではなく、いつの時代も普遍的な、女性が女性として生きる時に発生する、原始的な魅力のほう。
だから、私は女のことが、無条件に好きなのだ。

私の私生活の周りには、一人でもつよくたくましく、頭もよく、自分の好きなことに貪欲に打ち込む勇敢な女性が本当に多い。やっていることや職業、学歴などは関係ない。精神が、そうなのだ。

今、身の回りの特に好きな女性たちの顔を、ひとりずつ思い浮かべている。
ビジュアルだけでなく存在や精神性がキュートであり、あっと息が止まるほど美しく、丸く、あたたかいひとたち。

私は女性のことが大好きだ。自分のことを認めて、少しでも好きになってあげてほしい。やりたいことをやりたい時にできる世界になってほしい。

世の中の女性が、どうか明日も幸せであってほしいと強く願う。



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